オックスフォード教育講座

訳:新田 義之氏 2001.12.25発行

1922.8.16~29 オックスフォード大学で開催された研究集会にて、

Rシュタイナーが行った9回の講演が収録されています。

 

今回はルドルフ・シュタイナーが一般の方向けに講演をした、

瞑想に関する内容を紹介させていただきます。

 

※著書の内容から要約、省略している箇所もあるので、

 実際の著書の文面とは異なるので御了承ください。

 

※著書や翻訳されている方によって、

 Rシュタイナーが使用している用語の日本語訳が少し異なる用語もありますが、

 今回の内容は今回の著書に沿って記載させていただきます。

 

内容を大別すると下記のようになります。

実際の著書には大別した概要タイトルはありません。

 

【前半】

 

■瞑想に関する前置き

 

■瞑想の集中方法と、最初の気付きの日

 

■瞑想によるエーテル体への気付き

 

■密議的認識と、瞑想時の豊かな寛容性

 

内容が長いので上述の概要箇所までを前半として、今回紹介させていただきます。

以下の概要箇所は後半として、次回紹介させていただこうと思います。

 

【後半】

 

■超感覚的認識と、誕生前の霊性認識

 

■永遠性=不死性と前誕生性

 

■意志の鍛錬方法の幾つかの例

 

■意志の鍛錬により現れる2つの兆候

 

 

ここから今回の内容になります。

 

■瞑想に関する前置き

 

思考する者にとって

「私があらゆる認識の際に用いる、この思考というものそれ自体は、

 一体何なのであろうか?」という疑問が生じます。

どれ程長い間考え続けても、

思考とはどんなものなのかを見付け出すことは出来ません。

この時、思考は、いつまでも同じところに立ち止まっていて、

言うなれば既に自分たちが作り上げた軸の周りを、

自分で回っているに過ぎないからです。

私たちは思考を用いて

「瞑想(メディテーション)」と呼ばれるものを為さなければなりません。

 

瞑想のことを神秘的なものと考えるべきではありませんが、

しかしこれをまた軽く考えすぎることも間違いです。

瞑想は今日の私たちの感覚においては、完全に明瞭なものでなければならず、

それと同時に、それに達するには忍耐と内的な心的エネルギーとを要します。

そして、それには自分以外の人間には決して与えることのできない

「何か」が含まれております。

自分自身に何かを約束し、それを守り通すことができるということが、

瞑想を成り立たせる条件の一つなのです。

 

ひとたび瞑想を始めると、

その人は人間の生における只一つの、本当に完全に自由な行為に入るのです。

私たちは自身の中に、常に自由を求める傾向を持っておりますし、

また求める自由の多くの部分は実現されました。

しかしながら、もし私たちが詳しく考え始めると、

私たちは、ある部分は遺伝に左右されており、ある部分は教育に関係し、

また別の部分は生活に影響されているのに気付くでしょう。

そして私たちが遺伝・教育・生活から手に入れたものを、

どの程度さっぱりと捨て去ることが出来るのか自問してみてください。

もし、こういうものをいっぺんにさっぱり捨て去ろうとすれば、

相当程度「無」にさらされるのではないでしょうか。

 

しかし私たちが超感覚的な世界の中を覗き込むことを、次第に学んでいくために、

朝晩に一度づつ瞑想することを始めても、これをいつでも中止することもできます。

それに逆らうものは何一つありません。

また多くの(R・シュタイナー自身の)経験が示すところでは、

たいへんな決意をもって瞑想的な生活に入っていった人々の大部分が、

すぐにまたそれをやめてしまうものです。

私たちはこの点に関して実に完全に自由なのです。

瞑想行為というものは、根源的に自由な行為なのです。

それにも関わらず、自分自身に対して誠実さを守ることが出来、

誠実に瞑想をすることを自分自身に約束するとするならば

(自分自身に対して誠実を守りうるということ)

それは、心の中の巨大な力の存在を意味します。

 

以上を前置きとして、瞑想がそのもっとも単純な形で行われるとしたら、

どんなものになるか、その基本的な点について、お話してみようと思います。

 

■瞑想の集中方法と、最初の気付きの日

 

ある一つの何かの表象、又は表象の複合体を、意識の中心点にもってきます。

この表象(複合体)の内容は全く問題になりません。

→条件:ただそれは、直接的なものでなければならず、

 記憶の中の思い出や、それに類するものであってはなりません。

 ですから、

 こういう事柄に経験を積んでいる他人から、瞑想の指導を受けるのがよいのです。

→理由:それは、その人が自分に何かの暗示を与えるであろうからではなく、

 自分の瞑想するものが、自分自身にとって、まったく新しいものであることが、

 それで保証されるからです。

 

※シュタイナーコレクション3 照応する宇宙、秘教講義3などでは

 「薔薇十字」の表象などが紹介されています。

 

 

 

これまで一度も読んだことのない作品を取り上げて、

瞑想のための言葉を提出しても結構です。

大切なのは意識化、又は無意識領域から文章を取ってきて、

それに身を任すことを決してしないことです。

そのような文章は純粋にそれを眺めることが出来ません。

何故なら、それには、ありとあらゆる感情・情動の残滓が混入しているからです。

大切なのは、

瞑想に用いる文章が、あたかも数学の式が透明であるように透明であることです。

 

非常に単純な「真理は光の中に住む」という文を採ってみましょう。

これはまず本当であるかどうかを吟味することが出来ません。

これは一つの像なのです。

その内容そのものと、何か特別な方法で取り組むことが問題なのではなく、

内容を内面的・心意的に眺め、その上に意識を憩わせることが肝要なのです。

始めのうちは、

ほんの短い間しか意識をこのような内容の上に憩わせることは出来ないでしょうが

その時間は少しづつ長くしていくことが出来ます。

 

これは、

私たちの内部にある思考や感情の総ての力を一つの内容に向けて集中させるために

心性としての人間の総体を一つに凝縮するということなのです。

筋肉を強くするために、それを働かせなければならないのと同じように、

心の力は繰り返し一つの内容に向けられることによって鍛えられていきます。

できれば、この内容は何ヶ月も何年間も同じものであった方がよいのです。

心の力は本当の超感覚的な探求をするためには、

まず強められ鍛えられなければならないからです。

 

こういう方法を続けていくと、突如として、

あるはっきりした一つの事実に気付く日(偉大なる日)が訪れます。

肉体から完全に独立した心(性)的作用に、

自分が次第に入っていっているということに気付くのです。

また以前には、自分の思考も感情作用も全て肉体に依存していたこと、

つまり表象作用は感覚・神経系に、感情作用は循環系にというように、

全てが肉体と結びついていたことにも気付きます。

今や自分は肉体の営みの一切から独立した、

霊的・心的な活動の中にいることが感じ取られてきます。

このことはまた、これまでまったく意識されていなかった頭の中の「何か」を、

自分自身で発動させることが出来るようになっている事実からも確かめられます。

それは、睡眠がどの点において覚醒と違っているか、ということの発見です。

この違いは、

「目覚めている間、人間の全肉体機構の中で何かが振動しているが、

 ただ頭部の中だけはそうではない。

 ここ(頭部の中)では、頭部以外の全肉体機構中で活動しているものが

 静止状態にある。」という点にあります。

 

※この気付いている状態は慣れてくると、

 瞑想中以外の日常時も気付きの状態を維持できるようになってきます。

 そのような訓練も実際にあります。

 

■瞑想によるエーテル体への気付き

 

(この項目ではエーテル体に関する解説もされています。)

 

私たちの肉体は、ほぼ90%が液体からできており、ほぼ10%の固形的部分は、

液体の中へ浸しこまれており、その中に浮かんでいるのです。

そして、ある部分では空気がこの水の中で往来しており、また熱が出入りしています。

 

人間はほんの僅かな部分しか固形物質体を持たず、大部分が水と空気と

その中でかすかに振動している熱であるということを思い描いてくだされば、

人間の内部に、これより更に微細な何かが存在していることを、

そんなに信じられないことだとは思わなくなることと思います。

この更に微細なもののことを、ここで「エーテル体」と名付けておこうと思います。

 

※エーテル体・・

生命活動が持続する間、形状の崩壊を止めようとする作用・働き。(生命エネルギー)

Rシュタイナーは、エーテル体のことを生命体・形成力体とも呼んでいる。

 

エーテル体のことを、仏教では微細見(リンガ・シャリーラ)と呼んでいます。

 

エーテル体は気体よりもいっそう繊細であり、これが人間の中を浸していても、

通常の生の中では、それに気付くことが全く無いほど繊細なものです。

このエーテル体こそが、覚醒時に人間の内部で活動し、

頭部を除く人間の全肉体中で規則正しく運動しているものです。

頭部の中ではエーテル体は静止しています。

 

睡眠中は状態が変わります。

エーテル体が頭部内においても運動し始めると睡眠が始まり、

その状態が続くかぎり睡眠も続くのです。

こうして私たち(人間)は睡眠中、

人間総体として内的に活動しているエーテル体を持っているのです。

そして夢を見るということは、目覚めの際にエーテル体の活動の最終的部分を、

目覚めの過程の中でも尚知覚し続けることなのです。

急速に目覚めた場合、それが生じないということでもあります。

 

長期間瞑想をすると、頭部中の静止したエーテル体の中へ

次第に像を注入することができるようになってきます。

私(R・シュタイナー)はこれを、

「イマジネーション(実像認識作用)」と呼んでいます。

物質的な肉体に依存することなく、エーテル体中に体験されるこの実像認識が、

私たちの得ることのできる最初の超感覚的印象なのです。

これは更に私たちを導いて、物質的な肉体から完全に脱却し、人生を遡行的に、

行動行為の一切を含めて、像として観照できる状態をもたらします。

溺死しかけた人がしばしば述べることですが、

彼らは、その瞬間に自分の一生を遡行的に生き生きとした像で見るそうであります。

同様のことがここで組織的に修練されうるのであり、

その結果、今回の地上の生の一切の成果が見られるようになるのです。

 

密議的認識が与えてくれる最初のものは、自分自身の魂の生活を観照する力です。

普通この魂の生(心意的生活)は、

諸々の表象から織りなされているものだと抽象的に想像されています。

しかし、その本当の姿を知ると、実はこれは創造的なものなのです。

それは私たちの幼少期において活動したものであり、脳を作り出したものであり、

更に脳以外の肉体に浸透し、形成的、造形的な作用を続けているものなのです。

そしてまた覚醒状態を引き起こし消化作用に毎日働きかけているものでもあります。

 

この肉体機構の内部で働く存在を、人間のエーテル体と見なしています。

これは空間的な肉体ではなく、時間的な肉体なのです。

もしエーテル体を空間的な形態で描き出そうとするならば、

それはあたかも稲妻を絵に描くのと同じことをしておられるのだということを

自覚なさらなければいけません。

稲妻を描くときは、ひとつの瞬間を描きます。瞬間を固定するのです。

人間のエーテル体を空間的に把握することが出来るとするなら、

それは一瞬を固定することによってなのです。

現実に人間は、物質的肉体という空間的身体と

常に変動しているエーテル体という時間的身体を持っています。

この発見をした時点から誕生の時までの間を一目で見渡し、

その間を通して、この時間的身体が一つの統一体であることを捉えたとき、

初めてエーテル体について云々することに意味が生じます。

これが自身の内部に存する超感覚的な諸素質に関して行いうる発見のうちの

最初のものなのです。

 

■密議的認識と、瞑想時の豊かな寛容性

 

このような魂の体験によって、魂の成長の面でどのような作用が生じるかは

密議的認識に向かって努力する人間の心の状態や、姿勢の完全な変化に

特によく現れてきます。

密議的認識を経た人間が、

突然これまでと全く違った人間になると誤解しないで下さい。

事実はその正反対であって、現代における密議的認識は、

人間を完全に現世の中に留め、たとえ密議的認識に達しても、これまで通りの生を

生き続けていくことが出来るようにするものでなければなりません。

しかし超感覚的な探求が為されている時間は、(深い瞑想時などのこと)

当然その人は密議的認識によって、

通常の生活を営んでいる時とは、全く別の人間となっているのです。

 

密議的認識を際立たせる一つの重要な要素を、指摘しておきたいと思います。

それは超感覚的な体験において先へ進めば進むほど、自分自身の肉体性が

自分自身から遠ざかっていくのを、よりいっそう強く感じ取ることです。

すなわち、この肉体性が、通常の生において関係を持っている一切が、

自分から次第に遠くなっていくのです。

 

※超感覚的な体験は、瞑想時などの集中状態を指しているので、

 瞑想が深くなるほど、自身の肉体や通常の感覚から離れていくことになります。

 

私たちの判断というものが人生でどのように生じてくるかを一度考えてみましょう。

私たちは誕生後成長し、子供となっていきます。

この時、生の中に好感と反感とが根付いてゆきます。

様々な自然、現象に対して、

また特に他人に対しての好感や反感が形を得ていきます。

こういうものの一切には肉体が参与しています。

もちろん肉体の中へこのような好感と反感を注ぎ込むのですが、

それらの多くは実は、私たちの肉体の物質的な活動から生じたものなのです。

密議的認識に向かう人が超感覚的世界の中へ入る瞬間に、

自身が超感覚的世界にいるかぎり、肉体的なものと関連している好感や反感が、

次第に自分とは縁遠くなっていくのを体験します。

肉体性によって結び付けられているものから自分を解き放すからです。

再び通常の生活の中へ戻ろうとするとき、

通常の、普通なら当然のこととして生じている好感と反感の中へ、

再び自分を戻し入れなければなりません。

私たちは朝目覚めると、自分の肉体の中に戻り、

事物や人間に対して以前と全く同じ愛情を感じ、以前と同じ好感と反感を抱きます。

これはおのずからそうなるのですが、もし超感覚的な世界に滞在した後、

もう一度元の好感と反感に戻ろうと思うとき(自分自身の肉体性に潜り込むとき)、

大きな努力が必要とされます。

このような肉体性からの離脱現象が生じるのは、

密議的認識においていくらか進歩したことを示す証拠の一つです。

通例では寛容性の著しく豊かな好感と反感が立ち現れてきて、

次第に密議体験者と一体になっていきます。

 

密議的認識が行われている間の記憶・想起作用は、

密議的体験に向かっての成長を特に強く現わす現象です。

私たちは通常の人生のうちに色々な体験をし、記憶を得て、後にこれを想起します。

超感覚的世界での体験はこのようにはいきません。

これを偉大さや美や意味深さとして体験することができますが、

それは過ぎ去っていきます。

それがもう一度魂の前に姿を現わすことになるとすれば、

それはもう一度改めて体験され直されなければならないのです。

普通の意味においては、超感覚的世界における体験は、記憶に痕跡を残しません。

これが記憶に刻印されるのは、非常な努力をはらって

知的理解作用を超感覚的世界の中へ送り込み、概念の形に化すときだけです。

超感覚的世界の中で思考をする際には、肉体の助けを借りることなく

思考しなければならないため、これは非常に難しいことです。

故にこの世界を覗き込むためには、予め自分の概念保持能力を強めておき、

論理を決して失わないように、

予め成熟した論理的思考者になっていなければなりません。

単純な透視者は多くを見ることが出来ますが、

彼らはその世界に入るときに論理を忘れてしまっています。

私たちは超感覚的な諸々の事実を、人に語り聞かせなければならなくなる、

正にその時に、

超感覚的な真実との関連において、記憶がこのように変化したことに気付くのです。

この点において物質的肉体がいかに思考作用にではなく、

記憶の行使に関係するものであるか、

超感覚的なものを取り込もうとする性質をもつ記憶作用の行使をも

いかに強く支配するものであるか、を見るのです。

 

※知性・思考力の育成や発達に関しても

 「シュタイナーコレクション3 照応する宇宙」などで解説されています。

 

 

訳:高橋 巌氏 2003.10.10発行

第一部 マクロコスモスとミクロコスモス 1910.3.21~31 ウィーン

第九講 目次

象徴の作用/ハートで思考する/合理的に思考する/認識の三段階/認識を身体で感じる/

真実の多面性/自我の12の側面/自分の立場から離れる/こころの血

 

第八講で、

象徴像と呼ばれる特定の図形などを観想する瞑想法の解説と

それによって形成される蓮華(又はチャクラ)に関して解説されています。

 

*また次回続きを記載させていただきます。どうもありがとうございました。

今回は、ルドルフ・シュタイナーが解説している

「古の苦行と現代人」に関する内容を著書から紹介させていただきます。

 

Rシュタイナーの講義では、

一つ前の記事のヨガに関する内容の続きとして述べられています。

 

一般的な知識・認識などと異なる点があると感じられる方も

いらっしゃると思いますが、Rシュタイナーの解説に沿って記載させていただきます。

 

オックスフォード教育講座

訳:新田 義之氏 2001.12.25発行

1922.8.16~29 オックスフォード大学で開催された研究集会にて、

Rシュタイナーが行った9回の講演が収録されています。

 

※著書の内容から要約、省略している箇所もあるので、

 実際の著書の文面とは異なるので御了承ください。

 

▽手塚先生の漫画ブッダ 苦行の様子

 

 

■苦行によって人間に何が起こるのか

 

苦行はヨガよりも、現代の私たちにとっては行い難いものです。

現代の文明社会においては、

かつて人々が苦行を通して高次の霊的認識に達しようと試みた時代とは、

また異なった心の持ち方や習慣が人々を支配しています。

現代人たる私たちは、苦行の方法もまた、別の方法に置き換える必要があるのです。

苦行法のような手段によって何が目指されていたのかを知っておくと

理解を作り上げていく作業は、著しく容易となります。

 

苦行は本質的に特定の修練の上に成り立ち、

この修練は心的・霊的なものの領域にまで及びます。

これらの修練が為されたのは

「肉体を特定の期間中、全ての人間的体験から切り離してしまうため。」

という事実であります。

肉体をこのように切り離すことによって、

霊的世界における、ある種の体験が呼び起こされうるのです。

 

修練の内容は次のようなものでした。ある特定の方法で肉体が訓練されます。

そうすると肉体は、それを通り抜ける苦しみ・痛み・一時的な死によって、

このような苦しみを、

あまり心の中に動揺を来すこと無く耐える能力を学び取ります。

肉体は物質界での苦しみに耐えるのに、

心性の全てをあげて、その苦しみの中へ浸り込むことを、必要としなくなります。

人間の肉体をこのように殺し、ある種の耐え抜く力を作り出そうとした目的は、

 

『肉体が徐々に一種の麻痺状態を獲得し、肉体の中に精神的なものが立ち現れてきて

 肉体からの束縛を離れて、一種の直接的な知覚、ないしは直接的な体験に

 到達することができる』故にでした。

 

このような方法は、今日お勧めするわけにはいかないのですが、

人間の物質的な肉体機構が麻痺させられると、それに相応した分だけ、

人間は心的・霊的なものを

自分自身の内部に受け入れることができるようになるのは事実です。

霊的なものは、

肉体的なものの活動が抑えられたときに、人間にとって知覚可能となるのです。

 

※シュタイナー辞典では、苦行は秘儀参入方法の一つと解説されています。

 秘儀参入方法とは見霊能力を得るための訓練や儀式のことで、

 国や地域によって様々な方法が伝承されているとされています。

 

■眼のたとえから肉体機構の透明化について

 

人間の眼は、人間に光の知覚をもたらす仲介者となるために存在しています。

どうすることによって眼は人間に光を知覚させることができるでしょうか?

――比喩的な言い方をしますと――

それは眼自身が自らのために何も求めないことによってです。

眼がその内部において自分自身のために何かを欲しようとした場合、

 

※眼自体に独立した意志があるという比喩表現です。

 

→すなわち、肉体機構上の活動又は生命活動が、

眼それ自体の中で過度に活発化するようになったその瞬間に、

眼はその無我性から我執性へと移行し、眼は最早人間存在の従僕ではなくなります。

(たとえばレンズ又は水晶体の自立化が生じ、不透明化が生じたりする場合)

眼は、自分自身の為に存在するものになろうという欲求を持ってはなりません。

これはどちらかと言えばそういう傾向を持つ、という意味にすぎませんが、

何かを表現しようとすれば絶対的な言い方で言うほかありません。

生命自体が全てを相対的なものにしているのですから。

そのことを踏まえて、

「眼が光に対して透過性をもつのは、眼自身が人間存在から自己を隔離し、

 無我となっていることによる」と言えます。

 

もし私たちが霊的、霊性の世界の中を覗き見ようと思うならば、

その時には、私たちの肉体機構全体を眼としなければなりません。

眼の場合のように物質的な意味においてではなく、

霊的心的に肉体機構全体を透明にしなければなりません。

肉体機能は最早、霊性世界との間の交流の障壁であってはならないのです。

 

眼が自分自身のために独立した生を要求したならば、

その眼は病気に罹っていると言えますが、

だからといって私たちの肉体機構が生命を持っているが故に不透明で、

したがって病気であるとは、私は決して申しません。

普通の意味での生命を生きているそのままの姿で、

私たちの肉体機構は正しく機能しているのであり、正常なのです。

 

私たちの肉体機構は生きているかぎり不透明です。

私たちが通常の精神生活(心意的生活)を、肉体機構の中で営むことができるのは、

肉体機構が不透明であるからであり、

周囲を見まわすときに、宇宙の全霊界を眼前にしなくても済んでいるからです。

私たちの肉体機構が不透明であることは正常なのです。

 

※この辺りは「シュタイナーコレクション3 照応する宇宙」の

 「境域の守護者」の内容で解説されています。

 

 

※宇宙の天体の運行、天体の外的な諸現象は全て霊の表現です。

 もしも大宇宙の霊の働きを見たとしたら、「恐るべき混乱」を体験してしまいます。

 その現れは壮大で圧倒的なため、

 私たちの学んできた諸概念ではこの情景を見通すのに十分とは言えません。

 それを見て極度の不安と恐怖を感じてしまうでしょう。

 通常の人間意識の場合、見るべきもの全てにいわばヴェールが覆われています。

 物質界の根底にある霊的世界からも護られています。

 

しかし、そこひを患って濁った眼には光が認知できないように、

不透明な肉体機構をもっては霊的世界は認識できないのです。

 

※そこひ・・・古い日本語。視力障害を引き起こす眼疾患のこととされています。

 

そして、私たちの肉体機構は苦痛によって息の根を止められることにより、

又はそれらの苦痛を切り抜けることによって透明となります。

眼がその内部にあまねく光を通す時、自分の周りの光の世界を知覚する可能性を

自分に与えるのと同様に、肉体機構を透明にしたときに、

全肉体機構に自分の周囲の霊的世界を知覚する可能性が生じるのです。

 

■昔の禁欲苦行者の在り方と、現代人の知的思索

 

数々の非常に重要な宗教上の観照が生まれた古き時代に、

肉体的苦行は導き出されたものです。

宗教的観照は伝統となって現代まで続いているのであって、

現代の人類が自ら発見したものではありません。

 

私たちは今日、このような苦行を真似ることはできません。

古き時代において、もし人間が超感覚的な霊的な認識を求めて聞きたいと思った時、

人の世から身を引き離して孤独に生きている人たちから、教えを乞おうとしました。

「人の世で普通の生を生きている人間からは、何も聞き出すことはできない。

 霊的な世界について何かを知ろうとするならば、

 それは孤独のうちにしか得られるものではない。

 知恵や認識を得ようとする人間は、

 通常の人間とは異なった人間にならねばならない。」

というのが当時の一般の人々が持っていた心情でした。

 

今日、私たちの持っている生命観に従うならば、

最早このように考えることはできないはずです。

人間の生の中に二本の足をもって立つことができ、

同胞の為に自分の腕を振るうことができ、世の中で通用する価値観を持ち、

行動したり働いたりすることができ、

人生において何がどうあるべきかを知っている人間だけに、

私たちは信頼を寄せようと努めています。

古い時代に高次の知恵を得るために前提条件と見なされていた孤独という方式は、

今日の私たちにとっては、最早観照とは見なされません。

 

今日、ある人間に信頼を寄せようと思うときは、

その人間は、私たちの目の前に立っている行動的な人間でなければならず、

人生から離脱するのではなく、

まさに生の中へ自らを入り込ませていく人間でなければならないのです。

でありますから、私たちは認識の面に関しましても、

かつて禁欲苦行者のもとへ赴いて、神的霊的な世界の消息を聞こうとしたのと

同じ精神状態を、育て上げることは出来ないのです。

 

このような諸々の理由から、今日の私たちは、

肉体を苦行という手段によって実践行動に役立たぬものにしてしまうことなく、

心的霊的なもの自体から直接透明性を獲得するように、

努めなければならないのです。

それが私たちに可能であるのは、私たちが数百年の伝統をもつ

自然科学の発達によって厳密な概念・精緻な理念を獲得したからです。

自然科学の発達の御陰で私たちは思考を鍛え上げることができます。

ここで申し上げていることは、決して知的なものを否定するためではありません。

どんな場合においても知的なものは基盤となるものであり、

鋭い思考は基礎となるものです。

この知性の上に、この鋭い思考の上に、

それから更に霊的な世界へと入り込んでいくものが、

築き上げられねばならないのです。

 

私は明晰な思考に対して決して反対するものではありません。

明晰な思考はこの時代においては当然なこととなっています。

ただ残念なことに、

これはもっと広範囲においても当然のこととして通用するには到りませんでした。

けれども基本的に申して、思考はその思考の成就、

その内容の充実を犠牲にするならば、たやすく明晰性を得ることが出来ます。

空虚な思考はいともたやすく明晰になりうるのです。

けれども私たちの存在の全体が進化していくために、

その根底とならねばならないのは、中身の充たされて明晰な思考、

すなわち内容充実した明晰な思考でなければなりません。

 

■昔の苦行者が得た認識を得るための、現代の別の手段

 

昔の禁欲苦行者が得たのと同じものを、

私たちは次のような手段を通して手に入れていきます。

自分自身の心の発達を、ある意味で自分の支配下に置くことがその手段です。

 

たとえば生の、ある特定の時点において、自分自身に対し、

「お前はどのような習性を、そのような独特の性格を、どのような悪癖を、

 どういう種類の好感や反感を持っているか?」と問うのです。

そして、これら全ての事を完全に明瞭に魂の前に描き出してみた後で、まず最初

ある単純な、むしろ非常に単純過ぎるくらいの一点を取り上げて、

もし自分が別の種類の好感や反感を育て上げるとするなら、

つまり心的生活において、これまでとは別種類の生き方を生み出すならば、

どうなるかを思い浮かべてみるのです。

 

以上のようなことは決してたやすいものと思ってはなりません。

普通ならば人生が担ってくれる仕事を自分の内面から生み出していくには、

多くの年月を必要とすることが多いからです。

 

一度、自分自身を正直に観察してみましょう。

そうすれば私たちは、

「10年前の私はまだ、今日の私があるところまでは達していなかった。」

と言うでしょう。

心性の内容・内面的な形態は、確かにすっかり変わってしまっています。

そのようにしたのは人生なのです。

まったく無意識に、私たちは人生の手に自らを委ねています。

私たちは人生の流れの中に自己を投入してきました。

 

これまで人生が行ってきたのと同じ事を、今から自身で行うことが出来るならば、

私たちが10年後になるべきものを見過ごすことができ、

それを想定し先取りすることができ、更に鉄のような意志をもって、

それを実際に実現すべく作業することが出来るのです。

 

すなわち、

もし、普通の観点からいって偉大な私たちの上に働きかけてくる人生の全体を、

自分自身の小さな自我の中へ封じ込め、

普通はあたかも人生の海の中へ限りなく広がっている力を、

自分自身の自我の意志の中で強化し、自身を発展させ、

自身の中から何かを作り出すならば、

その時にこそ、かつて古の苦行者が外側から成し遂げたことを、

内面から成し遂げられるようになるのです。

 

古の苦行者は肉体を弱め、弱められた意志と認識とが力強く立ち現れ、

弱められた肉体は霊的世界に向かって透明となりました。

私たちは意志と思考力を強めなければなりません。

意志と思考力は、これから先も自分の仕事を続けていく肉体よりも、

更に強いものにならなければなりません。

そうなったとき、

肉体が霊的世界にとって透明となるように、肉体を強制することができます。

私たちは古の苦行者が行ったことと、ちょうど正反対のことを行うのです。

 

※これらのことは著書「いかにして高次の世界(超感覚的世界)を認識するか」

 で解説されていると、今回の講義では述べられています。

 

 

生から離脱することなく、隠遁生活に入ることをせず、

まさに生の中に全面的に留まるという、この新しい苦行法は、

瞬間を乗り越えて、時の本質の中を覗き見ることなしには成り立ちえないものです。

 

人間は10年先に自分がどのような存在になろうとしているのかを

考えなければならないということを、まず思い浮かべてみてください。

誕生から死ぬまでの間の人間を全体として捉えなければなりません。

人間はややもすると、ただ瞬間にのみ生きるものであります。

大切なのは時の中に生きること、全生涯の中に生きることを学ぶことです。

このときに霊的世界は、透視可能なものとなります。

このようにして肉体が透明になるとき、

私たちを包んでいる霊的世界を実際に見るのです。

 

※たとえば著書「神秘学概論」で記されていることは、

 全てこのような認識の基盤の上に書かれている、と述べられています。

 

 

*年末年始は用事があるので、今年はこれで終わろうと思います。

 (もし余裕があれば、もう1回書けるかもしれません。)

 どうもありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

今回は、ルドルフ・シュタイナーが解説している

「古代のヨガ法と、それに対する現代人の認識」に関する内容を

著書から紹介させていただきます。

 

一般的な知識・認識などと異なる点があると感じられる方も

いらっしゃると思いますが、Rシュタイナーの解説に沿って記載させていただきます。

 

オックスフォード教育講座

訳:新田 義之氏 2001.12.25発行

1922.8.16~29 オックスフォード大学で開催された研究集会にて、

Rシュタイナーが行った9回の講演が収録されています。

 

※著書の内容から要約、省略している箇所もあるので、

 実際の著書の文面とは異なるので御了承ください。

 

別の著書で解説されている歴史的背景などを、予め踏まえておくと

今回の著書の内容が理解しやすくなるので、

過去記事の内容と重複してしまう部分もありますが、先にそちらを記載いたします。

 

▽アストラル体、エーテル体

 

アストラル体(魂)・・

人間の内部にある、快と不快・喜びと悲しみ・情熱・欲望・衝動などのこと。

Rシュタイナーは、アストラル体のことを魂とも呼んでいる。魂の詳細は以下に記載。

 

*低次のアストラル界のことを、仏教では欲界と呼んでいます。

 

エーテル体・・

生命活動が持続する間、形状の崩壊を止めようとする作用・働き。(生命エネルギー)

Rシュタイナーは、エーテル体のことを生命体・形成力体とも呼んでいる。

 

*エーテル体のことを、仏教では微細見(リンガ・シャリーラ)と呼んでいます。

 

感覚魂ー外界・外部から受け取った印象(情報)に対して、反応を返す作用の源。

 

悟性魂・心情魂ー感覚魂を通じて受け取った印象から思考が生じる。

 感覚・印象に対してそのまま反応するだけでは、

 野生の動物と同じになってしまうので、思考を仕えさせる働きが必要になる。

 この働きが悟性魂・心情魂。

 

意識魂ー魂が真理や善として自らの内に担っているもの。

 好嫌・情熱・欲求を支配する(高貴なものに変える)ことによって、

 これらが強制されなくても義務として認められた事柄に自ずと従うようになると

 人間はいっそう高みに立つことになる。

 

たとえば、

①私は花を見る(感覚魂の働き)

②私は花を見て考える(悟性魂・心情魂の働き)

③私は花を誰かに見せて喜んでもらおうとする(意識魂の働き)

 

▽人類史の背景

 

 1 ポラール時代

 2 ヒュペルボレアス時代

 3 レムリア時代

 4 アトランティス時代

  (洪水)

 5 アーリア時代:七通の手紙の時代 BC7227~AD7893(現在)

 6 七つの封印の時代

 7 七つのラッパの時代 

 

現代は(5)のアーリア時代ですが、過去の(4)のアトランティス時代までの人間は一般的に見霊能力があり、霊的な存在を認識していました。

ただし、現在の見霊能力を持っている人間の霊的認識とは異なっていました。

アストラル体とエーテル体(生命エネルギー)の構造が、

現在とは異なっていたことなどがその理由です。

 

*アトランティス時代の人間はエーテル体が肉体よりも上方に飛び出していました。

 現代人は、ほぼ肉体と同じ位置にあります。

 生まれつき霊が見える人などは先祖返りの場合があります。

 

(6)以降の時代の人間も見霊能力を獲得していきますので、

一般的に見霊能力が失われているのは現代の(5)の時代のみになります。

厳密には20世紀以降、少数の人間から徐々に見霊能力を取り戻していっています。

 

(5)の時代を更に詳細に分けると次のようになります。

 

 →アトランティス時代とアーリア時代の間に、ノアと洪水の物語

 A インド文化期 BC7227~5067 

 B ペルシア文化期 BC5067~2907 

 C エジプト・カルデア文化期 BC2907~747 

 D ギリシャ・ローマ文化期 BC747~AD1413 

 E ゲルマン・アングロサクソン文化期 AD1413~3573 (現在)

 F ロシア文化期 AD3573~5733 

 G アメリカ文化期 AD5733~7893 

 

(A)の文化期の人々は、直前の時代まで見霊能力があったことを認識していました。

そのため、人為的な方法で見霊能力を取り戻そうとしました。

そこで発展した方法が「ヨガ」でした。

 

人類は、

(C)のエジプト・カルデア文化期には魂の「感覚魂」を発達させ、

(D)のギリシャ・ラテン文化期には「悟性魂・心情魂」を発達させて、

現在(E)のAD1413~の文化期には「意識魂」を発達させています。

「ヨガ」が発展した時代以降、人間の魂(アストラル体)は変化しているため、

既に知的能力などの機構が変化しています。

 

(C)のエジプト・カルデア文化期に菩薩アポロンが、

ヨーロッパ文化に音楽を通して人間に論理的思考の元基を与えました。

「ヨガ」が発達した文化期と比べ、現代人は論理的思考能力が発達しています。

 

AD33にキリスト(旧約聖書のエロヒムの一柱)が、

地球のアストラル領域に影響を与え変化が起こりました。

 

時代の流れの中で、人間の魂(アストラル体)が発達し変化していったため

その魂に働きかけるための行法も、その時代の人間に適した方法がもありますよ、

ということをRシュタイナーは述べています。

 

↓ここから今回の著書の講義内容になります。

 

■古代のヨガ道者が求めた立脚点

 

これから、いくつかの歴史的な問題に入っていくことを、お認め下さい。

この点について、しばしば誤解を受けますが、

どうか誤解をなさらないで下さるようにお願い申し上げます。

決して霊性や心性のところまで達するために、

今日でもなお古代において行われたのと同じようにしなければならないと

主張する為ではありません。

けれども、霊性や心性に達するための今日の方法は、歴史的な諸事実を知るとき、

理解が一層易しくなるのです。

 

今日、私たちが普通一般の時代認識から、

私たち自身の存在について明らかにしようと思うならば、私たちは考察を行います。

すなわち私たちの知性を駆使いたします。

自然に関して明らかにしようと思うときは実験を行い、

その実験に際して私たちの知性を働かせます。

すなわち至る処に知的な行為のみがあるのです。

 

古代におきましては、

霊性と心性にいたるためには、東洋ではいわゆるヨガの方法が試みられました。

ヨガ――と申しますと、今日では多くの人が少しばかり奇異な感情を持つのは、

今日では歴史的に見て後世のヨガ法のみが知られているからで、

これがそのほとんどの部分を人間の利己心の上に成り立たせており、

物質界において何らかの意味での力を得ようと求めているからです。

 

古代のヨガ法は、今日では外面的な学問によっては知ることができず、

霊的な学問によってのみ知ることができるものとなっていますが、

これは人間が霊性に向かって穿った通路であったのです。

 

*「穿った」という言葉は

 ”疑ってかかる見方” という意味で使用される場合が多いですが、

 これは誤用で、正しくは ”物事の本質や裏側を捉えた見方” とされています。

 

それは、人間がある本能から

「単なる思索を通しては、霊性に行く着くことはできない。」

と自覚したことにその立脚点を持っていたのです。

 

すなわち、

「私たちは単なる思索よりむしろ、自身の内にある行動性、能動性を

 私たちに示してくれる何かを行為しなければならない。

 私たちは現実の生から離れたところに立ち、観察者の役を演じることができるが、

 その時に私たちの内部で働いているのは思考である。

 私たちに知覚できないような変化は、自身の内に何一つ生じていない。」

とする態度が、その立脚点なのでした。

ヨガ道者は、私たちが今日霊性を求めて行うよりは、

ずっと現実的な出来事を自分自身の中に探し求めたのでした。

 

■古代のヨガ道者が行い体験した出来事

 

生まれてから死ぬまで、私たちは絶え間なく呼吸しています。

空気を吸入・保持・排出しています。

吸入された空気は、私たちの全有機体構造の中へと浸透していきます。

呼吸脈動は脊髄溝を通って脳の中へと伝えられます。

私たちは肺で呼吸しているばかりではなく、脳でも呼吸しているのです。

脳は絶えず運動しています。

吸気・保持・排気は波となって伝わり、私たちの脳の中で生きているのです。

 

ヨガ道者は

「人間の中では、ここで何かが起こっているのだ。自分はそれを意識化したい。」

と言いました。

そして道者は普通の無意識の呼吸をせず、異常な方法で呼吸したのでした。

道者は異なった吸気・保持・排気の仕方をしたのでした。

 

*ヨガ道者が意識的に呼吸を変化させた方法と、

 仏教などの自然な呼吸に集中して瞑想を行う方法とは、別の方法と考えて下さい。

 

*この箇所、自然な呼吸に集中する瞑想=安般念(アーナ・パーナ・サティ)と

 書くべきでしたが横着してしまいました。善くなかったです。失礼しました。

 2025.12.5 記事公開の翌日に追記

 

道者は次第に、脳の中で呼吸がいかに思考活動や知的活動における物質的作用の

根底をなすものと結合しているかを感じ取ったのでした。

私たちに意識されないものを、道者が認識し感じ取ったことによって

道者には極めて明瞭な意識の中で行われることになったのでした。

道者は思考活動と呼吸の間の結びつきを探求し、

抽象的なものである思考が、呼吸の波動に乗って肉体全体をくまなく運動している、

という事実を突き止めました。

思考は脳の中、胸の中、心臓の中にだけあるのではなく、

一本一本の指の先端にもありました。

 

呼吸が現実に自分自身の至る処に躍動しているのを感じた時、道者は

いかに霊性が呼吸によって、人間の中で創造的に働いているかを体験しました。

 

■古代のヨガ道者と現代人の違い

 

私たちの肉体後世は太古のそれと違っているので、

私たちは今日このヨガの修行を模倣することは最早できません。

またそれをしてはなりません。

それは何故か?

ヨガ道者が目指したのは、

自分の思考過程がどのように呼吸過程と結びついているかを感じ、

そして呼吸過程の中に自分が人間であるが所以を感じ取ることでした。

こうしてヨガ道者は、これを認識にまで高めました。

道者は今日私たちがなすよりは、遙かに緊密に思考を人間と結び付けました。

しかし私たちの人間としての進歩は、ヨガ法の栄えていた頃より、

遙かに高度に思考をそれ自体として解き放ち、

遙かに知的なものに高めたことによっています。

古代インド人がヨガの修行を行っていた頃の思考法をもってしては

近代の人々が成し遂げたような発見をなすことは、絶対に不可能だったはずです。

このような発明発見をするためには、知性としての思考が必要とされました。

 

そして私たちの持つ文明の一切は、私たちが最早ヨガ哲学の作り上げた人間ではないという事実の上に成り立っております。

私たちのヨーロッパ文明が知性主義の御陰でこれほどに成長したということを

忘れてはなりません。

私たちは、

古代インドにおける人々とは違うふうに物事を感じ取らなければなりませんが、

今日ヨガを修めようとしている人とも、また違う感じ方をしなければなりません。

私たちは古代インドにおける人々とは全く違う行為をすべきであり、

彼らより更に霊的な行動をとらなければなりません。

 

しかし、今日霊性はさほど好まれていないため、

人々は現在に相応しい新しい修行法を喜びません。

霊的世界へ入る道を見つける為には、ヨガ呼吸法を修めるほうが、

今日では手軽なのです。少なくとも手軽なように見えるのです。

しかしながら、これは現代人が霊的世界へ入っていく道ではありません。

 

■現代人が霊性を感じ取る道

 

現代人は、

「私が思考し、実験やその他の観察において、ただ単に知的に作業しているかぎり、

 私は無の中に・・・すなわち単なる像の中に生きているに過ぎないのだ。

 私は実在から遠ざかってしまった。」と自らに言わざるをえない苦しみを、

一度すっかり通り過ぎてしまわなかればならないのです。

 

※このあたりの内容は「いかにして高次(超感覚的)の世界を認識するか」

 で詳しく述べられている、と今回の講義ではされています。

 

 

上記著書の内容は、植物を単に外側から眺めるのではなく、どのようにして、

その活動と生起とを残らず追跡し、その結果として思考が単なる映像という性格を

完全に脱し、外界の真の生を共に生きるようになるか。

ということなどに関してです。

 

「今や我々はヨガ道者が進んだように、

 内部に向かって呼吸過程に従って進んでいくのではない。

 今や我々は外界に向かって進むのだ。

 一本一本の植物を眺め、一つ一つの動物を眺め、一人一人の人間を眺め、

 そして外界を共に生きるのだ。」

 

私たちは植物の中へ自分自身を沈めていきます。

そして重力が根の中で大地に向かって進んで行き、

花を咲かせる力が上に向かって展開してくるのを感じます。

私たちは花が咲く営みを・実が生じる営みを共に体験します。

私たちは外界の中へ、すっかり浸りこみ、

この時私たちは外界から受け入れてもらえるのです。

ちょうど失神状態から目覚めるように再び目覚めます。

この時、私たちが得るものは最早、抽象的な思考活動ではなくなっており、

イマジネーションなのです。私たちは像を得るのです。

そして、この像の中には、

物質主義観点から見た場合のいかなる認識も、最早見られないのです。

 

このように私たちは事物の中へ入り込んでいかなければなりません。

ヨガ道者が自己の内部へ入り込んでいったのに対し、

私たちは外へ出ていき全ての事物と自分とを結び付けるよう試みます。

そうすることで、事実上ヨガ道者と同じところに達するのですが、

彼らよりも、より一層心的に、霊的にこれを得るのです。

私たちの持っている概念や理念、すなわち単なる知性が導き出すものの一切を、

実体をもって浸しきった時、私たちは再び、

いかに霊性が私たちの内部で創造的に活動しているかを感じ取るのです。

 

■霊性への理解

 

世の中には、この方法で高次の認識に達する人間が何人かいます。

それ以外の人たちは、ただ理解力と観察力を持っていさえすれば、十分なのです。

彼らは特定の個人が発見したものを、

健全な理解力と観照力を通して自分のものとするでしょう。

全ての人が、金星の子午線通過を観察できるというわけにはいかないのと同じように

たとえそれが誰にでも観察されることが無いからといって、

金星の子午線通過について云々することが、馬鹿げたことだと言えるでしょうか?

 

※金星の子午線通過・・・金星が太陽と地球の間を通過する天文現象。

 

何が観察されるのか、どのように観察されるのか

ということは誰にでも理解することができます。

霊的な世界についても、事情はこれと全く同じなのです。

 

たとえ私たちが霊性の存在を直観する霊視能力を持っていない場合でも、

霊性は活動しうるものなのです。

自分の描くイメージに

感動と信頼とを持つ人は、その霊性において行為しているのです。

自分の描くイメージに真理を見ず、

ただ利口さと知的能力によってイメージを作るにすぎない人は、

この知性ないしはmindの故に、実体の外側に立っているのみであり、

その描くイメージは単なる鏡像にすぎません。

鏡像は何の働きかけもせず、生命は無く、受け身のものにすぎないのです。

霊性は生産的、創造的なものであります。

私たちは霊的に行為するためには、

どうしても自分自身を創造的活動の中へ投入しなければならないのです。

 

こうして私たちは心性を用いてする作業を行っている途上においても、

自分自身をイマジネーション(実像形成)の中へ浸しこんでいくことによって

霊性に近付いていくのです。

そして次第に霊性そのものの中へと入り込んでいくのです。

私たちが霊的なものの中へ入っていくためには、

ただ始めに、知的なものの無力さを感じ取りさえすればよいのです。

 

 

*著書ではヨガの内容に関連して苦行の解説へと続きますが、

 今回は一旦ここで区切ります。

 内容をまとめてから、また次回記載しようと考えています。