東南アジアの国々など海外ですと、

街を歩いていたら修行中の僧侶の方々を見かけたり

近所に住んでる方が、

お祈りや瞑想しにお寺に通うという光景を、

よく目にする国もあります。

精神的な修行や瞑想をしている方々が

普通に受け入れられている環境で

当たり前の光景になっているという感じです。

 

日本ですと、瞑想などを日常的にしている方々に対しては

少し距離を感じるという方々も多いのではないかなと思います。

 

自分は瞑想の練習などをしているけど、周囲に一緒にする仲間はいなくて

独りで黙々とやっているという方もいらっしゃるのではないかなと

思います。

 

仏陀も苦行をしていた頃は、苦行林で仲間と一緒に修行していましたが

苦行を続けても悟りは得られないという考えに至ってから

苦行林を出ることを決意します。

ですが、仲間達からは自分の考えを理解してもらえず、

苦行を諦めた脱落者として、

その後、悟りを開くまでの間、独りで修行をしていました。

 

 

例え、独りだとしてもという意味の仏陀の言葉があります。

 

心の改善を目指す友と出会えなかったら

 もし君が、人生の道のりを歩むにあたって、心の改善を目指す友に会わないなら。

 ともに心の成長に励める、そんな貴重な友に出会えないなら。

 せっかく征服した国を惜しみなくさらっと捨てる王様みたいに、

 ただ一人ぼっちで歩むのが潔い。

 まるでインドサイの頭に一本だけシャキンと突き出た角のように。

*経集46

 

性格の悪い友といるくらいなら独りで歩む

 ジュエリー作家がつくったキラキラ輝く金の腕輪が

 二つも片っぽの腕にはめられていると、

 互いにカチャカチャと雑音を立てて、うるさいだろう。

 君より性格の悪い、君にふさわしくない友といるのはこれに似て、

 二人の心がカチャカチャとぶつかり、うるさく感情をかき乱す。

 そのことを思い知ったなら、

 いっそただ独りぽっちで歩むのが清々しい。

 まるでインドサイの頭に一本だけシャキンと突き出た角のように。

*経集48

 

仏陀自身が独りで修行していた時期の経験もあって

生まれた言葉かもしれないです。

仏陀は誰にでも理解しやすいように、

動物などを例えに用いることもあったようです。

 

瞑想や精神的なことを学んでいることに対して、

周囲から理解を得られなくても気にしないように。

周囲に理解してくれる人がいなくても懸命に頑張りましょう

という意味もあるかと思います。

 

瞑想に限らず、仕事や勉強などにも通じる部分があると思います。

 

シルバーバーチの似た意味を含んだ内容の抜粋も記載しておきます。

 

自分で判断して、これが正しいと思う生き方をすればよいのです。

世間がどう言おうと構うことはありません。

まわりの人が何と言おうと気にすることはありません。

自分で正しいと思うこと――この方が得だとか都合がよいとかではなく、

心の奥でこうするのが本当だと確信した道を選んで、突き進むのです。

『地上人類への最高の福音』p.37

 

躊躇してはいけません。思い切りよく突き進みなさい。

あなたの差し出す手が拒絶されることがあっても失望することはありません。

あなたのことを気狂い呼ばわりしても悩むことはありません。

ご存知でしょうか。かつてイエスの弟子たちは酔っぱらい扱いをされたのです。

『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』p.72

 

現代の社会情勢に対しても通じる部分があると感じます。