瞑想などの訓練や学びを開始するにあたって

これから始める方などに対する心構えなどが記述されている箇所を

簡略化してまとめてみました。

少し厳しいと思われるところもあるかもしれませんが

筆者の激励の意図もあったのではないかなと思います。

仕事などの日常生活にも当てはめて参考になるところもあると思います。

 

☆経験を積むことで知識と能力は獲得できる

*文章に「秘儀参入」という用語が登場します。

 瞑想などの訓練の、高い段階と考えてください。

秘儀参入しない人は、秘儀参入を通して受け取ることができる知識と能力を

遙か遠い未来において(何度も受肉を繰り返した後で)

まったく別の方法と状況を通して身に付けることになるでしょう。

一方、今秘儀参入する人は秘儀参入しない場合には、ずっと後になって

まったく別の状況のもとで経験することになる事柄を体験することになります。

(この文章が書かれた、筆者の執筆時期は100年近く前になります)

私たちは存在の秘密について、

私たち自身の現在の成熟段階に相応した事柄だけを実際に体験することができます。

だからこそ知識と能力の高次の段階に到る道には様々な障害が存在しているのです。

それは、使用しても事故を引き起こさないくらい十分な経験を積むまでは

銃を用いることは許されないのと同じです。

例えばある人は本来、未来に何度も受肉し様々な経験を積んだ上で

ようやく正しい発達のプロセスに相応した秘密を受け取ることになっていました。

ところが今、秘儀参入してしまうと

その人は必要な経験をしないままになってしまいます。

ですからその人は、秘儀参入の門をくぐるにあたって

本来することになっていた経験を別の事柄によって補わなくてはなりません。

そのため秘儀参入しようとする人に最初に与えられる指示の目的は

未来にするはずだった経験を別のものによって補うことにあります。

それがいわゆる試練です。

 

☆自由意志で努力することを選択する

筆を取ろうとしない人が画家になることができないのと同じように

師が示す必要な条件を受け入れようとしない人が訓練を始めるのは不可能です。

師は基本的には学徒に助言することしかできません。

師と同じ道を歩むか歩まないかは、一人一人の学徒の自由意志に委ねられています。

もし学徒が必要な条件を受け入れるつもりはないのに

訓練をしてくれるように師に求めるならば、それは

「絵の描き方を教えて下さい。でも私が筆に触るのは勘弁して下さい。」

と要求しているのと同じようなものなのです。

師は学徒が自由意志に基づいて受け入れようとしない限りは

何も教えることはできません。

一般的な意味において高次の知識を得たいと願うだけでは不十分である

ということを強調しておきたいと思います。

知識を得たいという願望を抱いている人はたくさんいますが

訓練の特別の条件と関わろうとしないで

願望のみを抱く人は何も達成することはできません。

「私には訓練は厳しすぎます」

と文句を言う人達は、この事をよく考えてみて下さい。

厳格な条件を満たすことのできない人、あるいは満たすつもりのない人は

とりあえず訓練を始めることを諦めなくてはなりません。

学徒がこれらの条件に従うことは

あくまでも自由な行為でなくてはならない

あるいは必然的に自由な行為にならざるをえないのです。

もしある人が師に向かって

「あなたが知っている秘密を私に教えて下さい。

 ただし私の通常の感覚や感情や表象はそのままにしておいて下さい」と頼むなら

その人は全く実現不可能な要求をしていることになります。

その人は自分の好奇心や知識欲だけを満たそうとしています。

このような心構えで学徒が知識を身に付けることはできません。

「どの条件に関しても、それを完全に満たすことは学徒に求められていない。

 学徒に求められているのは完全に条件を満たすように努力することだけである」

という点を強調しておかなくてはなりません。

これらの条件を完全に満たすことができる人はいません。

しかし誰でも、これらの条件を満たすことを目標とする道を歩むことはできます。

大切なのは、この道を歩もうとする意思と心構えだけなのです。

*ここで登場した条件というのは、前回までに記載した

 蓮華(チャクラ)育成のための訓練項目を指しています。

 

☆先人の教えを学ぶことは、他者が見出した事実を受け入れること

「私自身はどのようにして

 霊学の高次の認識を身に付けることができるのでしょうか?」

と問いかける人に対しては

「まず最初は、他の人間が伝えることを通して高次の認識について学んで下さい」

というほかありません。

そして、この人が

「私は自分で霊視したいのです。

 他の人が霊視した事柄については私は何も知りたくありません」と言うならば

「自己の認識に到るための第一段階は、

 他の人が伝える事柄について学ぶことなのです」と答えなくてはなりません。

するとこの人は

「つまり私は最初のうちは

 伝えられた事柄を盲目的に信じ込むように強いられるわけですね」

と言うかもしれません。

しかし私たちが他の人が伝える事柄について学ぶときに重要な意味を持つのは

『信じる』とか『信じない』とかいったことではなく

聞き取った言葉を囚われない態度で受け入れることだけなのです。

真の探求者は、聞き手に盲目的に信じて貰うことを期待して語ったりはしません。

探求者は常に

「私はこのような事柄を存在の霊的な領域の中で体験しました。

 そして私はこのような私の体験について語ります」とだけ述べます。

また探求者は

「聞き手がこのような私の体験を受け入れ、

 聞き手本人のために語られる事柄を思考の中に浸透させるならば

 それは霊的に成長するための生き生きとした力を育てる」

ということも知っています。

ここでお話ししている事柄を正しく直観的にとらえることができるのは

魂と霊の世界に関するあらゆる知識は人間の魂の底に眠っている

という事実に注意をはらう人だけです。

私たちは自分で魂の底から取り出してきた事柄だけでなく

他者が魂の底から汲み取ってきた事柄についても『洞察する』ことができます。

正しい洞察は、偏見によって濁らされていない心情の中に理解力を呼び覚まします。

私たちは自分自身の中に潜んでいる無意識的な知識を通して

他者が見出した霊的な事実を喜んで受け入れます。

このようにして受け入れたからといって、

霊的な事実を盲目的に信じたことにはなりません。

それは人間の健全な悟性の正しい作用です。

 

シュタナーの記述に、

学んで気づいた人は、自分だけの力で学べたわけではないので

今度はその学んだ内容を他の人とも分かち合いましょう、という内容があります。

この記述には2つの意味があります。

1つ目は、仏陀のように教えを授けてくれて、それを後世に伝えたり

本の出版や翻訳・運搬などに携わってくれた方々がいてくれたから

2つ目は、もしも世界に自分だけだったら苦しみも喜びも感じる表象が生じないので

辛いことがあったとしてもそこから学んで成長したのは他の人間がいてくれたから

ということです。

良い本を紹介するなど、

自分の得意分野で自分にできることをしてみるのも良いと思います。

 

また少しづつ書いていこうと思います。

どうもありがとうございました。