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徒然なるままに山と歴史を・・・

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2025年11月 愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。

その7.西林寺 その8.浄瑠璃寺 です。

 

 

松山の中心から南東へ行き、重信川を渡る手前に、清滝山安養院西林寺(真言宗豊山派)があります。四国48番札所です。

 

天保14(1843)年に再建された仁王門には、清滝山の大きな扁額が掛けられています。

 

仁王門の屋根にはシャチがいます。江戸中期に火災で焼失してしまったことから、二度と火災に遭わないように、ということなのでしょうか。仁王様は前に金網が張られてよく見えません。

 

仁王門をくぐると正面に本堂、左手に鐘楼があります。

 

鐘楼の屋根には龍がいました。瓦の鬼の部分には「西」の文字がついています。

 

正面の本堂へ行ってみます。

 

本堂にも龍がいて両端にはシャチがいました。その下には鬼、更に下には獅子がいました。

 

本堂の右には弘法大師を祀るお堂が並んでいます。

 

更に参道に面して阿弥陀堂や遍照殿が並んでいます。

 

仁王門の前の小さな橋を渡った所にお堂がありました。こちらは長善寺という別のお寺の大師堂でした。石燈籠の手前に石碑があります。これは江戸中期の大飢饉で亡くなった人を慰霊するために建立されたものです。

 

こちらの大師堂の屋根にも鬼や獅子がいました。

 

橋を渡って仁王門の左手前の駐車場に戻って、10分ちょっとのお参りは終了です。

 

西林寺からずっと南下して久万高原の方へ向かっていくと医王山養珠院浄瑠璃寺(真言宗豊山派)があります。四国46番札所です。

裏側にある駐車場から大師堂の横を抜けて行きます。

 

浄瑠璃寺は寺域全体が森になっていて、お堂の全景を見ることができません。

 

大師堂には弘法と書かれた扁額が掛かっています。

 

お大師様の顔は微妙に見えませんでした。

 

大師堂から木橋を渡って直接本堂へ行けます。

 

本堂の外陣はオープンな感じで、戸や壁はありません。

 

梁の上から誰かがのぞいていました。

 

内陣の厨子の扉は閉まっているのでご本尊は拝めません。

 

向拝側面の梁の上には細かい彫刻があります。

 

反対側にはウサギがいました。

 

向拝虹梁の上には鶴がいました。

 

本堂の正面も森でした。右側のイブキの巨木は、樹齢1000年で市の天然記念物に指定されています。

10分程のお参りで駐車場に戻ります。

 

 

【八坂寺】中伊予のパワースポットを巡る旅 9 に続く・・・

2025年11月 愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。

その5.湯神社 その6.道後温泉 です。

 

 

道後温泉駐車場は冠山と呼ばれる丘の上にあります。駐車場の一角に湯神社がありますが、その前に境内社の中嶋神社があります。

 

中嶋神社は四国の製菓業者が、兵庫県豊岡市の中嶋神社を勧請して昭和32年に創建された神社です。ご祭神の田道間守(たじまもり)命は天皇の命でタチバナを採りに行った人で、橘はかつては菓子とされていたことから菓子の神様とされています。

向拝には両側に鳩がいました。

 

拝殿の中はガラ〜ンとしていて、周囲は格子になっているので明るい感じです。

 

本殿を囲む玉垣は塀になっているので、よく見えませんでした。

 

横には児守社がありました。江戸末期に疫病が流行った時に鎮める為に勧請された神社です。

 

中島神社の横に延喜式内社である湯神社があります。

 

中嶋神社と同じように本殿が塀で囲まれていて、少し離れないと見えません。

 

湯神社のある冠山の下に道後温泉本館があります。

 

冠山の北端に無料の足湯があって、道後温泉本館を見下ろしながら温まることができます。

 

冠山から坂と階段を下ってきました。上に足湯が見えます。

 

道後温泉本館前は大勢の観光客で賑わっています。

 

本館の北側にある三層楼の上には白鷺がいます。道後温泉は白鷺が傷を癒したのに始まるという長い歴史を持つ温泉で、本館は国重文に指定されています。

 

本館の正面から商店街のアーケードが続いています。

 

飲食店や土産物屋が連なる道をには日本人と同じくらいの韓国人がいました。

 

まっすぐ行くとアーケードは左に曲がりますが、まっすぐ行くと椿の湯と、そのすぐ先に飛鳥乃温泉があります。本館と同様日帰り温泉施設です。

 

元の道に戻りずっと行くと道後温泉駅に出ます。大正時代の駅舎を復元したものです。

 

駅前に展示されている坊ちゃん列車は、かつて走っていた蒸気機関車を復元した車両で、現在ディーゼル機関で運行しています。

 

駅に行ってみます。

 

ホームでウロウロしていたら下り列車が入ってきました。

 

アーケードの方に戻ります。

 

アーケードの前に石燈籠があります。その間の道の先には伊佐爾波神社の大鳥居が見えました。

 

石燈籠の横の小さな石橋の先に坊ちゃんカラクリ時計があります。この辺りはかつての池を埋め立てた放生園と呼ばれています。

 

カラクリ時計の隣にも足湯があります。

 

足湯の温泉は道後温泉でかつて使われていた湯釜を移設したものです。

 

坊ちゃん列車の前のバス停も、ちょっとレトロな感じになっていました。

 

アーケートを抜けて本館の横を通って冠山の駐車場に戻ります。

 

駐車場への階段の入口には湯神社の鳥居があります。

 

 

【西林寺・浄瑠璃寺】中伊予のパワースポットを巡る旅 7・8 に続く・・・

2025年11月 愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。

その4.伊佐爾波神社 です。

 

 

道後温泉や湯築城の近くに伊佐爾波神社があります。路面電車の道後温泉駅の近くにある大鳥居の先に、参道がまっすぐ伸びています。

 

参道の先は石段になっています。しかし車は右の道路で上に行くことができます。

 

神社の裏の駐車場から社殿の横を抜けてさっきの石段の上に出ると、駅の方が見通せました。

 

石段の前から振り返ると、左右に回廊が続く楼門があります。清和天皇の時代に創建された式内社の風格があります。

 

楼門には八幡宮の扁額が掛かかっています。社殿は30年程前に改修され、色彩もまださめていません。唐破風の上には獅子がいました。

 

門の左右には随神がいました。

 

楼門をくぐると申殿(もうしどの)です。梁には湯月八幡宮の扁額が掛けられています。

 

申殿の左側には常盤新田霊社が建っています。向かい合うように高良玉垂社小さなお社が建っています。常盤新田霊社にはその名の通り新田義貞の子や甥が祀られていて、高良玉垂社には武内宿禰が祀られています。

 

回廊を回ってみます。

 

楼門・申殿・本殿がつながっています。これの社殿と透かし塀・回廊は寛文7(1667)年に建てられたもので、国重文に指定されています。こちらにあるお社は高良玉垂社です。

 

八幡造りの本殿は内陣と外陣に分かれています。

 

海老虹梁や手挟みにはカラフルな装飾がありました。

 

回廊の奥には大きな額が並んでいました。左の四十七士像の額縁には享保や天明といった江戸時代の元号が書かれていました。その先にも江戸時代の額が並んでいました。

 

回廊の蟇股にも彫刻があり、そこには大黒様が彫られていました。

 

ぐるっと回ってきました。

 

楼門を出て回廊に沿って駐車場に戻ります。

 

回廊の途中にも門があります。唐破風の上には布袋様のような不思議な方がいました。20分程の参拝でした。

 

 

 【湯神社・道後温泉】中伊予のパワースポットを巡る旅 5・6 に続く・・・

2025年11月 愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。

その3.石手寺 です。

 

 

松山の市街地の東の端の方に、熊野山虚空蔵院石手寺(真言宗豊山派)があります。四国八十八ヶ所の51番札所です。

 

県道沿いの水路を渡った所に、お遍路さんの元祖の衛門三郎の石像があります。

四国を行脚する弘法大師に会う為に四国を20回も回り、21回目に逆回りで回って、死の間際にようやく弘法大師に会うことができました。その際に弘法大師が石に衛門三郎と刻んで手渡したことから、寺号が安養寺から石手寺と改められたと言われています。衛門三郎は伊予の豪族河野氏の一族です。

 

県道から本堂へ続くまっすぐな参道には、屋根がかかっています。

 

参道の左右にはお土産屋さんなどが並んでいますが、ほとんど閉まっていました。ずっと行くと右側に地蔵院という塔頭がありました。

 

地蔵院に隣接して変わったお堂がありました。

 

地蔵院の先に仁王門があります。文保2(1318)年に建立されたもので国宝に指定されています。仁王様も鎌倉時代の作で国重文にしていされていますが、金網が張ってあって近くからだとよく見えません。この大きな楼門には熊野山と書かれた大きな扁額が掛けられています。

 

蟇股には月見団子のような如意宝珠が彫られていました。

 

仁王門をくぐると左の方に阿弥陀堂があります。

 

正面奥には本堂が建っています。

 

すぐ右には茶堂が建っています。

 

茶堂には休息所と張り紙がしてありました。向拝の唐破風の上では、獅子が逆立ちしています。

 

扁額も逆立ちした獅子が支えています。

 

茶堂の奥には鐘楼が建っています。鎌倉幕府が滅亡した元弘3(1333)年に再建され、国重文に指定されています。

 

阿弥陀堂をのぞいてみました。

 

本堂の正面には、煩悩を打ち砕く巨大な三鈷杵が立っていました。

 

本堂は平安時代の永久2(1114)年に再建されたもので、これも国重文です。ここも金網があってご本尊の阿弥陀如来はよく見えませんでした。

 

本堂の右の方に行ってみます。

 

右へ行った先には一切経堂と護摩堂が並んでいました。右の護摩堂も国重文で、室町時代前期に建てられました。

 

更に左奥には大師堂があります。

 

大師堂には弘法大師の灌頂名である遍照金剛と書かれた扁額が掛けられています。

 

大師堂には当然弘法大師の像があります。

 

大師堂の左にはたくさんの仏像が並んでいます。ここは本来絵馬が奉納される絵馬堂です。

 

仏像たちの奥にもお堂がありました。

 

後ろへ行ってみると階段の上に熊野十二所権現堂があります。石手寺は神亀5(728)年に十二所権現を祀ったことに始まるお寺なので、ここが発祥と言えます。

 

本堂の後ろにもお堂がありました。

 

本堂の後ろを回って左側に行ってみると曼荼羅と書かれたお堂があります。奥へ行ってみます。

 

お堂の先にマントラ洞窟があります。この奥にも四国八十八ヶ所の仏像が並んでいます。

 

本堂の左にも八十八ヶ所巡りがあります。階段に沿って各寺院のご本尊がいます。

 

階段の先へ行ってみます。

 

レンガ造りっぽい感じのお堂がありました。お堂の手前にはミャンマー語が刻まれた石板がありました。戦時中にミャンマーで亡くなった方の慰霊塔でした。

 

屋根にはパゴダが乗っていて、東南アジアっぽい感じになっていました。

 

慰霊塔の先へ行ってみると小さなお堂の上にもお堂があったので、行ってみることにします。

 

慰霊塔の後ろに回っていきます。

 

細い道の途中にはいくつか石仏があります。どれも東南アジアの弁天様のような感じです。

 

坂の先には観音堂があります。お堂の下はコンクリート製の掛け造りです。

 

観音堂の中の壁はぐるっと仏画が取り囲んでいます。

 

観音堂からは慰霊塔のパゴダを同じ高さから見られますが、だいぶ枝葉が茂って見づらくなっていました。

 

観音堂の先へ細い坂道が続いていたので行ってみると階段の途中に出ました。

 

階段を上っていくと右手にお堂がありました。

 

お堂の右には古墳がありました。

 

古墳は石室内部が見られ、湯呑茶碗がありました。石室の前には六番札所の安楽寺の石仏がいました。

 

お堂の先の階段を更に登ってきます。

 

階段の先は展望台になっていましたが、周囲は枝葉が茂っていて、ベンチの上に立つとようやくビルの上の方が見える程度でした。

 

展望台の先は下り坂になりますが、ここで引き返します。石手寺の裏を伊佐爾波神社に抜ける道路を外人さんが歩いていましたが、ここを通って奥にある西安大仏に向かう人だったようです。

 

階段の路肩にも四国札所の石仏が並んでいます。

 

四国1番霊山寺の石仏の先は本堂です。

 

本堂の下まで戻ってきました。三重塔は改修工事中なので見ることはできませんでした。

 

仁王門をくぐっていきます。こちら側には大きな額が掛かっていました。動物に乗る弁天様のようです。

 

仁王門を出たところから小径がまっすぐ続いています。茶堂の後ろには瓦が埋め込まれた土塀がありました。

 

まっすぐな参道はここで行き止りです。50分程の境内散策でした。

 

 

【伊佐爾波神社】中伊予のパワースポットを巡る旅 4 に続く・・・

2025年11月 愛媛県中部のパワースポットを巡ってきました。

その2.湯築城跡 です。

 

 

松山城の少し東、道後温泉のすぐ近くに湯築城跡があります。搦手口近くに駐車場があります。

 

搦手門の土塁の間を抜けるとすぐ右に資料館があります。中にいたガイドさんに促されて、まず元NHKアナの松平さんが説明あうるビデオを見て、展示資料の説明をしてもらいました。

 

資料館を出ると、すぐ先に門があります。

 

門をくぐるとすぐに復元された建物があります。このエリアは下級武士団の住居があったところです。

 

玄関を入ると土間の向こうの台所で、使用人がお茶の支度をしていました。

 

左の座敷では連歌会が開かれていました。

 

復元住居の前は庭のようです。

 

庭の片隅に周囲に石積みのある穴があります。井戸でもトイレでもなく、何の穴だかわからないそうです。

 

向こうにも建物が復元されていますが、内部は資料を展示する施設でした。

 

内堀の外側の土塁に沿って続く遊歩道を行くと、堀が見える場所がありました。土塁の様子がよくわかります。

 

更に行くと塀があり、その向こうは上級武士の居宅があったエリアです。

 

城の南東は巨岩が切り立っていました。

 

東側を歩いて行くと土塁が両側から迫っていました。遮蔽土塁といって、侵入した敵を防ぐために土塁の間を狭めています。

 

遮蔽土塁を抜けると広場になっていました。左に鳥居があって急な石段が続いています。

 

鳥居からまっすぐ石段を上ると岩崎神社がありました。河野氏やその分家の人が祀られています。ご祭神の最初に書かれている白人明神小千命は河野氏の先祖です。

 

社殿を囲む塀の屋根には河野氏の家紋がついていました。家紋の「三」は鎌倉時代に行われた酒宴の席順が、源頼朝・北条時政に次ぐ三番目だったことに由来するそうです。

 

更に石段を上っていくと、上の方が広場になっているようです。

 

最上部に展望台がありました。

 

展望台からは、西の方に松山城が見えました。

 

北側の右端の方が道後温泉です。

 

左の山の向こうに石手寺があります。

 

展望台から北側へ下りていきます。

 

展望台のすぐ下に小さな平坦地があります。展望台のあった所が本檀(本丸)です。

 

更に少し下ると広い平坦地がありました。

 

平坦地は杉ノ檀と呼ばれ、北に細長く伸びていて、いくつものベンチがありました。

 

杉ノ檀から坂道を折り返しながら下ると内堀の上に出てきました。

 

内堀に下りる手前に小さな祠がありました。

 

内堀と土塁は円を描くような感じになっています。

 

搦手門の内側に戻ってきました。一番高い所にある展望台は見えません。城跡の南半分を回って約1時間でした。

 

搦手口を出たところに路面電車の駅があります。駅徒歩0分、まさに駅前です。ちょうど電車が上下線ともやってきました。

 

 

【石手寺】中伊予のパワースポットを巡る旅 3 に続く・・・