2021年8月 出羽三山の関連寺社や山寺など山形のパワースポットを巡ってきました。
その5日目(最終日)です。
旅程
【5日目】
08:37 熊野大社 (1時間)
[南陽市宮内]
10:08 阿久津八幡神社 (1時間)
[東置賜郡高畠町安久津]
11:21 亀岡文殊堂 (32分)
[東置賜郡高畠町亀岡]
【 5日目 】
今日は最終日です。宿で朝風呂に入りましたが、目と鼻の先にある赤湯元湯の足湯に浸かってみました。まだ8時過ぎなのに温泉はしっかり出ていました。
赤湯から南陽市の市街地を抜けていくと、石畳の参道があります。途中の大鳥居を車でくぐり、少し行くと駐車場があります。
「日本三大熊野」の一つとされる熊野大社は、806年に平城天皇の勅命で創建されたと伝わる古社です。
ここも手水がカラフルで、枯れないモミジも飾られていました。
大きな灯籠の間をまっすぐ行くと、突き当りに土社神社(県文化)があります。
土社神社の前で参道は直角に左折します。
土社神社の横に古峯神社がありますが石柱だけで、隣の3つの石祠は左から大宮子易神社・青麻神社・山神社です。石柱の横には小さな石仏、不思議な空間です。
土社神社、古峯神社、幸神社と参道の石段の傾斜に沿って、段々と高くなっていきます。
更に石段を上ると月山神社・湯殿山神社の小さな石祠がありました。湯殿山と刻まれた石碑の奥に大社神社があります。
石段を上り切ると大きな茅葺き屋根の拝殿(県文化)があります。1787年に建てられたもので、羽黒山の三神合祭殿と同じつくりです。
大きく張り出した向拝には、細かい彫刻があります。
拝殿の前をそのまま奥へ行くと、突き当りに八幡神社があります。
八幡神社の彫刻は拝殿より細かいもので、扉の周囲にも見られます。
懸魚や欄間、更に脇障子にも彫刻されています。
蔵の横にも拝殿を取り巻くように、小さな摂社が並びます。
奥に稲荷神社の鳥居が連なります。左には菅原神社、右の玉垣に囲まれた中には3棟の本殿が並んでいます。
玉垣に沿って拝殿の裏へ進みます。
一番左側に鎮座しているのが三の宮神社の本殿です。
一番右にあるのは二の宮神社本殿(県文化)です。玉垣の中の建物では一番小さなものです。
中央にあるのが熊野大社本殿です。
稲荷神社の鳥居をくぐって、玉垣に沿って右へ曲がると本殿の裏に出ます。
他の2棟と比べて一際美しい彫刻があるのが、熊野大社本殿です。
うさぎを探してみました。向かって左の木頭に2羽見つかりましたが、もう1羽が見つからず、タイムアウトです。
本殿と拝殿の間の風鈴の下を抜けると、向こうにも小さな社殿が並んでいます。手前から皇太神宮、厳島神社、白山神社。更に八幡太郎源義家を祀る義家神社と鎌倉権五郎景政を祀る景政神社が並んでいます。義家と景政は出羽の豪族清原氏を滅ぼした後三年の合戦で活躍しましたが、景政は右目を射抜かれてもなおも奮闘したことで有名です。自陣に戻った景政は、味方の三浦平太郎為次が矢を抜いてやろうと景政の顔に足をかけたところ、景政は刀を抜いて為次に切りかかり、「弓矢に当たって死ぬのは望むところだが、生きながら足で顔を踏まれる事は武士の恥辱」と叫び、感じ入った為次は膝をかがめて顔を押さえて矢を抜いた、という逸話から、歌舞伎の十八番「暫」の主人公となりました。
熊野大社から南陽市内を縦断し、そのままR113をずっと行くと道の駅たかはたがあります。その向かいに縄文時代の竪穴式住居などが復元されている歴史公園があり、その隣に阿久津八幡神社があります。860年に慈覚大師円仁の発願で阿弥陀堂が建立されたのが、その始まりと言われています。
鳥居の向こうにに置いてある2本の石柱はじじばば石と呼ばれています。昔、お爺さんとお婆さんが「一昼夜で鳥居を建てる」と願を掛けたものの夜が明けてしまい、諦めて置いていった、と言われています。
鳥居をくぐると左右に池があります。右の池の北岸には朱塗りの小さな鳥居が、東岸には鐘楼堂があります。
左の池の中島には三重塔(県文化)が建っています。
参道から逸れて三重塔へ行ってみます。塔は1797年の再建です。
軒の垂木は一層目と三層目が放射状になっているのに、二層目だけ平行になっています。
象頭や獅子頭をかたどった木鼻が突き出ています。
再び参道に戻り、奥へ行きます。拝殿に続く参道を遮断するかのように、向こうに舞楽殿が建っています。
舞楽殿の手前左側に手水舎があります。手水は石をそのまま使った趣きのあるものですが、水は出ていませんでした。
手水舎の少し手前右側に子育地蔵尊があります。その奥に石碑と、更に奥に小さな社があります。
石碑には山中神明宰と刻まれています。飢饉の際に幕府に納める米を独断で民衆に施し、更に幕府に掛け合って免税させた代官・山中太郎右衛門の恩を後世に伝える為に建てられたものです。
山中神明宰の奥の社の横には山の神の看板がありますが、中には立派な金精様が。
室町時代末期創建の舞楽殿(県文化)は、かつて阿弥陀堂のあった東を向いて建っています。
舞楽殿の先に、参道はまっすぐに続いています。
参道の奥の石段の上に狛犬がいますが、カエルみたいな顔付のユーモラスな狛犬さんです。
参道の突き当りに茅葺き屋根の拝殿が、どっしり構えています。
拝殿の奥に続く幣殿には正面に大きな鏡、両側には随神がいます。大きな翁のお面はじじばば石と関係あるのでしょうか。
拝殿の裏に続く本殿(県文化)も茅葺き屋根で、1755年に再建されたものです。
本殿の棟の両端は茅が丸く庇状に張り出し、その上には鬼瓦ならぬ鬼板があります。
神社の裏を左に上っていくと古墳群があります。奥の院があるようなので行ってみることにしました。
奥の院へは所々に手摺りがあるものの、登山道です。拾った木の枝で蜘蛛の巣を払いながら登っていきます。
奥の院までの間は、特に眺めのいい所もなく、ひたすら登っていきます。途中で何度か妻の文句を聞きながら、登ること13分、奥の院の小さな鳥居が見えてきました。
奥の院は木造と石造の2基の鳥居がくっついて建っていて、その先に小さな石祠が鎮座しています。
奥の院から来た道を引き返します。道は人の肩幅より狭い所も多く、意外と危険です。
本殿まで下り、参道を戻り、鳥居の手前を左に入ると厳島神社がありますが、残念なことに傾いています。
厳島神社の先の岩駒稲荷には、小さなお狐さんが1匹だけいます。
岩駒稲荷を横から見ると幣殿が継ぎ足されていて、本殿は石祠でした。
岩駒稲荷の本殿が乗っかっている旗立岩には石仏が彫られていますが、真ん中から割れてしまっています。旗立岩の語源はわかりませんが、舞楽殿の向こうに流鏑馬の的場があったことと関係があるのでしょうか。八幡太郎義家が勧請したということで、源氏の白旗が掲げられた所だったのかもしれません。
この辺にカラスの巣があるようで、騒がしかったので、奥の鐘楼堂へは行かずに亀岡文殊堂へ行くことにします。
阿久津八幡神社から高畠の街を抜けて、山の南側に回り込んだ道端に亀岡文殊堂の仁王門があります。
阿形の方はだいぶ柄や色彩が残っています。足に比べて鉄下駄がだいぶ小さいようです。
仁王堂の先に参道がまっすぐ続いています。途中を横切る車道で少し行った所に駐車場があります。
広い砂利の駐車場から、売店の前を抜けていくと突き当りに松高山大聖寺(真言宗智山派)の本坊と庫裏があります。左に行くと文殊堂、左に下ると仁王門です。
大聖寺の塀に沿って続く坂道には石碑や灯籠が建ち並んでいます。
突き当たりを左に曲がると、灯籠の間の所々に石仏もいます。
参道の右手に大きな鐘楼堂があります。その前に十六羅漢の看板がありますが、石仏はその半分くらいしかいません。帰りに数えてみたら、参道沿いの石仏も含めて16体ありました。
1730年に建立された鐘楼堂は、複雑な木組みで木頭には龍や獅子の彫刻があります。
更に坂を行くと、807年に平城天皇の勅命で創建された亀岡文殊堂(県文化)があります。大聖寺の本堂で、日本三大文殊の随一として、中納言格を与えられた名刹です。現在の文殊堂は1914年に改築されたものです。
文殊堂の手前に観音堂があったので、寄っていきます。
向拝には力士や中国の故事にまつわる彫刻があります。
文殊堂にお参りしてから、お堂の右奥の知恵の水を頂きました。汲んで持ち帰ってはダメだそうです。
文殊院のお堂のちょうど真裏に蔵王大士と書かれた看板があります。鳥居があるし、鎮守でもあるので神社であって、奥の院とは違うようです。
高畠の南隣が米沢です。米沢は以前にも会津や喜多方とセットで来ていましたので、観光はナシ。でも、道の駅米沢で2年前のガイドマップをもらい、駅前の店で米沢牛を頂いて山形旅を締め括りました。
今回の旅は羽黒山で現在を、月山で過去(死後)を、湯殿山で未来を、それぞれいい方向にいきますように、と出羽三山を巡る旅でしたが、月山は悪天候で行けませんでした。しかしその分多くの湯殿山神社の口ノ宮も回り、より深く歴史を感じ、より多くにパワーを頂けたような気がします。あまり観光客が行かないような所まで、ディープな山形旅ができて大満足です。残った月山にはこの秋に再チャレンジしてみたいと思っています。
次はどこへ行こうかなあ・・・