ルドルフ・シュタイナーの、

思考の統御訓練とそれによって現れる徴候など に関する講義の紹介です。

 

1904.2.15 ベルリン での講義

 

※省略している箇所などもあり、実際の講義録とは異なるので御了承下さい。

 

 

西洋のまったく無秩序な・恣意的な思考は、

統御された思考・厳格な秩序に従う思考を発達させるのに相応しくありません。

 

※恣意的(しいてき)・・・論理性を欠き勝手気ままで思うがままに振る舞うさま

 

だからこそ思考の統御がまず第一に必要なのです。

 

それゆえ、非論理的な、無秩序な思考経過に対して敏感でなければなりません。

誰でも感覚が過度に刺激されると、一種の痛みを感じるはずなのに、

無秩序な首尾一貫しない思考を痛いと感じ取れる人は、ごく稀です。

けれども一度は、そう感じることができなければなりません。

思考するときだけでなく、西洋の文献を読むときにもです。

多数の神智学文献を含めて、そこには多くの無秩序な思考が見られます。

 

大多数の現代人は無秩序に思考していますが、

どんな無秩序な思考も、対象に対して相応しい関係を持てません。

ですからまず、自分の中に最後まで諦めない、

正しい思考を求めようとする強い感情を発達させなければなりません。

そして自分や相手の中にも正しくない思考が現れたときにも、

からだに痛みを感じるようでなければなりません。

 

とはいえ、日常生活の場合には、思考をその意味で行使するのは不可能です。

実際どこにおいても非論理的な思考が横行しています。

日常生活・職場・研究室・自然科学や歴史学の分野において、

いたるところで非論理的な思考に出会います。

 

自らを高次の認識へ導こうとする人は、

そして高次の認識を情報として受け取るだけに留まろうとしない人は、

心の内部での思考に集中する時間が持てなければなりません。

そのためには、僅かな時間だけでも、

毎日、自分を日常生活からまったく切り離さなければなりません。

3~5分でも自分だけの内面生活に意識を集中させて、

近代文明・日常生活とは無縁の思考内容、

しかも高次の根源をもった信頼できる思考内容に没頭しなければなりません。

そうすることは、外的な文化の中に巻き込まれ、

その中で心が引き裂かれていることの償いをすることです。

そうすることができれば、内なる中心力が力付けられ、

日常生活の中でも自らを律することができるようになります。

たとえ、それが日常生活に属していないものであっても、

ひとつの思考内容を意識の中に生かすことによって、そうできるようになるのです。

 

でも、いつでもそうできるとは思わないで下さい。

道を歩いているとき、いつも自分の思考を支配しているわけではありませんが、

何もしなくても至る処から思考内容がやって来ます。

そして意識に働きかけて、意識の中で遊び戯れます。

ですから、そのような思考内容に意識が手毬にされて、遊ばれているのです。

自身が一本の糸に導かれるように自分の内なる力で思考内容を

展開していくのでない限り、内部が自らを開示してくれることはないでしょう。

短時間だけでも日常生活の中から取り出して、

一つの思考内容に集中することができたとき初めて、

自分で自分の思考世界を支配するようになるのです。

内に秘めた思考を愛することのできる人は、内から力付けを受けます。

大切なのは知性で思考を把握することではないのです。

 

「途上の光」の最初の言葉、

 

「眼が見ることのできる前に、涙を流すのをやめなければならない。」 を

 

今日も明日も、繰り返して取り上げて下さい。

そうすれば言葉が生命を帯び始めます。

 

※「途上の光」

 マーベル・コリンズ著 邦訳「道を照らす光」 訳:浅田豊氏 村松書館

 

 

そして、その中に混ざり込もうとする雑念を排除するなら、

この言葉が存在の中心になってき始めます。

そして、その中心が自分の中から色々な思考内容を生み出して、

限りなく生産的になるのです。

そのとき初めて、至る処で混ざり込んでくる正しくない思考を

克服しなければならないということが分かってきます。

 

そのためには、

正しくない思考の針が肌を突き刺すかのように感じ取れなければなりません。

本を読むときにも、同じように感じ取れなければなりません。

非論理的な思考に痛みを感じ取れないなら、

正しい思考を展開することができません。

 

更に正しい思考は理解するだけでなく、愛せるものにならなければなりません。

一つの思考内容を理解したと思ったとき、もういいと思って、

その思考内容を意識の外へ追い出してしまうのではなく、

繰り返して何度でもその思考内容と向き合いたい、と思わなければなりません。

 

そうできたなら皆さんは思考の甲冑を身につけたのです。

そのとき過渡期が終わります。

非論理的なものに対する戦いは、

思考内容が机や椅子と同じ事実となったとき、終わったのです。

そのとき思考は能動的になったのです。

 

※能動的・・・自分の方から働きかける。自分の方から作用を及ぼす。

 対して受動的は受け身の状態。受動的な場合も実際に行動などは起こしている。

 

霊界に生きる人は、このことを知っており、

思考内容が私たちに働きかける力となって、

私たちを取り巻いていることにも気付いています。

私たちは、

互いにどれほど憎しみや好意の思考内容を送り合っていたかに気付かされます。

思考内容が心の中に入っていったり、跳ね返されていたのです。

 

瞑想によって内部から人生を統御することを知った人の場合は、

周りが水晶体に取り巻かれているかのようなのです。

全ての相応しくない思考内容は、この水晶体に跳ね返されます。

 

「今、正しい思考を行っている。」 と言えるかどうか、

どれほど自分の思考生活が内から統御されているか、

それを示してくれるバロメーターによって調べてみて下さい。

認識の小道を行く者にとって、このバロメーターとは夢のいとなみのことなのです。

とはいえ、

夢の営みを迷信深い人と同じような意味で高く評価しろというのではありません。

夢のいとなみが、まだ思考の営みを統御できずにいる人とは、

まったく別の意味を持つようになるのです。

大抵の人にとっての夢のいとなみは、ひどく混沌としたものでしかありませんが、

しばらくの間、瞑想生活に没頭しますと、

夢が象徴的な深い意味を持つようになります。

そういうときの秩序立った夢、美しい夢こそが、思考統御のバロメーターなのです。

 

外からの働きかけを受けて思考がよろめいている限り、

夢は外的な生活の不確かな残像に留まっています。

しかし、短時間だけでも、

外から襲いかかってくる全ての雑念から身を守っているときには、

夢が象徴的な意味を持ち始めます。

そのときには、自分を制御して、

この夢は私に何を示そうとしているのか、と問わなければなりません。

 

このことは高次と低次の夢の違いを明らかにしています。

睡眠中に営まれる生活は、

霊体を育成した人の場合と、そうでない人の場合とでは、まったく違います。

霊的な経験をする人は、このことを心得ています。

眼・耳・舌の語ることしか知らない人、感覚世界に埋没している人は、

睡眠中も感覚世界の不確かな残像しか経験できません。

5分間だけでも霊的な作業をすると、その成果が霊を刺激して霊を活発に働かせます。

そして、覚醒時にも、睡眠時にも、至る処でその霊の働きを受けます。

そして夢が規則的になり、小さなドラマになり、秩序立った行為になるとき、

真の内なる霊的生活が始まるのです。

 

しかし、これは霊の働きの最も低い段階にすぎません。

それに続いて、いっとき自分を外の作用から隔離したとき、

そして、その時間を内的な進歩のために用いるとき、

つまり瞑想という内なる霊的生活を過ごすとき、

あまり待つことなく、それまでとは、まったく違った夢を思い出すようになります。

・・・とはいっても、

 そのことが日常の仕事を妨げたり、仕事をいい加減にしてはなりません。・・・

 

このことは内的な進歩によって生じる意識の持続に通じます。

この持続が生じるのは、自己の中で自らを対象化したときです。

からだとまったく一つになって、霊と一つになっていない限り、

睡眠中からだから抜け出たときも、意識を働かせることはできません。

ですから睡眠中は大抵の人が無意識状態にあります。

意識の持続はゆっくりと現れてきますが、

それが現れたときは、睡眠中も目覚めていられます。

そして、そのときの睡眠中の覚醒意識を再び日常の覚醒意識の中に持ち込みます。

 

そのとき、夢という物質生活のためのバロメーター(尺度)を持っています。

その尺度によって通常の生活に対する抵抗力が高められます。

そのとき、からだを自分の外に見ることができます。

からだから引き離された自分が霊の中で生きているのです。

 

それによって仕事をしっかりしなくなるのではなく、

仕事に対してもっと有能になります。

霊を知っている人は、ますます有能になるのです。

 

ですから、大切なのは一日のある短い時間、

日常の利己心、見栄、通常の感覚上の安楽とはまったく関わりのない状態で、

思考内容に没頭することです。

それによって日常生活は、思考の光で照らし出されます。

 

こうして「途上の光」の最初の教えを理解するようになります。

皆さんは

禁欲生活を強いられたり、この世に変人にされたりしたいとは思わないでしょう。

禁欲生活は神智学の理想に反します。

通常の生活から霊に到る道を歩むことを通して、この理想に応えるのです。

 

「途上の光」が、

 

1 名誉心を絶ち

2 人生への関心を絶ち

3 安楽への願望を絶つ

 

と言うとき、すぐに

 

4 名誉心に燃える人のように働け

  人生を愛する人のように人生に関心を抱け

  幸せのためだけに生きる人のように幸せであれ

 

と続くのです。

そして更に、

 

心の中の悪の根を探して、その根を引き抜け

 

と言います。

 

学徒は、私たちが全体の分肢として、

存在するすべてと責任を共にしていると感じていなければなりません。

誰かが盗みを働いたなら、その罪が自分にもあると感じることのできない人は、

自分が全体と関連していることを知ることもできません。

悪の根源に出会うこともできません。

私たちは他の人たちと悪を共有する可能性、そうする能力をも持っています。

ですから、こう述べられています。

 

あなたの心の中に悪の根を探し出して、

それを引き抜きなさい。

そうしないと悪が芽を出し、この世の子らの心の中にも、

熱心な弟子たちの心の中にも繁ってしまう。

 

誰でも、自分は善人だ、他の人よりもずっと善人だ、

そんな善人に一瞬たりともなれるなどと思ってはなりません。

自分は他の人に較べて善人などとはとても思えない、という気持ちが大切なのです。

 

例えば人々を幸せにするとは、どういうことなのでしょうか。

今現在のようなやり方で生きている以上は、

多くの人を不幸にしているというのにです。

人生における苦しみの根は、知らずにいるということなのです。

どんなにしばしば知らずに過ごしてきたのかも知らずに、

私たちは悪のために用いるナイフを研いでいるのです。

 

強者だけが悪を絶つことができる。

弱者は、悪が成長し、成熟し、

そして死んでいくまで待つことしかできない。

 

人間の心の中で、雑草は或る時から別の時へと成長し続け、そして繁茂する。

けれども花を咲かせるのは、

数限りなく多くの人生を生き抜いた後になってからである。

 

色々なことが多くの受肉の後で初めて現れてきます。

一度高みに昇った人でも、後になって深いところへ落ちていきます。

この上なく偉大な認識者が、最低の駄目人間になってしまうのも

珍しいことではありません。

いかさま師と偉大な人物とを区別することはできないのです。

 

熟達の道を歩もうとする人は、

この雑草を心の中から取り除かなければならない。

しかし、それによって心の血がたっぷり流れ、

人生全体が無駄になってしまうかもしれない。

 

この言葉を文字通りに、けれども霊的な意味で受け取って下さい。

何が最高の意味で、

最高の在りようにおいて、人生にとっての価値なのかを考えてみてください。

そして、こう言えるようであって下さい。

 

私は思想上では

限りなく多くの価値ある事柄を考察してきたが、

私の人生における限りなく多くの事柄は、

まったく意味が無かった。

今までのような生き方を続けたくないのなら

新しい人生を始めなければならない。

外からの影響を受けてではなく、

私自身の内なる生命によって

新しい人生を始めなければならない。

 

そう言えるとき、外から見たら何も変わったところはないでしょうけれども、

人生を別の衝動の下に生きようとし始めています。

そうするのは、虚栄心からでも、名誉心からでも、心地よさからでもありません。

そうせざるをえないと感じる義務感から、そうするのです。

 

しかし試練に打ち勝たなければならない。

たぶん危険な登攀の第一歩から、たぶん最後の一歩まで、

試練はいつやってくるか分からない。

この試練に打ち勝たなければならない。

自分の人生を真っ当にするために、

全力を尽くさなければならない。

瞬間瞬間を生きていくだけであってはならない。

未来のために生きるだけであってもならない。

永遠を生きるのでなければならない。

 

見霊者は瞬間の中に生きる人の場合、

外界の思考内容が槍のように、その人に突き刺さるのを見てとります。

永遠の中に生きる人の場合、その外界の思考内容が跳ね返されます。

私たちを先に導いてくれるのは、

外的な成功でも成果でもなく、どんな瞬間にも永遠の中に生きることなのです。

欲望を充たすために努力するときは、何も得られません。

将来のために生きるのではなく、もっぱら永遠の中に生きるのです。

 

そこでは雑草が繁茂することはない。

永遠の思想の息吹があなたの人生から、

そういう汚点を取り除く。

 

更に大切なのは、アストラル体の育成です。

 

※アストラル体(魂)・・

人間の内部にある、快と不快・喜びと悲しみ・情熱・欲望・衝動などのこと。

Rシュタイナーは、アストラル体のことを魂とも呼んでいる。

 

低次のアストラル界 又は イマジネーション界 を 

キリスト教では聖霊の世界、仏教では欲界と呼ぶとRシュタイナーは解説しています。

 

感覚魂ー外界・外部から受け取った印象(情報)に対して、反応を返す作用の源。

 

悟性魂・心情魂ー感覚魂を通じて受け取った印象から思考が生じる。

 感覚・印象に対してそのまま反応するだけでは、

 野生の動物と同じになってしまうので、思考を仕えさせる働きが必要になる。

 この働きが悟性魂・心情魂。

 

意識魂ー魂が真理や善として自らの内に担っているもの。

 好嫌・情熱・欲求を支配する(高貴なものに変える)ことによって、

 これらが強制されなくても義務として認められた事柄に自ずと従うようになると

 人間はいっそう高みに立つことになる。

 

たとえば、

①私は花を見る(感覚魂の働き)

②私は花を見て考える(悟性魂・心情魂の働き)

③私は花を誰かに見せて喜んでもらおうとする(意識魂の働き)

 

思考を統御することでメンタル体に働きかけるように、

記憶を秩序あるものにすることでアストラル体に働きかけなければなりません。

思考だけでなく、記憶も統御されなければなりません。

記憶も試練の対象にならなければならないのです。

記憶は生体全体に重大な影響を及ぼします。

自分の過去の行為を振り返って見るとき、

利己主義的な後悔の念にかられてはなりません。

思い出す事柄は自身にとって、

事柄をもっとよく行えるようにするためにあるのでなければなりません。

 

大切なのは過去から学ぶことです。

自分の魂によりよい能力を与えるために、記憶を用いるのです。

想起するとき、受け身で回想するのではなく、

一見まったくどうでもいいような事柄でも、それを想起することで学習するのです。

そうすることができたとき、自分の魂の背骨を強化するのです。

 

記憶を統御するとき、アストラル体が私たちに必要な意志の器官になり、

アストラル的な直観力が形成されます。

涙を流すのをやめ、反感と共感を克服して、

記憶像に正しく向き合えるようにならなければなりません。

 

想起力・構想力を支配できたなら、当面の目標に達したことになります。

このことを実践していない間は、風にそよぐ葦のように、

どんな思想にも、どんな霊的な風のそよぎにも右往左往せざるをえません。

アストラル界とメンタル界へ意識的に赴く手段は、

内なる自己育成を志すこと以外にはないのです。

自分の想起力を統御して、

睡眠中の雲のような心の像を秩序立った光の像にすることのできる人、

特に心臓と頭部から発する心の像を秩序立った光の像にすることのできる人には、

内から外へ生きることへの意味が分かっています。

そこまで達した人には、もはや何ものも心に害を及ぼすことができません。

そのような人には最悪の思想を送りつけたとしても

その思想は何の作用も及ぼさずに跳ね返されてしまうでしょう。

そういう人が瞑想するときには、霊的な壁を周囲にめぐらしているのですから。

 

シュタイナーの瞑想法 秘教講義3

訳:高橋 巌氏 2019.6.20発行

 

今回紹介させていただいた内容の全文は、こちらの著書に収録されています

 

ルドルフ・シュタイナーの、思考の整え方と語り方に関する講義の紹介です。

 

1904.2.8 ベルリン での講義

 

※省略している箇所などもあるので、実際の講義録とは異なるので御了承下さい。

 

私たちの西洋文明は、思考を発達させるために、厖大な思考力を浪費させています。

けれども、その思考力のほとんど全ては統御されていません。

生じるときも、外に流れ出るときも、受容されるときも統御されていません。

ですから私たちを認識目標に導くことなく、そのエネルギーは失われています。

「思考の統御」の難しさは、限りなく多くの偏見が邪魔していることによるのです。

真剣に努力するなら、思考の統御は子供にもできるくらいに容易なのですが、

このことを具体的な例を挙げて説明してみましょう。

 

限りない数の思考内容が現在、社会状況を改善するために用いられています。

思考の統御を血肉化して体験している人の場合にも、

思考力の大部分は浪費されているのです。

 

自分の思想を最後まで追求していません。

この社会では何かが考え出されると、すぐに別のことが考え出されて、

はじめの考えを補足し、変化させなければならなくなります。

そうしている限り、自分の思考を統御することはできません。

 

このことは非難するつもりで言っているのではありません。

私たちは無数の物質中心の偏見の中で生きているので、

思考を統御するのは途方もなく困難なのです。

私たちの持っているほとんど全ての概念も常識も、

利害中心の偏見なのではないでしょうか。

日々私たちの中に流れ込んでくる物質中心の偏見の世界から

少なくとも内的に自由になるために、偏見であることをはっきりと意識しようと

努めるのでなければ、思考の統御は不可能です。

真の見霊に到ることはできないのです。

 

近代生活そのものが思考を別の方向へ向けさせます。

まるで外から磁力で思考力を別の方向へ向けさせているかのようです。

ひとつの例を挙げてみましょう。

 

ベルリンで高く評価されている、ある文筆家と話したことがあります。

私は人類のために用いることのできる数限りない力が、虚栄心によって失われている

、と話しました。

その文筆家は、私の言いたかったことの意味を理解してくれなかったので、

彼はただこう答えるだけでした。

「私たちはみんな虚栄心を持っています。しかし成功に導くのも虚栄心ですよね。」

こういう人たちは、自分たちが度を超して虚栄心が強いと思っています。

そして、私たちの現代の芸術を偉大な意味あるものにしているのも

烈しい虚栄心だと思っています。

けれども虚栄心は人を内面化させてはくれません。

虚栄心を克服しようと努めることは難しいことではありません。

世の偏見の中に嵌まり込もうとしない人にとって、

思考の統御を練習することが難しいことではないように、です。

 

名誉欲だけでなく、虚栄心と裏腹の好奇心も見霊能力をダメにしてしまいます。

人々は烈しい虚栄心に駆られて新聞を読んでいます。

世間で起きた個人的な噂話を知りたいという好奇心が、

見霊能力にとって有害であるとは思っていません。

そして、

好奇心に駆られて他人の個人的な事情に介入していることに気付かずにいます。

しかし別の人は虚栄心からではなく、社会生活にとっての有用な道具として、

知識を得るために新聞を読んでいます。

そういう人は自分のためにではなく、人々の役に立つと思ってそうするのです。

 

この問題を明らかにするために「途上の光」の冒頭部分を例に挙げてみましょう。

 

※マーベル・コリンズ著 邦訳「道を照らす光」 訳:浅田豊氏 村松書館

 

 

この部分は見霊能力の修行に役立ちますし、それに従うことは非常に容易です。

 

 1 名誉心を絶つ

 2 生きることへの執着を絶つ

 3 安楽を望まない

 

この3つは私たちの生活の中に深く根付いていますが、

いずれも見霊能力をダメにしています。

そして更に・・・

 

 4 名誉心のある者と同じように働け。

   執着心のある者と同じように生きよ。

   安楽のためだけに生きる者と同じように幸せであれ。

 

見霊者も、この世のために役立たなければなりません。

ただエネルギーを浪費せず、

どんな些細なことも高次の仕事のために役立たせようとします。

このことは見霊者にとっては当たり前のことです。

 

「途上の光」の以上の4つの命題の前には、次のような一連の条件がおかれています。

 

『眼が見える前に、涙を流すのをやめなければならない。

 耳が聞こえる前に、感じやすさを消さなければならない。

 導師たちの前で声を発する前に、心を傷付ける声を忘れなければならない。

 そして魂が導師立ちの前に立つ前に、心の血が足を濡らさなければならない。』

 

私たちがしなければならないのは、

自分の行為を生産的なものにして、人々のために役立たせ、

その行為を生きた力の行為として、人々の力づけになれるように努めることです。

 

※この後「からす」という用語が使用されます。

 「からす」はペルシアのミトラ秘儀の第一段階、無私の人、

 安易に判断しないように努める人のことで、

 人や物についての自分の考えを大事にしたいとは思わずに、

 人や物について他者の考えをもっとよく知りたいと思える人、

 他者の魂の中に沈潜して

 他者にとっての大切なことをよく理解したいと思える人です

 

しかし、

そういう全てが私たちの文化生活の中では、ほとんど不可能になっています。

皆がどんなことも自分で判断できると思っており、

何が正しく、何が間違っているかを評価する権利が自分にはあると思っています。

そう思っている限り、

私たちの文化が「からす」の段階に私たちを導くことは決してありません。

とは言っても、自分の判断を鈍らせよ、と言っているのではありません。

ただ安易に判断するのを控えるのです。

そうすることができる人は、第一段階に達したのです。

このことも、偏見の中で生きているのではない限りは、難しいことではありませんが

近代文明の中に生きている人にとっては難しいことです。

ですから、まず批判することを差し控えなければなりません。

 

高次の秘儀参入者たちは、皆この段階を通ったのです。

その人たちはまず、どんな人の魂の中にも沈潜して、何故ある人はこういうことをし

別な人は別なことをするのかを理解しなければなりませんでした。

 

人は口々にこう言います。

「彼はこんなことをしてしまったが、そうするべきではなかったのだ。」

しかし問題は、ある人のしたことに上から目線で判定を下すことではありません。

そうしないで、その人の内面を理解しようとする人が「からす」なのです。

そういう人は、どんな人の魂の中にも、

先入観なしに、動機を見出そうとするに違いありません。

――『彼は ”からす” たちを派遣する』

キャフホイザー伝説の中で

「赤髭皇帝」が「からす」たちを派遣したと言われていることの中には、

このことが余韻のように響いています。

 

この場合には皇帝自身が、人々の心を理解するために、

今介入すべきかどうかを「からす」の報告によって確認しようとしています。

このことは高次の意味では、忍耐して待つことに通じます。

厳しい、思い切った、自分本位のやり方を通す人は見霊能力に到りません。

その態度は待ちきれずに成功を求める人と同じです。

そういう虚栄心から来る努力・好奇心の全てに敏感であって下さい。

虚栄心と結び付いた好奇心は全て

蒸気釜の熱が外へ流れ出るように流れ出ていきます。

そして、それによって必要な力が失われます。

このことを根本原則だと思って下さい。

 

自分の好奇心を、自分本位の立場で満足させようとする瞬間に、

自分の力が消耗していきます。

その力を自分の下に留めておくなら、その力を高次の認識に変えることができます。

もっぱら好奇心で見たいと思ったものを一度だけでも見ないで済ますなら、

その力が貯えられます。

自分の下に留まった、その力は失われることがありません。

言いたいことを言わずに済ますときも同様です。

 

どこかで何かが語られると、周りにその話が伝わります。

それが通常の在り方です。

しかし、ただ虚栄心から周りに、その話をすることがあってはなりません。

よく言葉を選んで、言うべきことだけを言うのでなければなりません。

このことを原則として受け取るのは、霊視力を発達させる条件の一つです。

このことは霊視力のある者の経験です。

まったく非本質的なことであっても、自分をよく見せるために、

それを人に伝えたがる人は、霊視力を発達させることができません。

自分本位の虚栄心で話したくなる衝動を克服することができたときにのみ、

私たちは自分の中に力を貯えるのです。

 

このこと自体は、そうしようと思えば容易にそうすることのできる態度です。

けれども、そうすることに意味があるとは思えないので、

僅かな人だけにしか実行されていません。

大切なのは特別な訓練をすることではなく、

日常生活の中で私たちの内部を深めていくことなのです。

そうすることで私たちは第二段階の「隠れた人」に上がります。

 

どの言葉を発するときも、その言葉が人を傷付けるかどうかを検討する人、

絶えず検討することで、人の心を傷付けることがなくなった人、

自己中心になることなく語る人、それが「隠れた人」の在りようです。

自分のどんな手の動き、どんな言い方にも慎重に配慮して、

そうすることで誰をも傷付けることなく生きることで

第二の段階に達することができました。

 

しかし、そうなったとしても、自分は他者の魂の内部に入っていける、

今なら人に教えを諭すことができる、と思ってはなりませんでした。

何故なら、霊的な何かを教え諭す人、教師であろうとする人、

権威的であろうとする人になるには、

第三段階の「戦士」の域に達することができなければなりませんから。

 

そのことは「途上の光」の第二章「戦士」で述べられています。

第一章は全ての人のために、

第二章は一緒にいる人々に何かを何かを伝えようとする人のために書かれています。

しかし、ある意味では全ての人のためにも描かれています。

何故なら、どんな人も一緒にいる人々に何かを伝えるべきだからです。

第二章の諸規則に従う人だけが、自分の語る言葉が正しく受け取られる、

と期待できます。

どんな神智学の教師も、

次の根本命題に従うことなく、教えを諭してはならないのです。

 

1、来たるべき戦いに参加せよ。その時お前は戦士でなくても戦わなければならない。

2、お前の内なる戦士に向き合え。お前の戦士を戦わせよ。

3、戦うときはその戦士の指示を待て。その指示に従え。

 

戦いに参加するのを嫌い、

自分の中に引きこもる人は決して「戦士」にはなれません。

 

高次の内的進歩にとっての最大の敵は、

人の心を配慮せずに虚栄心でおしゃべりすることです。

言葉が必要になるときまで、人がその言葉を聞こうとするときまで待つ代わりに、

ただ語るために語っていると、つい誘惑の手に落ちてしまいます。

 

真の神智学徒、神秘家は誘惑を避けようとはしません。

誘惑がやって来るままにしておき、誘惑の只中で自分の内なる声に従うのです。

人が教師になるや否や、人の前に立たなければなりません。

どんな小さな誘惑でさえ、その手に落ちると、その人の力は消耗し、

熱が蒸気釜の外へ漏れ出るように、外へ流れ出てしまいます。

しかし、どんなに小さな意味の無い誘惑にでも、それに対抗できたときには、

戦士としての力を自分の中に貯え、その力を有効に働かせるでしょう。

 

以上に述べた手段によって、いつもなら失ってしまうものを貯えていくなら、

気付くことなく、その力が次第に内なる視力を獲得できるようにしてくれるのです。

 

※補足

▽瞑想などされている人に関わりのある、上記の講義に関連する別講義の内容です

 

秘教を志す人の場合は、虚栄心・功名心は人間本性の区分、

宇宙論の諸段階をイメージすることによって克服できる。

 

*瞑想や訓練をある程度進めている人は、脳などに変化が起こっているためです。

 この変化に関しては「いかにして高次の世界を認識するか」で解説されています。 

 

秘教を志す人は、他の人のようには身を守る力を働かせませんので、

意識的な態度で別の力を用いなければなりません。補助手段が必要です。

ただその手段は、しばしば善意ある人が思うようなものとは違います。

例えば、よく耳にするのは、こういう意見です。

――「虚栄心・功名心などには正面から立ち向かって克服すべきである。」

しかし秘教を志す人は、こういう意見には従えません。

正しい補助手段は、まったく別の分野にあります。

その手段は克服されるべき欠点とはまったく似ていませんし、接触点もありません。

虚栄心や功名心の有害な働きに対抗するには、

自分の中のそういう働きを克服しようとしてはなりません。

何故なら、

そういう態度をとると、あまりにも自分自身と関わり過ぎてしまうからです。

そしてまさにこういう欠点は、そのような自分との関わりを願っているのです。

救助手段は、自分自身とではなく、人間本性と関わることで得られます。

つまり人間とその7つに分節化された本性に集中して思いをめぐらせるのです。

こういう欠点が思わず生じてしまうようなどんな機会に際しても、

このことを行うなら、次第にそのような欠点は姿を消していくでしょう。

 

*7つの分節化された本性・・・

 人間は、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つで構成されていますが、

 自我が各々の体に働きかけることで、各々の体に変化が起こるため、

 自我、アストラル体、変化したアストラル体、エーテル体、変化したエーテル体、

 肉体、変化した肉体の7つに分節化されます。

 

シュタイナーの瞑想法 秘教講義3

訳:高橋 巌氏 2019.6.20発行

 

今回紹介させていただいた内容は、こちらの著書に収録されています

一つ前の前回は、「物質・感覚世界は幻想(マーヤー)なのか」 という

古代のインド文化期の認識に関して記載させて頂きました。

 

今回は、古代インド文化期以降~少し先の未来の人間に関する内容になります。

 

一般的な見解・認識などと異なる点があると感じられる方も

いらっしゃるかもしれませんが、

ルドルフ・シュタイナーの解説に沿って紹介させていただきます。

 

先に前回の内容を簡略化して記載します。

既に御存知の方は飛ばしていただいて大丈夫です。

 

■アストラル体とエーテル体

 

覚醒時の人間は、(起きて活動している時)

 

自我(霊)+アストラル体(魂)+エーテル体(生命体)+肉体(物質体)

の4つが結びついている状態にあります。

睡眠中は、 自我とアストラル体が、エーテル体と肉体から抜け出し、

 

 【①自我+アストラル体】 と 

 【②エーテル体+肉体】 に分かれます。

 

※アストラル体とエーテル体に関して簡単に記載いたします。

 

アストラル体(魂)・・

人間の内部にある、快と不快・喜びと悲しみ・情熱・欲望・衝動などのこと。

Rシュタイナーは、アストラル体のことを魂とも呼んでいる。

 

感覚魂ー外界・外部から受け取った印象(情報)に対して、反応を返す作用の源。

 

悟性魂・心情魂ー感覚魂を通じて受け取った印象から思考が生じる。

 感覚・印象に対してそのまま反応するだけでは、

 野生の動物と同じになってしまうので、思考を仕えさせる働きが必要になる。

 この働きが悟性魂・心情魂。

 

意識魂ー魂が真理や善として自らの内に担っているもの。

 好嫌・情熱・欲求を支配する(高貴なものに変える)ことによって、

 これらが強制されなくても義務として認められた事柄に自ずと従うようになると

 人間はいっそう高みに立つことになる。

 

たとえば、

①私は花を見る(感覚魂の働き)

②私は花を見て考える(悟性魂・心情魂の働き)

③私は花を誰かに見せて喜んでもらおうとする(意識魂の働き)

 

エーテル体・・

生命活動が持続する間、形状の崩壊を止めようとする作用・働き。(生命エネルギー)

Rシュタイナーは、エーテル体のことを生命体・形成力体とも呼んでいる。

 

植物や動物も生命活動が持続している間、

エーテル体が物質的形状の崩壊を留めています。

 

睡眠中にエーテル体と肉体が結びついていることによって、

生命活動が持続して、肉体が崩壊しないようになっています。

 

睡眠中は、②から①が離れて、霊的・魂的な環境に赴きます。

眠ることで自我が体験する全ての上には、忘却のヴェールが覆い被さります。

アストラル体の「思考内容・快と苦・喜びと悲しみ・意識して意志を行使する能力」

は睡眠中は消えてしまいます。

①が担っているものを意識するためには②と結びついている必要があります。

アストラル体は②から抜け出している時と、結びついている時とでは

異なる在り方をしていますが、

睡眠中に、①は覚醒意識を持たず快苦を経験していないとしても、

アストラル体は霊的・魂的な環境の中で活動しています。

ここまでが睡眠時の人間の在り方の概要になります。

 

■人類史の時代別表記

 

現在はアーリア時代に分類されます。↓アーリア時代への移行の流れです。

 

 アトランティス時代(大洪水前)

  ↓

 大洪水(ノアの箱舟の伝説)

  ↓

 アーリア時代:七通の手紙の時代 BC7227~AD7893(現在)

 

「七つの○○」は新約聖書ヨハネの黙示録の解説講義の呼称

 

アーリア時代を更に詳細に文化期に分けると次のようになります。

 

 第一文化期:インド文化期 BC7227~5067 

 第二文化期:ペルシア文化期 BC5067~2907 

 第三文化期:エジプト・カルデア文化期 BC2907~747 

 第四文化期:ギリシャ・ローマ文化期 BC747~AD1413 

 第五文化期:ゲルマン・アングロサクソン文化期 AD1413~3573 (現在)

 第六文化期:ロシア文化期 AD3573~5733 

 第七文化期:アメリカ文化期 AD5733~7893 

 

第一~第七までの数字を表記しました。

この表記が以降の今回の内容で参考になります。

 

七通の手紙は一通づつが各文化期を現わしています。

現在は、七通の手紙の五通目の手紙の時代になります。

 

■洪水前の時代からインド文化期への移行期(前回内容の箇条書)

 

現在の人間は肉体頭部とエーテル体頭部は一致していて、大きさも形もほぼ同じ。

それ以前のアトランティス人はエーテル体頭部を肉体頭部の上方に突き出していた。

脳には眼の近くに一つの点があり、

それは現在エーテル体の頭の一点と重なり合っているが、

この二つの点は太古には分かれていた。

この重要な点が一つに重なったとき、人間は自分に向かって「私」と言うようになり

「意識魂」が現れた。

 

アトランティス人はエーテル体頭部が、肉体頭部の外にあることによって、

太古の見霊能力が失われずにいた。

夜、肉体から離れた人間は霊界に参入し、或る程度まで霊界の諸事実を見ていた。

アトランティス期の中葉もしくは始めの3分の1の人間が、朝目覚めたとき、

周囲の物質界は、現在のようにハッキリと輪郭づけられてはいなかった。

アーリア時代のような、明るい昼の意識と暗い夜の意識との鋭い区別はなかった。

アストラル体は夜、エーテル体と肉体とから抜け出たが、

エーテル体の一部分がそのアストラル体と結び付いていたので、

霊界がそこに映し出されていた。

人間は常に薄明るい見霊能力を働かせて、周囲に霊的事象を見ていた。

 

アーリア時代の始まりをなす古インド文化期の人間の場合、

霊界への門は閉ざされ、神霊界との共同生活から神霊界への憧れだけが残った。

古インド期における秘儀参入の道は失われたものへの憧れから発して、

以前の状態に立ち戻るために、獲得できた明るい昼の意識から特定の時間離れる。

ヨーガ技法は自然的な発展の過程で失ってしまったものを、

人為的に再び獲得するための古インド期における方法だった。

 

ここから生み出された余韻が真理・現実・本質は霊界にのみあり、

その霊界に参入するには、

物質的・感覚的世界から離れなければならないという気分を生じさせた。

現在は、鉱物界・植物界・動物界の中で生きているけれども、

そこでは、真実のものではなく、外的な仮象にすぎない。

人間は太古の真実を見失い、

現在は仮象と幻想と錯覚の世界に生きているという気分があった。

 

こうして古インド文化にとって物質界は幻想(マーヤー)の世界になった。

聖なる存在でありたいと願った太古のインド人たちにとって、

幻想の世界には価値がなかった。

彼らにとって物質界は幻想にすぎなかった。

 

↓ ここから今回の内容になります

 

■第一~第三文化期の外的な発展 物質的現実の征服

 

アーリア時代の人類の使命は、

ますます物質世界を征服し、物質現象を自由に支配することです。

一歩一歩、物質との関連を様々な文化期を通して獲得していかざるをえません。

 

第一文化期:インド文化期においては、

全ての叡智が物質界を離れて、記憶の中に存する霊界の方を向いていました。

物質に働きかけたり、それを研究したりすることには価値が認められませんでした。

本来のインド原則では、地上生活に有用な科学を作り出すことはできず、

現代文化の基礎を為す自然法則の研究を生じさせることは不可能でした。

幻影にすぎない世界の法則をいくら学んだからといって、

” それが何になる ”と思われていたのです。

後にインド文化の中に生じた別の在り方は、外来の文化の影響によるものでした。

 

第二文化期:ペルシア文化期は、インド文化期と同じように先史時代に属しますが、

後世になってからこの文化地域に住んでいた諸民族の名に、ちなんで、

「古ペルシア文化期」と呼ばれています。

ですから後のペルシア文化のことではなく、

ペルシア地域における先史文化のことなのです。

ペルシア文化期の人々は、インド文化期の原則から離れて、

物質的現象を克服するための最初の一歩を進めました。

この世を、課題を応えて働く場所と見なすようになったのです。

 

ペルシア文化の担い手は、物質界の現実性を感じ始め、

まだそれを闇の神の領域であると思っていましたが、

物質的現実を光の神の助けを得て我がものとなし、

善き神々の力に浸透させることができる、という希望が生じたのです。

 

第三の文化潮流は、古インド・古ペルシアから更に西に向かい、

第三文化期:エジプト・カルデア文化期の土台を創ったのです。

(R・シュタイナーは、バビロニア=カルデア=アッシリア=エジプト文化期とも呼んでいます)

星々の運行についての諸法則が深く探求されました。

アーリア時代の最大の業績の一つと目されるカルデア天文学のことを考えて下さい。

 

エジプト文化期に属する人たちにとって、土地の空間関係を把握するために、

幾何学を作り上げることは非常に重要でした。

幻想であった世界を調査するために、外的な科学が生じました。

人々は神々の考えが書き込まれている物質界という「神々の文書」と、

自分の知的作業との間に関連を見つけなければならないと感じたのです。

当時の国家の指導者たちは、

天体運行の法則を知り、宇宙万物の対応という事実を理解していました。

地上の出来事が天体の運動に対応し、調和が存在していることを知っていたのです。

第三文化期の人間は、物質の中に霊を組み込み、外界に霊を浸透させていきました。

 

■第一~第三文化期の内面的な発達

 

アトランティス時代の人々が、一種夢幻的な見霊意識で外(界)を見る限り、

自分の内面に注意を向けることはできません。

「私である」ことで受け止められる内面生活は、

鋭く輪郭づけられたような在り方をまだ示していません。

霊界(を認識する力)が消えるのに応じて、

人々は自分自身の霊性を意識するようになったのです。

 

インド文化期には、霊界に参入して地上の幻想から超越しようとするには、

霊界の中で自己を喪失しなければならない、可能な限り「私である」自分を消し去り

万霊の中に同化しなければならないと感じていました。

特に秘儀参入に際しては、人格を放棄することが当然とされていました。

 

※秘儀参入・・・見霊能力を得るための訓練や儀式などのことで、

 国や地域によって様々な方法が伝承されています。

 苦行も秘儀参入方法の一つです。

 R・シュタイナーも秘儀参入者で、日本では真言の弘法大師空海などが有名です。

 

第三文化期には、既にそれまでの間に自己意識が発達していたため、

もはやそのような(インド文化期のような)ことはなくなりました。

ますます自我の本性が意識化されるようになると、

人々は周囲の物質を愛するようになりました。

人間精神が(洪水前の時代の)薄暗い夢意識では不可能であるような仕方で

諸法則を考え出し、それをもって物質と深く結び付けば付くほど、

人々は自分の自我をますます発達させていきます。

 

エジプト期には、人格意識の進化が一定の頂点にまで達します。

この人格意識の中には、誕生前の霊界と結び付く可能性の全く無い状態、

外界に同化するしかない状態よりも、もっと根本的な何かが同時に現れていました。

この点の経緯を知るには、

人類進化の二つの基本気分を心に思い描くことができなければなりません。

 

アトランティス時代、インド文化期の人間は、

個人の人格(「私である」という個人の人格意識という意味)を

否定することができたらいい、と思っていました。

アトランティス人は毎夜(睡眠時)人格を捨てて霊界に生きていることを

自明のことと思っていたため、そうすることができました。

偏在する神の中に、普遍的な存在の中に安らぐことを何よりも望んでいました。

そして、それが氏族の一員として祖先と血を共有しているという

共属性の意識となって残ったのです。

この気分は神霊存在の中に庇護されているという古い気分から生み出されたのです。

 

※アルコールに関する内容で以下のように解説されています。

 

古代の諸民族・諸人種の場合、人間は小さな集合体の中で生活していました。

今日の人間の記憶は、せいぜい子供の頃を思い出すことしかできませんが、

古代人の場合、自分の行為を思い出すだけでなく、父や祖父の行為をも

自分のことのように思い出すことのできる、別の記憶の存在する時代がありました。

記憶は祖先たちの血族共同体にまで拡がり、何世代間にまで及びました。

記憶は血と共に何世紀にも渡って維持され、

部族の子孫は祖先の行いや考えの中にも、

自分のことのように「私」の働きを見出しました。

人々は誕生と死との間を生きている自分を感じたのではなく、

その中心に祖先が存在している系統の一員であると感じていたのです。

 

第三文化期になると、正常の進化を遂げた人々は、自分を個人と感じ始めましたが、

同時にその人々は、自分が全体の中で、神霊の中で庇護されて生きており、

祖先とは血によって繋がっており、先祖代々流れてきた血の中で

神が自分たちのために働いてくれていると思っていました。

 

■第四文化期 キリストの出現

 

古代のヘブライの原則は、エジプト文化から生じました。

第四文化期が始まる以前、

第三文化期の中からキリスト教の地盤を用意する民族と、その伝統とが現れました。

第四文化期において、

人間は自らの霊性・自我を客観化して世界の中に定立するところまで来ました。

次第に物質に自らの精神・自我を浸透させていくのです。

古代ギリシャの彫刻家・戯曲作者たちは、

自らの魂の特質を具現化して、人々の魂の前に提示しました。

ローマ期になると

人間の尊厳を外なる世界の前に「法」として具現化して見せるのです。

「遺言」という概念も、この時代に生まれたのです。

死後にも自らの意志を行使したいと思うくらいにまで、

人々は自らを人格化し、個体化したのです。

 

ギリシャの建築空間においては、自らの内なる人間意識と、

外なる空間の中の神的なものとが、最高度に美しく浸透し合っています。

この文化期においては、

人間精神が物質的・感覚的な世界と完全に合致していたのです。

 

霊学の意味での第四文化期は、

人間と周囲の環境世界とが完全に一致していた時代です。

人間が外的現実と完全に調和していた、この時代でなければ、

神的存在が一人の個人の中に現れることは理解できなかったでしょう。

(イエスに降臨したキリストのこと。キリストは名前ではなく救世主という意味。)

それ以前でしたら、神的存在が人間の形姿をとって現れるとは、とても思えず、

神とはもっと遙かに崇高な存在であるはずだ、と思ったでしょう。

 

だから「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記24章)とされ

 

神的存在に物質形姿をとらせまいとしたのです。

神の理念を霊的な形姿の中で理解すべき民族には、

そのように命じなければならなかったのです。

この民族は、この言葉の意味する立場に従って進化を遂げ、

霊的存在が肉となって現れるというキリストの理念を育てました。

ここにこの民族の使命があったのです。

この意味でキリストの出来事は、第四文化期に生じなければならなかったのです。

 

▽キリスト出現の準備をしたエッセネ派などの解説は、

 シュタイナーコレクション5「マタイ福音書講義」などに収録されています。

 

 

人類の進化全体は、

キリスト者の意識にとっては、前キリスト時代と後キリスト時代とに分かれます。

神即人間という概念は、特定の時代の人間にしか理解できなかったのです。

それ以後、キリスト教的感情は、

ますますギリシャ思想によって自らを表現するようになりました。

キリスト教は再び物質を超えていかなければなりませんでしたから、

ゴシックのような文化が生じたのです。

 

※ゴシック文化・・・

 12~15世紀にかけてのヨーロッパの建築、芸術、音楽、ファッションなどの文化。

 

キリスト教は、物質の中に陥った人々の下でのみ生じることができました。

まだ現代ほどに

物質を過大評価したり、その中に埋没してしまったりはしませんでしたが、

物質に霊的な作用を浸透させることができたのです。

人類の霊的進化全体を振り返ってみますと、

キリスト教の成立は、まったく必然的な事件だったと思わざるをえません。

 

■肉体を自我の道具にする

 

アトランティス時代の中葉まで遡りますと、

自分から「私は私だ」とか「私である」とか言えるような自意識を発達させた人は

まだ一人もいませんでした。

アトランティス時代の最後に、エーテル体の頭部が肉体の中に沈み込み、

それによって人間は自分に対して「私である」という最初の可能性を得たのです。

 

大洪水が起こったとき、既に人間の肉体は「私である」の力に浸透されて、

人間は肉体を道具として自我意識・自意識のために用いることができたのです。

人体は自我意識の担い手となるのに必要な、脳その他の身体基盤を育成したのです。

 

アーリア時代においては徐々に人間の中にマナス(霊我)が入ってくるという

別の事柄が生じなければなりません。

 

※マナス(霊我)・・・

 人間はアストラル体にまで自己の働きかけを拡大することができる。

 そして自我がアストラル体を支配し、

 自らをアストラル体の隠された本性とひとつに結び付ける。

 そのようにして自我に支配され、

 変化させられたアストラル体は、「霊我」と呼ばれる。

 これは東洋の叡智が「マナス」と呼ぶものと同一である。

 人間存在の高次の本性である霊我は、人間の中でいわば萌芽として存在しており、 

 自我の働きの中で、ますます自らを顕在化していく。

 人間の知性の進化、感情と意志の浄化・高貴化は

 アストラル体を霊我に変化させる過程である。

 自我がエーテル体に働きかけ進化させると、それを「生命霊」に変える。

 生命霊は東洋の叡智が「ブッディ」と呼ぶものと同一である。

 

神秘学概論に、マナス(霊我)とブッディ(生命霊)の解説がされています。

 

 

アーリア時代の第六、第七文化期を経験する頃の私たちは、

既に或る過程までマナスを発達させていることでしょう。

このマナスに相応しい道具となるためには、長い準備が人間に求められます。

その為に人間は数千年の経過を通して、

予め本来の意味での「自我の担い手」とならなければなりませんでした。

自分の身体だけではなく、

他の存在部分も自我の道具にしなければなりませんでした。

 

■アストラル体、エーテル体の育成

 

▽各文化期を通して育成されるアストラル体とエーテル体

 

第一文化期(BC7227~5067):エーテル体

第二文化期(BC5067~2907):感覚体

第三文化期(BC2907~747) :感覚魂(アストラル体の、外界に対する反応)

第四文化期(BC747~AD1413):悟性魂(アストラル体の、反応に対する思考)

第五文化期(AD1413~3573):意識魂(アストラル体の、真理や善)

第六文化期(AD3573~5733):霊我(マナス)

第七文化期(AD5733~7893):生命霊(ブッディ)

 

※アポロン菩薩が第三文化期(BC2907~747)に音楽を通して

 ヨーロッパ文化に論理的思考の元基を与えた後、

 オルフェウスに生まれ変わり菩薩から仏陀となって

 音楽を通して論理的思考を人間に与える役割を継続した。

 

※BC3101~AD1899までは、

 バラモン教でいう「小カリ・ユガ(暗黒時代)」とされています。

 暗黒時代には、一般的な人々は霊界を知覚できません。

 暗黒時代が明けた後の20世紀以降、(現代は既に明けていることになる)

 一般の人々の中から少しづつ、

 エーテル体を認識できる人々が現れるとされています。

 (具体的には、早い人で1930~40年頃からとされる。)

 現在、霊視者が持つ能力が将来的には人類の普通の能力になります。

 今後三千年の間に多くの人々がエーテル体を認識できるようになる為、

 福音書などの物理的な書物は不要になっていきます。

 

第一文化期の人間は、肉体に加えて更にエーテル体を自我の担い手にします。

第一文化期の特質は、

自我に相応しいエーテル体をも持つ能力を獲得することにあります。

 

第二文化期で育成されるのは感覚魂です。これは人間本来の活動力の担い手です。

第一~第二期への移行は、物質を加工するようになることでした。

両手を活発に働かせ、労働するようになることが第二文化期の特徴です。

 

第二文化期の本質は、自我が感覚体の中へ沈められることの中にありましたが、

第三文化期の本質は、自我が感覚魂の中にまで昇っていくことの中にあります。

感覚魂とは、主として知覚する人間の場合に、自らを外へ向けるもの、

眼その他の感覚器官を使って外なる自然の中の支配する働きを知覚することです。

当時、眼は空間に拡がる物質的事象へ向けられ、星々やその運行へ向けられました。

外なる空間の中に存在しているものが、感覚魂に働きかけました。

当時のエジプトの叡智は後世のように論理的思考形式をとらず、

眼を外へ向け、感覚によって外に働く法則を読み取ったのです。

法則を読み取るのは概念ではなく、直観・感覚だったのです。

内なる知性の力で思索しなかったので、

本来の概念学・論理的科学は、当時はまだ存在していませんでした。

 

第四文化期は悟性魂の文化期です。

自我そのものの中で思索する論理学、

自我の中で概念を結び付けたり区別したりする態度、

論理的に判断しても、事物から直接読み取ろうとしない態度は、

第四文化期になって現れます。

 

私たち自身は、自我が意識魂の中へ入る時代の中(第五文化期)にいます。

中世の中葉に自我は意識魂の中に入り、

個人の自由について、個的な自我の働きについて人々が考えるようになりました。

中世初期の人々は社会的な地位だけで評価されました。

人々は父や親族から地位・身分を受け継ぎます。

自我と意識的に結び付いているのではない、

この非人格的な事柄次第で、社会的な評価を受けました。

 

通商が範囲を広げ、

発明・発見が相次いだ後世になって、初めて自我意識が活動し始めます。

そしてヨーロッパ世界の到るところで、

この意識魂の社会的性格が都市憲章・都市構造などに現れるのです。

そして現在に眼を向けますと、

今、私たちが私たちの人格を意識魂の中で育成しつつあるのがよく分かります。

近世のすべての諸要求は、

人間が無意識にであっても、意識魂の要求を提示しているのです。

 

■第六文化期 未来のマナス文化

 

更に未来に眼を向けると、人間はマナスへの次なる文化期に到ります。

そこでの人間は現在よりも、ずっと共同の叡智を身に付け、

その時には、個人のもっとも固有のものが同時に人類のもっとも共通のものである、と感じられるようになるでしょう。

現在の意味での個的な財は、まだ高い次元での個的の財ではありません。

現代人は互いに争い、人とは異なる意見を持ち、

そうした意見を持てないようでは独立した人間ではない、と思っています。

独立した人間であろうとすれば、違った意見を持たなければならないのです。

しかし未来における人々の場合、個人個人が個的であればあるほど、

ますます平和で調和した生き方をすることができるでしょう。

人々がまだ霊我を通して語るのではない限り、違った意見が出てきます。

そういう意味では、

まだ人間のもっとも内奥の部分で真実であると感じられた意見ではないのです。

 

真に心の内部で互いに共有できる事柄を、既に今日の数学と幾何学が示しています。

数学の真実については、わざわざ合意する必要がありません。

百万人の人が私たちに 2×2=5 だと言っても

 2×2=4 であることを私たちが内的に洞察しているなら、

他の人たちが間違っているのは自明のことだからです。

これがマナス文化の基本です。

それは真理の源泉が人間の強化された個的人格の中で、

ますますはっきりと感得される文化であり、

数学上の真理のように高次の真理を感得することで、

人から人へ通じ合える文化です。

人々は現在、数学上の真理については皆同じ意見を持っています。

もっとも分かり易い真理だからです。

しかし他の真理については争い合っています。

同じ事柄について二つの意見が存在しうるからではなく、

すべてを認識して、個人的な利害関係による区別を克服していないからです。

 

もしも単純な数学にも、自分の意見が問題になりうるとしたら、多くの市民たちは

 2×2=5 であり、 4 ではないという意見に賛成してしまうでしょう。

事柄の本質を洞察しようとすれば、

高次の本質について利害関係を主張することは不可能です。

本質が認識できるように自分を成長させるしかないのです。

そうできたなら、ある人の魂の中に見出せる真理は、

他の人の魂の中の真理と完全に一致し、もはや争わないでしょう。

そしてこのことが、真の平和と真の友愛とを保証する唯一の立場なのです。

 

真理が互いに調和し合うのは、

その真理が霊的な太陽と本当に関わっているからです。

一つ一つの植物がどのように生長していくか考えてみて下さい。

どの植物も唯一の太陽に向かって伸びていきます。

第六文化期になって霊我が人間の中で生きるようになると、

ただひとつの霊的な太陽が見えてくるでしょう。

すべての人の心がそこへ向かい、そこにおいて一致するようになるでしょう。

これは第六文化期へ向けて、私たちの見る偉大な展望です。

 

しかし、これは予感することしかできない、遠い未来のことです。

今はっきりと言えるのは、第六文化期が非常に重要な文化期だということです。

共通の叡智によって平和と友愛とがもたらされる時期になりうると思うからです。

個々の選ばれた人たちだけでなく、

正常な進化を遂げた全ての人々にも高次の自己が、霊我となって現れます。

ゆっくりと形成された個的な自我に、高次の統一的な自我が結び付くのです。

 

※R・シュタイナーは別の講義で弥勒菩薩に関して述べています。

 弥勒菩薩は釈迦の入滅から五千年後に現れ仏陀になると述べられているので、

 時期的に第六文化期内となります。(以下に一部抜粋します。)

 

・・・徳の発展は地球進化の衝動とは少し異なります。ゴルゴタの秘蹟が生じる前、

仏陀の後を継ぐ一人の菩薩が地上に受肉し、ゴルゴタの秘蹟の準備をしました。

ナザレのイエスの生まれる一世紀前に、(BC100年頃)

この菩薩はパンディラのイエスの中に受肉しました。

仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスと、

キリストと呼ばれる宇宙存在に三年間貫かれたナザレのイエスとは別の存在です。

パンディラのイエスの中に受肉した菩薩は何度も地上に出現します。

そして、今から三千年後に仏の位階に達し、

弥勒仏として最後の地上での人生を送るのです。・・・(前後省略して抜粋)

 

・・・将来、弥勒仏となるこの菩薩を、

東洋の神秘学は「善をもたらす者」と呼んでいます。

今日の人間にはその概念を持つことのできない程の高次の段階の言葉の力が

弥勒仏の中に存在することになる、と神秘学は考えています。

高度の霊的感覚器官によって世界の進化を知覚することによって、

三千年後に弥勒仏が説く教えを知る事ができます。

その説法は象徴的な形で語られますが、人類はまだ十分に成熟していないので、

弥勒仏が語るような言葉を語ることはまだできません。

仏陀は正しい意見、正しい判断、正しい言葉、正しい行為、正しい見地、

正しい努力、正しい記憶、正しい確認の八正道という形で、

偉大な智を与えています。

弥勒仏の語る言葉には霊力があり、それを聞いた人の中に道徳衝動が喚起されます。聖ヨハネがキリストについて「そして言葉は肉となった」と書いたのに対し、

弥勒仏の福音は「そして肉は言葉となった」と記されるでしょう。

・・・(前後省略して抜粋)

 

▽今回の内容はこちらの著書で解説されています。

記事の内容は省略などしている為、実際の文面とは異なりますので御了承下さい。

 

「ヨハネ福音書講義」 

訳:高橋巌氏 1997.12.20日本版発行

1908.5.18~31 ドイツのハンブルクでの講義

2024.10に新装版も発行されています(何度か改訂版が発行されています)