それは八子がクリスチャンから信仰を変え信心をしている頃だった。信心の経緯は改めて書くとして。

兄の死後、八子はより信心を強め毎日仏壇でお経を唱えていた頃だった。

その日は娘も一緒にお経を上げていた。


「南無○法蓮華経」
「南無○法蓮華経」
「南無○法蓮華経」... 

(あれ?何かがおかしい... )

それに気付いていた娘と思わず目を合わせたがお経を続けた。

南無○法蓮華経
南無○法蓮華経
南無○法蓮華経
南無○法蓮華経
お経を唱えてる声が私達親子以外にどんどん増えていく... 
後ろを振り返れない

時間は夜。
(呼び寄せてる... )


止めた。

八子の住まいはお寺と神社に囲まれていた。

そこから夜にお経を上げるのを辞めた。

南無○法蓮華経南無○法蓮華経南無○法蓮華経... 

私が言いたいのは創価は根本を間違えている人間が多いってこと!


私は元々クリスチャンだった事から祈る対象は【神】だと知っていた。


そしてその【神】は己自身でもあり【宇宙】だと言うことを祈り続けて解った。


祈って誓う=自分のため

祈って願う=誰かのため


そう祈りかたを変えたら好運が舞い込むようになった。


死者には信仰していた祈りかたで供養する方が良いことも。


無宗教者には誰もが知る有名な神に祈ることも。


それでも霊との戦いに苦戦を強いられることは今でもある。


目の前の感のいい1号🐶に助けられた事もね😌

👩「ご飯終わりました」