事務所退所後、私は抜け殻のようになってしまい、恥ずかしながら、社会からドロップアウトして引きこもりになった。
完全燃焼。
燃え尽きたのだ。
秘書生活を全力で駆け抜けているときに親父が静脈瘤破裂で県病に担ぎ込まれた。母は体調が思わしくなかったので私が看病することとなった。
そういうタイミングも重なり、事務所退所となった。

やりたいことがあって退所した訳ではなかった。心がカサカサになってしまった。どうやっても秘書を続けれる状態でなくなっていた。父が退院し私は郡山の弟のところで3ヶ月ほどリハビリをした。青森に帰ってきてからは仕事をするでもなく、ただ毎日をぼーっと生きていた。

両親は30歳の引きこもり息子に文句ひとつ言わず、また昼夜逆転生活を咎めることもなく静かに見届けてくれた。

一年ほど経つ頃、川守田所長から連絡があり外で飯を食べながら雑談した。
後ほど書くが、このことがきっかけで私は一歩踏み出すことができた。
精神的にまだ落ち着かなかった私は相変わらず親の脛を齧る生活を続けていた。
父は「お前は長男なんだから家業を継げば良い。」と言ってくれていたが、私は料理ができるわけでもなく、下の弟二人は神戸で修行した経験のある料理人であり、彼らが家業を継ぐのが順当であった。無力感に襲われ自分を卑下する日々がしばらく続いた。ここから約2年間、悶々とする長い日々を送る。

大釈迦の小巾亭を任されたお陰で生活には苦しまなかった。程なくして結婚し実家を出て八重田のアパートに住んだ。

この頃、父から相談を持ちかけられた。
「新城に温泉を開こうと思って土地を買った。力を貸してくれ。」父は大病を患ったあとにもかかわらず意気軒昂だった。新城地区に新しく土地を取得し小巾亭併設型の温泉を開くと息巻いていた。
私はこの時点で怪しんでいた。なんかトントン拍子に話が進んでいるな。悪い予感がする。
そしてそれは的中する。
父が交わした土地売買契約書を読ませてもらう。そこで明らかになったのは「父は騙されていた」ということだった。それも悪徳ブローカーに。利用価値のない二束三文の地積測量図も無い原野の土地を高額で買い取らされていた。

「親父、騙されたんだよ。」と伝えると父は激昂し自分で探した弁護士事務所に乗り込んで契約書を見せた。その弁護士は「息子さんの言っていることが正しいです。この契約書のここの部分を読んでください。提訴する場合は仙台地裁、と書いてある。裁判するなら仙台でしないといけません。お父さん、仙台まだ通いますか?裁判の度に行かないといけませんよ。ハンコ押してあるのでどうにもなりませんね。」
父を騙した悪徳ブローカーの顔を拝んでおこうと思い、面談を申し込んだ。会うと、その男は私が冷静に言葉を発しようとすると言葉を遮り大きな声を張り上げて私を激しく恫喝し始めた。父はその様子を見て驚いていた。
あぁ、私は騙されたのだな、と実感したはずだ。売買契約成立する前と後で態度が変わったからだ。「見たか。親父。あれがあの人の本性だ。」
父はしばらく肩を落としていた。


しかし、神様は私達親子に休む暇を与えてくれなかった。
しばらくすると次の事件が起きた。

ある日曜日の昼間に電話が鳴った。
母からだった。
「靖人。さっきお父さんから電話あってね。店が火事なんだって。お母さん、見ることできないからあなた行ってくれる?」
頭が真っ白になる。
着の身着のままで車に乗り込む。
八重田方面からラセラの交差点を左に曲がりバイパスに出る。すると跨線橋の向こうに真っ黒の煙が空高く立ち昇っていた。
その黒煙を見た瞬間、これはボヤじゃないと確信した。現場は消防車数台が駆けつけ慌ただしく消火作業が続けられていた。
裏に回るとショックで泣いている従業員と、呆然と立ち尽くす弟と、気丈に振る舞う父親を見つけた。
「おお。来たか。」と父。かける言葉は見つからなかった。何も言えないまま消火作業をボンヤリ眺めた。
「最後まで見るぞ。俺の店だ。長年汗水垂らして働いて築き上げた店だ。お前たちもよーく見といてくれ。最後までしっかりとだ。」
我々息子たちを一列に並ばせて消火作業が終わるまでしっかりと見届けさせた。

数時間後、燃え残った裏の事務所に集まり家族会議が開かれた。
「見ての通り、店は火事で失くなってしまった。幸い怪我人は誰も出なかった。避難誘導を貴也がやってくれたからだ。ありがとう。
私は諦めない。またオープンするぞ。お前たち私に力を貸してくれ。」
父はシンプルな言葉で自分の思いを語った。
私を含めて息子たちは各々心に思うことはあったが、父の言葉に一様に深く頷きしばらくの間はオープンに向けて協力することで一致した。

あの時の父は、息子から見てもその胆力に感心させられたしカッコ良かった。火事になって長年愛してきた店が燃え尽きて失くなったその日に、再度オープンするぞと明確で強固な決意を述べる。並大抵の人間ではここまで出来ない。
秀寿司の大将が火災現場に現れてお見舞いを持ってきてくださった。「大将、今日食べにくればよかったんだよ。火事になったからタダ飯になったよ。ガハハハ。」と豪快に笑ってみせた。強がりなのは十分承知だけど、そんな簡単に言えないしできない。板柳町の佐々木寅四郎先生もそうだけど、昭和の男は腹が座っている。


翌日から、オープンに向けて全力で動いた。銀行との折衝。要は融資だ。それから土地を探すための不動産屋選び。店舗設計施工の建設会社の選定。

途中、消防署の現場検証があった。私も立ち合った。火元は厨房換気扇付近。換気扇の周りに不燃材を使わなくてはならないのに普通の木材が使われていた。「これじゃあ、火事になるよ、見てみ。炭化してるでしょ。時間かけて燻された木材が炭化しちゃったんだよ。日曜日のお昼で混んでいたでしょう。熱量が半端ない。知らぬ間に炭化した木材に火がつき屋根裏まで広がったんだね。この工事を請け負った建設業者の責任だな。」
父は小巾亭を増築した建設会社を訴えると息巻いたが私は「やめよう。」と唱えた。
「訴えてどうする。相手が損害賠償できる会社か?倒産して自己破産すれば終わりだろ。そんなことに無駄なエネルギーを使うよりも、今目の前にある事業スタートに注力した方が良くないか?」
すると、しばらく考えてから親父は上げた拳を静かに下ろした。
父の気持ちは十分わかる。しかし、限られた時間と体力を考えたらそんなものに力を使っている場合じゃなかった。とにかく我々家族は新しい場所で新しい店舗を再開することだけを考えて準備に邁進した。

最初の土地探しは難航した。ここは良いな、と思った場所が実は第三抵当権まで設定されていて剥がすのに難儀した。将来環状線が交差する大型交差点になる計画があるらしくその図面が手に入らなくてイメージできないといった問題も起きた。
不動産屋と打ち合わせしたり、銀行と折衝したり、建設会社と折衝したりと日々忙しく動いた。「あぁ。なんか久しぶりに生きているな。」と実感した。
この間、様々なことがあったけど、とにかく3ヶ月ほどでオープンに漕ぎ着け従業員を再度雇用することが出来た。
職員及び弟二人の舞台を整えると私の出番は無くなった。弟に店を任せると私の居場所は必然的に無い。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。である。
しかし、神様はここでも休ませてくれない。次の課題が突然舞い込んでくる。父から電話。
「靖人。国交省から連絡があった。大釈迦の小巾亭が道路計画にかかって用地買収されるようなんだ。」
父の声色には、東バイパスの小巾亭が再オープンできてやっと落ち着いたかと思ったら、今度は大釈迦の店を国の都合で取られる、というニュアンスが含まれていた。
「きちんと話を聞いてみましょう。」
私は仲介役として、また緩衝材として父と国との交渉の場面に居合わせた。

父は当初用地買収に後ろ向きだった。しかし、私は父にこう言った。「チャンスだと思うべし。大釈迦の土地は、時代の趨勢の中でスポイルされていたかもしれない。バイパス合流地点がちょうど自分達の土地にかかっていたことに感謝するべきじゃないのか。用地買収で得た資金で新たなチャンスを獲得するべし。」と。

父の中で何かが閃いた、眼差しには生気が宿りギラギラさせながら国との交渉に乗り出した。あまり貪欲になり過ぎると目の前からチャンスが零れ落ちるのでバランスを取るための手綱捌きは私がやった。

結論を言うと約2億円で買収成立。
現金でもらうと税金がかかるので節税対策として、また新ビジネスを想定していたので土地取得費用に回した。
何も無い田んぼを買った。
後にここは新幹線新青森駅が整備される広大なエリアとなる。石江土地区画として整備されるその場所は、国道に面しており都合の良いことに角地になる。その場所を手に入れることが出来たのだ。
こんなことを面と向かって言ってきた人がいる「政治家を使って市内のいい場所を手に入れているんだろ?」
そこには嫌味というか揶揄というか、糞食らえという感情が見え隠れする。
政治を知っている人なら分かるはずだが、私みたいな一介の秘書上がり風情が政治を動かして情報を貰えるはずがない。
けど世間って無責任に面白おかしく撒き散らすもんである。火事になった東店の時も、わざわざオープンの日に来て「焼き太りしたな。」と帰りしな吐き捨てたお客さんがいた。銀行から融資を受けてのオープンだったし、火災保険は大家が全て懐に入れたことなど誰も知らない。好き勝手言うもんだ、とこの時にも感じていた。

無責任な言葉に対して私はこう返していた。
「私ごときに力を貸してくださる政治家の方がいらっしゃるとすればそれはそれはありがたい話ですね。また、世間では私をそのように『力のある男』だと評価してくださっているんですね。ありがたいことです。」と。

政治家秘書になって良かったのは、行政の押さえどころが分かった事だ。政治家を利用してもほとんど納得いく回答はもらえない。100点の回答を期待すれば満足しないし、期待しすぎると裏切られた感情の方が大きくなる。
やはり当事者本人が動くのがベストであり、政治家を道具の一つとして使いこなせる知識と力量が無いといけない。
「あの政治家は力が無い。」と簡単に言う人がいるが、私に言わせれば政治家を使いこなす知識と力量が無かったんだろ。自省するべきだと言いたい。

西の小巾亭も3ヶ月ほどでオープンさせた。
従業員も揃えた。ここでも舞台が整うと私の役割は終わりを告げる。オープン当初はレジ係をしていたが、何やら自分の中のモヤモヤしたものが首を擡げる。

時を同じくして元青森市議会議員 千葉茂三さんから「私の後継者として原別を地盤に出馬してくれないか。」という打診を頂く。

20代は常に無力感に苛まれていた。
日々自己葛藤しながらなんとか秘書を続けていた。ほぼ休みなく5年間政治を具(ツブサ)に垣間見た。
30代は内観の時だった。
悪徳土地ブローカーとの対決。火事からの再生。国との買収交渉。新規店舗オープンなど沢山の出来事に見舞われたけど、全てにおいて穏やかに、そして嫋やかに対応してきたつもりだ。

ここで余談に見えるけど大事な郡山の弟の話。
私が津島雄二事務所退所後に弟から母の元に電話が入る。ヤクザから追い込みをかけられているらしく母から「あなた、なんとか助けてやれない?」と言われる。
私は早速郡山に飛んだ。弟は彼女の家で寝込んでいた。事情を聞く。
「猪苗代湖にジェットスキーを所有して置いていいたんだ。ある日、彼女の友達の男に貸したら停泊していたクルーザーに接触してしまった。運悪くそのクルーザーはヤクザが所有者だった。ぶつけた本人は行方不明になった。ジェットスキーを所有している俺に『代わりに弁償しろ。お前が金払え』って毎日来るんだ。総額300万。俺が払えるわけないだろ。俺の住んでるマンション玄関に若いヤツがいつも見張りで立っている。あそこには、もう帰れない。」
「そうか。そういう事情か。あとは俺に任せろ。お前はとにかく歯を磨いて風呂に入って飯食ってリセットしろ。」
私はノートに全て時系列で出来事を書き込んだ。近くのシティーホテルに出向き、ロビーの公衆電話前に座り電話の隣に置かれていた電話帳を開いた。職種の欄で弁護士を見つける。上から順番にかけていく。
事件の概要を話すと「ヤクザがらみかぁ。ウチでは扱えないなぁ。」と言って断られた。
諦めることなく続けているとア行の五番目あたりの遠藤大助法律事務所に辿り着く。
事件の概要を話すと「あなた、ここどうやって知りました?」と聞かれた。「たまたま電話帳で調べて電話したんです。」すると「良かったね。ウチはマル暴専門だよ。あとは任せて。法定代理人引き受けるから。いい?ヤクザから電話来たらこう言えばいいよ。『法定代理人は遠藤大助先生が引き受けることになりました。』ってね。それだけで十分だから。ちなみに電話してくるヤクザの名前教えて。警察に確認するから。」ヤメ検弁護士は心強かった。

以下省略。
ヤクザと電話で弟の代わりに私が直接対決をして先ほどの台詞を言うと驚くほど効果が現れた。弟は安全な生活を取り戻した。法定代理人費用の30万を弁護士にお支払いして青森に帰ってきた。
あのまま追い込みをかけられて300万を支払っていれば10倍の負担があったってわけだ。
この時も、肝を据えてコトに向かえば解決策は自ずと導き出される事を知った。
それと私がドロップアウトしたときに助けてくれた弟にこんな形とは言え恩返しができた事が素直に嬉しかった。
今では無事に大学を卒業し埼玉で歯科医院を開業している。
弟の案件は少なからず自信となった。
また、遠藤大助弁護士のように困っている人を助ける仕事への憧憬が心の中に生まれた。そして私は決意する。自分を苦しめた政治に再びチャレンジしようと。
実は、その扉を開いてくれたのは川守田所長さんだ。心の奥深くに閉じ込めていた思いを、昼に飯を一緒に食べて雑談しながら一つ一つ丁寧に開けてくれた。私は、自分の本当の思いを川守田さんとの会話の中で再確認し目を覚ますことになった。今でもこの時が私の分岐点であると確信している。

政治家を志して原別に移り住んだ。
地元の重鎮達に認めてもらうための新しい生活がここからスタートする。