ルドルフ・シュタイナーの、
思考の統御訓練とそれによって現れる徴候など に関する講義の紹介です。
1904.2.15 ベルリン での講義
※省略している箇所などもあり、実際の講義録とは異なるので御了承下さい。
西洋のまったく無秩序な・恣意的な思考は、
統御された思考・厳格な秩序に従う思考を発達させるのに相応しくありません。
※恣意的(しいてき)・・・論理性を欠き勝手気ままで思うがままに振る舞うさま
だからこそ思考の統御がまず第一に必要なのです。
それゆえ、非論理的な、無秩序な思考経過に対して敏感でなければなりません。
誰でも感覚が過度に刺激されると、一種の痛みを感じるはずなのに、
無秩序な首尾一貫しない思考を痛いと感じ取れる人は、ごく稀です。
けれども一度は、そう感じることができなければなりません。
思考するときだけでなく、西洋の文献を読むときにもです。
多数の神智学文献を含めて、そこには多くの無秩序な思考が見られます。
大多数の現代人は無秩序に思考していますが、
どんな無秩序な思考も、対象に対して相応しい関係を持てません。
ですからまず、自分の中に最後まで諦めない、
正しい思考を求めようとする強い感情を発達させなければなりません。
そして自分や相手の中にも正しくない思考が現れたときにも、
からだに痛みを感じるようでなければなりません。
とはいえ、日常生活の場合には、思考をその意味で行使するのは不可能です。
実際どこにおいても非論理的な思考が横行しています。
日常生活・職場・研究室・自然科学や歴史学の分野において、
いたるところで非論理的な思考に出会います。
自らを高次の認識へ導こうとする人は、
そして高次の認識を情報として受け取るだけに留まろうとしない人は、
心の内部での思考に集中する時間が持てなければなりません。
そのためには、僅かな時間だけでも、
毎日、自分を日常生活からまったく切り離さなければなりません。
3~5分でも自分だけの内面生活に意識を集中させて、
近代文明・日常生活とは無縁の思考内容、
しかも高次の根源をもった信頼できる思考内容に没頭しなければなりません。
そうすることは、外的な文化の中に巻き込まれ、
その中で心が引き裂かれていることの償いをすることです。
そうすることができれば、内なる中心力が力付けられ、
日常生活の中でも自らを律することができるようになります。
たとえ、それが日常生活に属していないものであっても、
ひとつの思考内容を意識の中に生かすことによって、そうできるようになるのです。
でも、いつでもそうできるとは思わないで下さい。
道を歩いているとき、いつも自分の思考を支配しているわけではありませんが、
何もしなくても至る処から思考内容がやって来ます。
そして意識に働きかけて、意識の中で遊び戯れます。
ですから、そのような思考内容に意識が手毬にされて、遊ばれているのです。
自身が一本の糸に導かれるように自分の内なる力で思考内容を
展開していくのでない限り、内部が自らを開示してくれることはないでしょう。
短時間だけでも日常生活の中から取り出して、
一つの思考内容に集中することができたとき初めて、
自分で自分の思考世界を支配するようになるのです。
内に秘めた思考を愛することのできる人は、内から力付けを受けます。
大切なのは知性で思考を把握することではないのです。
「途上の光」の最初の言葉、
「眼が見ることのできる前に、涙を流すのをやめなければならない。」 を
今日も明日も、繰り返して取り上げて下さい。
そうすれば言葉が生命を帯び始めます。
※「途上の光」
マーベル・コリンズ著 邦訳「道を照らす光」 訳:浅田豊氏 村松書館
そして、その中に混ざり込もうとする雑念を排除するなら、
この言葉が存在の中心になってき始めます。
そして、その中心が自分の中から色々な思考内容を生み出して、
限りなく生産的になるのです。
そのとき初めて、至る処で混ざり込んでくる正しくない思考を
克服しなければならないということが分かってきます。
そのためには、
正しくない思考の針が肌を突き刺すかのように感じ取れなければなりません。
本を読むときにも、同じように感じ取れなければなりません。
非論理的な思考に痛みを感じ取れないなら、
正しい思考を展開することができません。
更に正しい思考は理解するだけでなく、愛せるものにならなければなりません。
一つの思考内容を理解したと思ったとき、もういいと思って、
その思考内容を意識の外へ追い出してしまうのではなく、
繰り返して何度でもその思考内容と向き合いたい、と思わなければなりません。
そうできたなら皆さんは思考の甲冑を身につけたのです。
そのとき過渡期が終わります。
非論理的なものに対する戦いは、
思考内容が机や椅子と同じ事実となったとき、終わったのです。
そのとき思考は能動的になったのです。
※能動的・・・自分の方から働きかける。自分の方から作用を及ぼす。
対して受動的は受け身の状態。受動的な場合も実際に行動などは起こしている。
霊界に生きる人は、このことを知っており、
思考内容が私たちに働きかける力となって、
私たちを取り巻いていることにも気付いています。
私たちは、
互いにどれほど憎しみや好意の思考内容を送り合っていたかに気付かされます。
思考内容が心の中に入っていったり、跳ね返されていたのです。
瞑想によって内部から人生を統御することを知った人の場合は、
周りが水晶体に取り巻かれているかのようなのです。
全ての相応しくない思考内容は、この水晶体に跳ね返されます。
「今、正しい思考を行っている。」 と言えるかどうか、
どれほど自分の思考生活が内から統御されているか、
それを示してくれるバロメーターによって調べてみて下さい。
認識の小道を行く者にとって、このバロメーターとは夢のいとなみのことなのです。
とはいえ、
夢の営みを迷信深い人と同じような意味で高く評価しろというのではありません。
夢のいとなみが、まだ思考の営みを統御できずにいる人とは、
まったく別の意味を持つようになるのです。
大抵の人にとっての夢のいとなみは、ひどく混沌としたものでしかありませんが、
しばらくの間、瞑想生活に没頭しますと、
夢が象徴的な深い意味を持つようになります。
そういうときの秩序立った夢、美しい夢こそが、思考統御のバロメーターなのです。
外からの働きかけを受けて思考がよろめいている限り、
夢は外的な生活の不確かな残像に留まっています。
しかし、短時間だけでも、
外から襲いかかってくる全ての雑念から身を守っているときには、
夢が象徴的な意味を持ち始めます。
そのときには、自分を制御して、
この夢は私に何を示そうとしているのか、と問わなければなりません。
このことは高次と低次の夢の違いを明らかにしています。
睡眠中に営まれる生活は、
霊体を育成した人の場合と、そうでない人の場合とでは、まったく違います。
霊的な経験をする人は、このことを心得ています。
眼・耳・舌の語ることしか知らない人、感覚世界に埋没している人は、
睡眠中も感覚世界の不確かな残像しか経験できません。
5分間だけでも霊的な作業をすると、その成果が霊を刺激して霊を活発に働かせます。
そして、覚醒時にも、睡眠時にも、至る処でその霊の働きを受けます。
そして夢が規則的になり、小さなドラマになり、秩序立った行為になるとき、
真の内なる霊的生活が始まるのです。
しかし、これは霊の働きの最も低い段階にすぎません。
それに続いて、いっとき自分を外の作用から隔離したとき、
そして、その時間を内的な進歩のために用いるとき、
つまり瞑想という内なる霊的生活を過ごすとき、
あまり待つことなく、それまでとは、まったく違った夢を思い出すようになります。
・・・とはいっても、
そのことが日常の仕事を妨げたり、仕事をいい加減にしてはなりません。・・・
このことは内的な進歩によって生じる意識の持続に通じます。
この持続が生じるのは、自己の中で自らを対象化したときです。
からだとまったく一つになって、霊と一つになっていない限り、
睡眠中からだから抜け出たときも、意識を働かせることはできません。
ですから睡眠中は大抵の人が無意識状態にあります。
意識の持続はゆっくりと現れてきますが、
それが現れたときは、睡眠中も目覚めていられます。
そして、そのときの睡眠中の覚醒意識を再び日常の覚醒意識の中に持ち込みます。
そのとき、夢という物質生活のためのバロメーター(尺度)を持っています。
その尺度によって通常の生活に対する抵抗力が高められます。
そのとき、からだを自分の外に見ることができます。
からだから引き離された自分が霊の中で生きているのです。
それによって仕事をしっかりしなくなるのではなく、
仕事に対してもっと有能になります。
霊を知っている人は、ますます有能になるのです。
ですから、大切なのは一日のある短い時間、
日常の利己心、見栄、通常の感覚上の安楽とはまったく関わりのない状態で、
思考内容に没頭することです。
それによって日常生活は、思考の光で照らし出されます。
こうして「途上の光」の最初の教えを理解するようになります。
皆さんは
禁欲生活を強いられたり、この世に変人にされたりしたいとは思わないでしょう。
禁欲生活は神智学の理想に反します。
通常の生活から霊に到る道を歩むことを通して、この理想に応えるのです。
「途上の光」が、
1 名誉心を絶ち
2 人生への関心を絶ち
3 安楽への願望を絶つ
と言うとき、すぐに
4 名誉心に燃える人のように働け
人生を愛する人のように人生に関心を抱け
幸せのためだけに生きる人のように幸せであれ
と続くのです。
そして更に、
心の中の悪の根を探して、その根を引き抜け
と言います。
学徒は、私たちが全体の分肢として、
存在するすべてと責任を共にしていると感じていなければなりません。
誰かが盗みを働いたなら、その罪が自分にもあると感じることのできない人は、
自分が全体と関連していることを知ることもできません。
悪の根源に出会うこともできません。
私たちは他の人たちと悪を共有する可能性、そうする能力をも持っています。
ですから、こう述べられています。
あなたの心の中に悪の根を探し出して、
それを引き抜きなさい。
そうしないと悪が芽を出し、この世の子らの心の中にも、
熱心な弟子たちの心の中にも繁ってしまう。
誰でも、自分は善人だ、他の人よりもずっと善人だ、
そんな善人に一瞬たりともなれるなどと思ってはなりません。
自分は他の人に較べて善人などとはとても思えない、という気持ちが大切なのです。
例えば人々を幸せにするとは、どういうことなのでしょうか。
今現在のようなやり方で生きている以上は、
多くの人を不幸にしているというのにです。
人生における苦しみの根は、知らずにいるということなのです。
どんなにしばしば知らずに過ごしてきたのかも知らずに、
私たちは悪のために用いるナイフを研いでいるのです。
強者だけが悪を絶つことができる。
弱者は、悪が成長し、成熟し、
そして死んでいくまで待つことしかできない。
人間の心の中で、雑草は或る時から別の時へと成長し続け、そして繁茂する。
けれども花を咲かせるのは、
数限りなく多くの人生を生き抜いた後になってからである。
色々なことが多くの受肉の後で初めて現れてきます。
一度高みに昇った人でも、後になって深いところへ落ちていきます。
この上なく偉大な認識者が、最低の駄目人間になってしまうのも
珍しいことではありません。
いかさま師と偉大な人物とを区別することはできないのです。
熟達の道を歩もうとする人は、
この雑草を心の中から取り除かなければならない。
しかし、それによって心の血がたっぷり流れ、
人生全体が無駄になってしまうかもしれない。
この言葉を文字通りに、けれども霊的な意味で受け取って下さい。
何が最高の意味で、
最高の在りようにおいて、人生にとっての価値なのかを考えてみてください。
そして、こう言えるようであって下さい。
私は思想上では
限りなく多くの価値ある事柄を考察してきたが、
私の人生における限りなく多くの事柄は、
まったく意味が無かった。
今までのような生き方を続けたくないのなら
新しい人生を始めなければならない。
外からの影響を受けてではなく、
私自身の内なる生命によって
新しい人生を始めなければならない。
そう言えるとき、外から見たら何も変わったところはないでしょうけれども、
人生を別の衝動の下に生きようとし始めています。
そうするのは、虚栄心からでも、名誉心からでも、心地よさからでもありません。
そうせざるをえないと感じる義務感から、そうするのです。
しかし試練に打ち勝たなければならない。
たぶん危険な登攀の第一歩から、たぶん最後の一歩まで、
試練はいつやってくるか分からない。
この試練に打ち勝たなければならない。
自分の人生を真っ当にするために、
全力を尽くさなければならない。
瞬間瞬間を生きていくだけであってはならない。
未来のために生きるだけであってもならない。
永遠を生きるのでなければならない。
見霊者は瞬間の中に生きる人の場合、
外界の思考内容が槍のように、その人に突き刺さるのを見てとります。
永遠の中に生きる人の場合、その外界の思考内容が跳ね返されます。
私たちを先に導いてくれるのは、
外的な成功でも成果でもなく、どんな瞬間にも永遠の中に生きることなのです。
欲望を充たすために努力するときは、何も得られません。
将来のために生きるのではなく、もっぱら永遠の中に生きるのです。
そこでは雑草が繁茂することはない。
永遠の思想の息吹があなたの人生から、
そういう汚点を取り除く。
更に大切なのは、アストラル体の育成です。
※アストラル体(魂)・・
人間の内部にある、快と不快・喜びと悲しみ・情熱・欲望・衝動などのこと。
Rシュタイナーは、アストラル体のことを魂とも呼んでいる。
低次のアストラル界 又は イマジネーション界 を
キリスト教では聖霊の世界、仏教では欲界と呼ぶとRシュタイナーは解説しています。
感覚魂ー外界・外部から受け取った印象(情報)に対して、反応を返す作用の源。
悟性魂・心情魂ー感覚魂を通じて受け取った印象から思考が生じる。
感覚・印象に対してそのまま反応するだけでは、
野生の動物と同じになってしまうので、思考を仕えさせる働きが必要になる。
この働きが悟性魂・心情魂。
意識魂ー魂が真理や善として自らの内に担っているもの。
好嫌・情熱・欲求を支配する(高貴なものに変える)ことによって、
これらが強制されなくても義務として認められた事柄に自ずと従うようになると
人間はいっそう高みに立つことになる。
たとえば、
①私は花を見る(感覚魂の働き)
②私は花を見て考える(悟性魂・心情魂の働き)
③私は花を誰かに見せて喜んでもらおうとする(意識魂の働き)
思考を統御することでメンタル体に働きかけるように、
記憶を秩序あるものにすることでアストラル体に働きかけなければなりません。
思考だけでなく、記憶も統御されなければなりません。
記憶も試練の対象にならなければならないのです。
記憶は生体全体に重大な影響を及ぼします。
自分の過去の行為を振り返って見るとき、
利己主義的な後悔の念にかられてはなりません。
思い出す事柄は自身にとって、
事柄をもっとよく行えるようにするためにあるのでなければなりません。
大切なのは過去から学ぶことです。
自分の魂によりよい能力を与えるために、記憶を用いるのです。
想起するとき、受け身で回想するのではなく、
一見まったくどうでもいいような事柄でも、それを想起することで学習するのです。
そうすることができたとき、自分の魂の背骨を強化するのです。
記憶を統御するとき、アストラル体が私たちに必要な意志の器官になり、
アストラル的な直観力が形成されます。
涙を流すのをやめ、反感と共感を克服して、
記憶像に正しく向き合えるようにならなければなりません。
想起力・構想力を支配できたなら、当面の目標に達したことになります。
このことを実践していない間は、風にそよぐ葦のように、
どんな思想にも、どんな霊的な風のそよぎにも右往左往せざるをえません。
アストラル界とメンタル界へ意識的に赴く手段は、
内なる自己育成を志すこと以外にはないのです。
自分の想起力を統御して、
睡眠中の雲のような心の像を秩序立った光の像にすることのできる人、
特に心臓と頭部から発する心の像を秩序立った光の像にすることのできる人には、
内から外へ生きることへの意味が分かっています。
そこまで達した人には、もはや何ものも心に害を及ぼすことができません。
そのような人には最悪の思想を送りつけたとしても
その思想は何の作用も及ぼさずに跳ね返されてしまうでしょう。
そういう人が瞑想するときには、霊的な壁を周囲にめぐらしているのですから。
シュタイナーの瞑想法 秘教講義3
訳:高橋 巌氏 2019.6.20発行
今回紹介させていただいた内容の全文は、こちらの著書に収録されています




