2023年11月 妙義山のパワースポットを巡ってきました。
その③ 妙義神社 です。
道の駅に車を置いて、歩いてすぐの所に妙義神社の大鳥居があります。後ろには妙義山の北東側の白雲山があり、大の字が小さく見えます。妻の手には道の駅で買ったマロンソフト。
参道の坂道の先の石段の絵に社号標が建っています。妻の手からはマロンソフトはなくなり、代わりに参道の途中で買った下仁田ネギを抱えてお詣りです。
石段の上には白雲山を背負うように総門(国重文)が建っています。安永3(1773)年に建てられたものです。
総門の手前には何故か風鈴が掛けられています。大きな扁額には高顕院と書いてあり、門には仁王様がいます。この辺りは神仏分離令以前に白雲山高顕院石塔寺があった所で、廃寺となった石塔寺の仁王門がそのまま妙義神社の総門となった為、今でも仁王様が睨みをきかせています。
総門の右の高い石垣の上には御殿(市重文)の屋根が見えます。上野寛永寺の輪王寺宮の隠居所になったことから、宮様御殿と呼ばれました。現在ある御殿は嘉永6(1853)年に再建されたものです。
総門の先にも石段が続きます。途中にある銅鳥居(市重文)は万治元(1864)年に商人たちによって奉納されたものです。
石段の上の銅鳥居(県重文)と灯籠は、寛文8(1668)年に建てられたもので、扁額の書は後陽成天皇の甥で前天台座主の良尚法親王によるものです。
鳥居の足元には小さな獅子がついています。
鳥居をくぐって右側に波己曽社がありますが、後で寄ることにします。
太鼓橋の先で道は分かれますが、真っ直ぐ165段の石段を登ります。上の方には唐門が見えています。
石段の上には随神門(県重文)があります。下の波己曽社と同時期に建てられたとされ、随神が向かい合って座っています。
随身の後ろには虎皮パンツの鬼が、やはり向かい合って立っています。
「ちょっと、ちょっとちょっと」
こちらは豹柄パンツ。当時は豹は虎のメスと考えられていました。
「お待ち〜」
随神門をくぐると、参道は左へ曲がります。
随神門の東側に長床が繋がっています。行者たちが宿泊したりするところです。
唐門(国重文)の下まできました。宝暦6(1756)年に建てられたものです。
極彩色の唐門は、木鼻の彫刻が獅子や獏ではなく花です。
唐門の前からは赤城山が正面に見えます。
門の左右には鳳凰が刻まれ、アクリル板で保護されています。
あちこちに鳳凰が彫られています。
門の天井には龍が描かれています。
妻側に大きく張り出した唐破風が重厚感を出しています。
唐門の先にきらびやかな拝殿(国重文)があります。
海老虹梁は龍がうねっています。左側は頭がこちら、右側は頭が向こうにあります。
格天井には花や鳥が描かれています。
欄間にもぎっしりと彫刻があり、金の襖には獅子が描かれています。
拝殿の右側にくっついた神饌所も国重文です。
多彩な色使いです。見飽きることなく、ずっとグルグルと長めまわしてしまいます。
横も彫刻があり、脇障子の彫刻は透かし彫りになっています。
拝殿から後ろを取り巻く透塀も国重文で、これらの建物は全て唐門と同じ宝暦6年に建てられたものです。
透塀に沿って行くと本殿の真後ろに御幣があり、鈴が吊るされていて、裏側からもお詣りできるようになっていました。
透塀のスキマから覗くと、本殿も煌びやかでした。
本殿の横には何故か大きな岩が3つ。向こうは神饌所。
来た道を戻らず、北門を出て下ります。
北門の横の大きな岩の上に石塔が並んでいました。
北門から石段を下りると、左側に石灯籠が並んでいました。
石灯籠の横にはさっき石塔が建っていた大岩がありますが、その下には2基の石祠がありました。
石灯籠の先には池があり、その上に水神社の石祠があります。池から出た水は、足元を通って下に流れ落ちています。
更に行くと妙義山への登山口があります。その先は大の字を経由して相馬山を最高峰とする白雲山へ行く、鎖場だらけのルートが続いています。今日は手前の石段で下っていきます。
長い石段を下っていきます。
石段の途中からは右上に北門が見えます。手前の岩の上には石祠がありました。
随神門へと続く石段と合流しました。
行きにスルーした波己曽社(県重文)は旧本社で、明暦2(1656)年に建てられたと言われています。
波己曽社は幣殿が継ぎ足されて本殿と一体になっています。
波己曽社にも上にある本殿や拝殿のような彫刻があります。近くから見るとやはり見事な色彩です。
拝殿の格天井には花が描かれ、奥の幣殿の天井は金ピカです。
波己曽社の隣の池の中に、弁天様が祀られた小さな社殿があります。池には「折鶴」と書かれた札が立てられています。光格天皇が折鶴と名付けた杜若(かきつばた)を愛でたとされ、それをこの池にも株分けしたと言われています。
次はどこへ行こうかなあ・・・