【奥武蔵】パワースポットを巡るプチ夫婦旅 | 徒然なるままに山と歴史を・・・

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2021年4月20日 地元埼玉南西部のパワースポットに行ってきました。

 

旅程

   11:27 竹寺(八王子) (1時間25分)

   13:21 権五郎神社 (2分)

   13:41 子の権現 (25分)

   15:41 高山不動尊 (18分)

   16:09 関八州見晴台 (1時間7分)

   17:24 常楽院 (4分)

   17:56 吾野湧水

   

 

今月初めに行った姫路の廣峯神社が牛頭天王の総本宮だったことから、今回は埼玉の牛頭天王にお参りに来ました。

醫王山薬寿院八王子(天台宗)は、周囲が竹林だったことから、古くから竹寺と呼ばれています。お寺ですが入口には鳥居があります。

 

鳥居をくぐるとすぐ先に石灯籠があります。灯籠の横にトーテムポール。

 

石灯籠の先で牛頭天王像がお迎えしてくれます。右手に斧、左手に縄を持っています。

 

牛頭天王の後ろの弁天池、池の横の弁天堂があります。弁天堂の内部は荒れていて、弁天様もお堂の割にやけに小さく、高さ30cm程でしょうか。

 

牛頭天王の向かいに竹筒が据えつけてあります。覗いてみると飯能の方が見えます。

 

牛頭天王像のすぐ横に観音堂がありますが、手前には狛犬がいます。右の狛犬は口の中に玉が入っています。台座にはラーメン丼のマーク。雷文という魔除けです。

 

ずっと行った突き当りのお食事処では、座敷で食事ができます。そういえば、途中に「竹笹そば」ののぼりが立っていました。お食事処の前には樹齢400年のコウヤマキがあります。

 

このコウヤマキ、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が植えたと伝えられ、「道灌槙」とも呼ばれるそうですが、そうすると樹齢は500年以上になるはずなのですが。

 

左手にはお食事処と渡り廊下でつながった本坊があります。お守りやお札はここで買えます。ここで両替してくれたお坊さんが冗談を交えながら牛頭天王のことや、この寺のことを教えてくれました。

 

茅葺きの本坊の横から牛頭天王本殿に向かいます。竹鳥居をくぐっていきます。お稲荷さんのように鳥居が連なります。

 

竹の鳥居をくぐって少し行くと正面の石段の上に鳥居があります。牛頭天王本殿は左に曲っていくのですが、鳥居の先へ行ってみます。

 

急な石段の先に小さな祠があります。稲荷神社です。どうりで鳥居が短いスパンで連なっていたわけです。

 

牛頭天王本殿への参道の緩い坂を行くと「天王山」の扁額のかかる鳥居があります。「茅の輪」をくぐると心身を清められるそうです。

 

石段を上っていくと牛頭天王本殿があります。柱に取り付けられた五色の紐の一端を持って牛頭天王と結縁させて頂きました。

 

丑年の今年は御開帳の年です。御本尊の牛頭天王と八王子が祀られています。

 

本殿の前からは飯能方面が望めます。

 

ここにもトーテムポール。枯れ木に直接彫刻したものです。

 

本殿の裏へ上がっていくと、本殿を後ろから見下ろすことができます。

 

本殿裏の急坂を更に登っていきます。道は完全に登山道です。

 

5分程登ると広い平場に出ます。石積みの上に金毘羅権現の小さな祠があります。

 

金毘羅さんの奥へ少し登ると鐘撞堂に出ます。周辺にはベンチがあり眺めもいいので、竹寺に来たなら、ここまで足を延ばさないと損です。

 

鐘撞堂の前からは関東平野が見渡せます。

 

別のポイントからは奥多摩の山並みが見えます。

 

滑りやすい急坂を下って竹寺へ戻ります。

 

竹寺から下ってすぐの所に権五郎神社があります。

鎌倉権五郎景政は、八幡太郎義家に従って奥州の後三年の合戦に従軍した際、右目に矢を受けながらも敵を射殺しました。その後、味方の三浦為次が矢を抜いてやろうと頭を足で押さえたところ、頭を踏まれたことを屈辱として為次に切りかかりました。それを聞いた人々は景政を称賛し、その逸話は今に語り継がれています。

鎌倉周辺では景政を祭神とする御霊明神社が多く、鎌倉に縁のある氏子がこの地に権五郎神社として勧請した、と伝えられています。

 

眺めのいい子ノ権現の駐車場から歩いていくと、左右に売店がありますが、この日(火曜日)は営業していませんでした。ここも竹寺と同様にお寺なのに鳥居があります。子ノ権現は正式名称を大鱗山雲洞院大龍寺という天台宗の寺院ですが、神仏習合のお寺です。

 

鳥居の先に大きな門があります。大鱗山と書かれた大きな額が掛けられています。

 

門の奥にカラフルな大きな仁王様。ふつうは仁王門の中にいますが、門には納められるスペースがありませんでした。向こうで妻がしゃがんでいるのは、ネコが側溝の中に隠れていたからです。

 

仁王像の先にあるのが、茅葺き屋根の本坊です。お守りや御朱印はここで扱っています。

 

本坊から坂を上がって折り返すと、枝垂れ桜の向こうに本堂があります。コンクリート製なのが残念ですが、「日本一社子聖大権現」の立派な額が掲げられています。

 

本堂の横には大きな鉄の草鞋や大きな下駄があります。この鉄の草鞋は子ノ権現のシンボルです。

 

本堂の横を奥へ行くと石段があります。途中の祠には地蔵菩薩が祀られています。

 

祠の先の坂を登ると鐘撞堂があります。左側びは奥之院の釈迦堂があります。

 

釈迦堂の先はスカイツリー展望処ですが、冬の空気の澄んでいる時でないと見えないようです。

 

鐘撞堂の横からは秩父の山が見えます。

 

子ノ権現から吾野に下りましたが、良さげな店がなく、昼食はまだお預け。顔振峠のイタリアンレストランに入ってみました。天気もいいのでデッキの席にしました。眺めはいいですが日差しをモロに受け、眩しかったです。料理は他に客もいないのに30分近く待たされ、味もウ~ンという感じでした。コップの水もぬるくて×。

 

顔振峠から奥武蔵グリーンラインを西へ向かいます。花立松ノ峠に通行止めの看板がありました。バリケードがなかったので行ってみると、高山不動尊への分岐の手前に道路の崩落箇所がありましたが、通行可能でした。分岐から細い急坂を下ると駐車場があります。歩いていくとすぐに巨大なお堂があります。

高貴山常楽院(真言宗智山派)高山不動尊と呼ばれています。成田山・高幡不動と並び関東三大不動のひとつです。

 

「高山不動尊縁起略記」の看板がありました。字が薄れていましたが、内容はざっと以下の通りです。

蘇我氏が藤原鎌足らに討たれた後、蘇我氏の末裔が関東に落ち延びて謀反を企んだ為、鎌足の第二子長覚坊上人らが関東に遣わされた。その際、長覚坊上人がここ高山に登ったところ、関八州が一望できた為、東国平定の根本道場とすべく、一宇を建立して不動尊を安置した(場所は現在の関八州見晴台:奥之院)。そして斉明天皇より長覚寺不動明王の寺号と寺領を賜った。その後行基が勅命によりこの地に参籠した際、五大尊明王像を彫刻して安置した。更に弘法大師の秩父霊場を巡った際に真言密教の秘法を伝えられた。その後真言宗醍醐派となったが、明治維新後に智山派となった。

その間にも源頼朝・足利義政・徳川家康らにさまざまな寄進を受けている。

 

 

不動堂の先の坂を上ってみたところ、切妻屋根のお堂が見えました。コンクリート製の宝蔵殿でした。その前に回って急な石段を下ると、不動堂の廻縁に戻ってきました。

 

高山不動尊からグリーンラインを少し行った所に関八州見晴台の入口があります。

 

道路から数分登ると関八州見晴台です。周囲はゆったりとしていて、高山不動尊の奥之院があります。四阿があり、周囲にはいくつもベンチがあります。だいぶ木が伸びてしまって、展望は以前より悪くなっていました。

 

すぐ先に人気の山、日和田山があります。中央奥の方が都心方面です。

 

中央奥に霞んでいるのが大山・丹沢山地、一番右が大岳山。

 

一番左が川苔山、右の尖っているのが武甲山。

 

四阿の向こうに関八州見晴台の標識。標高771mです。

 

来た道を戻り、高山不動尊を過ぎて少し下ると駐車スペースがあり、細い道路を3分程歩くと常楽院があります。お詣りするような所ではなさそうなので、門前で失礼しました。

 

旅の最後はいつものように「おいしい水」を汲んで帰ります。今回は吾野駅の向こう側にある吾野湧水を頂きました。この水はきちんと水質管理されているので安心です。

 

 

今回は意外と近くにあった本物のパワースポットを再発見することができました。20年前に来た時には、単なる観光として本坊・本堂にお参りして帰ってしまいましたが、今度は本物のパワーをもらえた気がします。もう少し埼玉や関東のいい所を調べて行ってみたいと思います。

 

 

次はどこへ行こうかなあ・・・