オックスフォード教育講座
訳:新田 義之氏 2001.12.25発行
1922.8.16~29 オックスフォード大学で開催された研究集会にて、
Rシュタイナーが行った9回の講演が収録されています。
今回はルドルフ・シュタイナーが一般の方向けに講演をした、
瞑想に関する内容を紹介させていただきます。
※著書の内容から要約、省略している箇所もあるので、
実際の著書の文面とは異なるので御了承ください。
※著書や翻訳されている方によって、
Rシュタイナーが使用している用語の日本語訳が少し異なる用語もありますが、
今回の内容は今回の著書に沿って記載させていただきます。
内容を大別すると下記のようになります。
実際の著書には大別した概要タイトルはありません。
【前半】
■瞑想に関する前置き
■瞑想の集中方法と、最初の気付きの日
■瞑想によるエーテル体への気付き
■密議的認識と、瞑想時の豊かな寛容性
内容が長いので上述の概要箇所までを前半として、今回紹介させていただきます。
以下の概要箇所は後半として、次回紹介させていただこうと思います。
【後半】
■超感覚的認識と、誕生前の霊性認識
■永遠性=不死性と前誕生性
■意志の鍛錬方法の幾つかの例
■意志の鍛錬により現れる2つの兆候
ここから今回の内容になります。
■瞑想に関する前置き
思考する者にとって
「私があらゆる認識の際に用いる、この思考というものそれ自体は、
一体何なのであろうか?」という疑問が生じます。
どれ程長い間考え続けても、
思考とはどんなものなのかを見付け出すことは出来ません。
この時、思考は、いつまでも同じところに立ち止まっていて、
言うなれば既に自分たちが作り上げた軸の周りを、
自分で回っているに過ぎないからです。
私たちは思考を用いて
「瞑想(メディテーション)」と呼ばれるものを為さなければなりません。
瞑想のことを神秘的なものと考えるべきではありませんが、
しかしこれをまた軽く考えすぎることも間違いです。
瞑想は今日の私たちの感覚においては、完全に明瞭なものでなければならず、
それと同時に、それに達するには忍耐と内的な心的エネルギーとを要します。
そして、それには自分以外の人間には決して与えることのできない
「何か」が含まれております。
自分自身に何かを約束し、それを守り通すことができるということが、
瞑想を成り立たせる条件の一つなのです。
ひとたび瞑想を始めると、
その人は人間の生における只一つの、本当に完全に自由な行為に入るのです。
私たちは自身の中に、常に自由を求める傾向を持っておりますし、
また求める自由の多くの部分は実現されました。
しかしながら、もし私たちが詳しく考え始めると、
私たちは、ある部分は遺伝に左右されており、ある部分は教育に関係し、
また別の部分は生活に影響されているのに気付くでしょう。
そして私たちが遺伝・教育・生活から手に入れたものを、
どの程度さっぱりと捨て去ることが出来るのか自問してみてください。
もし、こういうものをいっぺんにさっぱり捨て去ろうとすれば、
相当程度「無」にさらされるのではないでしょうか。
しかし私たちが超感覚的な世界の中を覗き込むことを、次第に学んでいくために、
朝晩に一度づつ瞑想することを始めても、これをいつでも中止することもできます。
それに逆らうものは何一つありません。
また多くの(R・シュタイナー自身の)経験が示すところでは、
たいへんな決意をもって瞑想的な生活に入っていった人々の大部分が、
すぐにまたそれをやめてしまうものです。
私たちはこの点に関して実に完全に自由なのです。
瞑想行為というものは、根源的に自由な行為なのです。
それにも関わらず、自分自身に対して誠実さを守ることが出来、
誠実に瞑想をすることを自分自身に約束するとするならば
(自分自身に対して誠実を守りうるということ)
それは、心の中の巨大な力の存在を意味します。
以上を前置きとして、瞑想がそのもっとも単純な形で行われるとしたら、
どんなものになるか、その基本的な点について、お話してみようと思います。
■瞑想の集中方法と、最初の気付きの日
ある一つの何かの表象、又は表象の複合体を、意識の中心点にもってきます。
この表象(複合体)の内容は全く問題になりません。
→条件:ただそれは、直接的なものでなければならず、
記憶の中の思い出や、それに類するものであってはなりません。
ですから、
こういう事柄に経験を積んでいる他人から、瞑想の指導を受けるのがよいのです。
→理由:それは、その人が自分に何かの暗示を与えるであろうからではなく、
自分の瞑想するものが、自分自身にとって、まったく新しいものであることが、
それで保証されるからです。
※シュタイナーコレクション3 照応する宇宙、秘教講義3などでは
「薔薇十字」の表象などが紹介されています。
これまで一度も読んだことのない作品を取り上げて、
瞑想のための言葉を提出しても結構です。
大切なのは意識化、又は無意識領域から文章を取ってきて、
それに身を任すことを決してしないことです。
そのような文章は純粋にそれを眺めることが出来ません。
何故なら、それには、ありとあらゆる感情・情動の残滓が混入しているからです。
大切なのは、
瞑想に用いる文章が、あたかも数学の式が透明であるように透明であることです。
非常に単純な「真理は光の中に住む」という文を採ってみましょう。
これはまず本当であるかどうかを吟味することが出来ません。
これは一つの像なのです。
その内容そのものと、何か特別な方法で取り組むことが問題なのではなく、
内容を内面的・心意的に眺め、その上に意識を憩わせることが肝要なのです。
始めのうちは、
ほんの短い間しか意識をこのような内容の上に憩わせることは出来ないでしょうが
その時間は少しづつ長くしていくことが出来ます。
これは、
私たちの内部にある思考や感情の総ての力を一つの内容に向けて集中させるために
心性としての人間の総体を一つに凝縮するということなのです。
筋肉を強くするために、それを働かせなければならないのと同じように、
心の力は繰り返し一つの内容に向けられることによって鍛えられていきます。
できれば、この内容は何ヶ月も何年間も同じものであった方がよいのです。
心の力は本当の超感覚的な探求をするためには、
まず強められ鍛えられなければならないからです。
こういう方法を続けていくと、突如として、
あるはっきりした一つの事実に気付く日(偉大なる日)が訪れます。
肉体から完全に独立した心(性)的作用に、
自分が次第に入っていっているということに気付くのです。
また以前には、自分の思考も感情作用も全て肉体に依存していたこと、
つまり表象作用は感覚・神経系に、感情作用は循環系にというように、
全てが肉体と結びついていたことにも気付きます。
今や自分は肉体の営みの一切から独立した、
霊的・心的な活動の中にいることが感じ取られてきます。
このことはまた、これまでまったく意識されていなかった頭の中の「何か」を、
自分自身で発動させることが出来るようになっている事実からも確かめられます。
それは、睡眠がどの点において覚醒と違っているか、ということの発見です。
この違いは、
「目覚めている間、人間の全肉体機構の中で何かが振動しているが、
ただ頭部の中だけはそうではない。
ここ(頭部の中)では、頭部以外の全肉体機構中で活動しているものが
静止状態にある。」という点にあります。
※この気付いている状態は慣れてくると、
瞑想中以外の日常時も気付きの状態を維持できるようになってきます。
そのような訓練も実際にあります。
■瞑想によるエーテル体への気付き
(この項目ではエーテル体に関する解説もされています。)
私たちの肉体は、ほぼ90%が液体からできており、ほぼ10%の固形的部分は、
液体の中へ浸しこまれており、その中に浮かんでいるのです。
そして、ある部分では空気がこの水の中で往来しており、また熱が出入りしています。
人間はほんの僅かな部分しか固形物質体を持たず、大部分が水と空気と
その中でかすかに振動している熱であるということを思い描いてくだされば、
人間の内部に、これより更に微細な何かが存在していることを、
そんなに信じられないことだとは思わなくなることと思います。
この更に微細なもののことを、ここで「エーテル体」と名付けておこうと思います。
※エーテル体・・
生命活動が持続する間、形状の崩壊を止めようとする作用・働き。(生命エネルギー)
Rシュタイナーは、エーテル体のことを生命体・形成力体とも呼んでいる。
エーテル体のことを、仏教では微細見(リンガ・シャリーラ)と呼んでいます。
エーテル体は気体よりもいっそう繊細であり、これが人間の中を浸していても、
通常の生の中では、それに気付くことが全く無いほど繊細なものです。
このエーテル体こそが、覚醒時に人間の内部で活動し、
頭部を除く人間の全肉体中で規則正しく運動しているものです。
頭部の中ではエーテル体は静止しています。
睡眠中は状態が変わります。
エーテル体が頭部内においても運動し始めると睡眠が始まり、
その状態が続くかぎり睡眠も続くのです。
こうして私たち(人間)は睡眠中、
人間総体として内的に活動しているエーテル体を持っているのです。
そして夢を見るということは、目覚めの際にエーテル体の活動の最終的部分を、
目覚めの過程の中でも尚知覚し続けることなのです。
急速に目覚めた場合、それが生じないということでもあります。
長期間瞑想をすると、頭部中の静止したエーテル体の中へ
次第に像を注入することができるようになってきます。
私(R・シュタイナー)はこれを、
「イマジネーション(実像認識作用)」と呼んでいます。
物質的な肉体に依存することなく、エーテル体中に体験されるこの実像認識が、
私たちの得ることのできる最初の超感覚的印象なのです。
これは更に私たちを導いて、物質的な肉体から完全に脱却し、人生を遡行的に、
行動行為の一切を含めて、像として観照できる状態をもたらします。
溺死しかけた人がしばしば述べることですが、
彼らは、その瞬間に自分の一生を遡行的に生き生きとした像で見るそうであります。
同様のことがここで組織的に修練されうるのであり、
その結果、今回の地上の生の一切の成果が見られるようになるのです。
密議的認識が与えてくれる最初のものは、自分自身の魂の生活を観照する力です。
普通この魂の生(心意的生活)は、
諸々の表象から織りなされているものだと抽象的に想像されています。
しかし、その本当の姿を知ると、実はこれは創造的なものなのです。
それは私たちの幼少期において活動したものであり、脳を作り出したものであり、
更に脳以外の肉体に浸透し、形成的、造形的な作用を続けているものなのです。
そしてまた覚醒状態を引き起こし消化作用に毎日働きかけているものでもあります。
この肉体機構の内部で働く存在を、人間のエーテル体と見なしています。
これは空間的な肉体ではなく、時間的な肉体なのです。
もしエーテル体を空間的な形態で描き出そうとするならば、
それはあたかも稲妻を絵に描くのと同じことをしておられるのだということを
自覚なさらなければいけません。
稲妻を描くときは、ひとつの瞬間を描きます。瞬間を固定するのです。
人間のエーテル体を空間的に把握することが出来るとするなら、
それは一瞬を固定することによってなのです。
現実に人間は、物質的肉体という空間的身体と
常に変動しているエーテル体という時間的身体を持っています。
この発見をした時点から誕生の時までの間を一目で見渡し、
その間を通して、この時間的身体が一つの統一体であることを捉えたとき、
初めてエーテル体について云々することに意味が生じます。
これが自身の内部に存する超感覚的な諸素質に関して行いうる発見のうちの
最初のものなのです。
■密議的認識と、瞑想時の豊かな寛容性
このような魂の体験によって、魂の成長の面でどのような作用が生じるかは
密議的認識に向かって努力する人間の心の状態や、姿勢の完全な変化に
特によく現れてきます。
密議的認識を経た人間が、
突然これまでと全く違った人間になると誤解しないで下さい。
事実はその正反対であって、現代における密議的認識は、
人間を完全に現世の中に留め、たとえ密議的認識に達しても、これまで通りの生を
生き続けていくことが出来るようにするものでなければなりません。
しかし超感覚的な探求が為されている時間は、(深い瞑想時などのこと)
当然その人は密議的認識によって、
通常の生活を営んでいる時とは、全く別の人間となっているのです。
密議的認識を際立たせる一つの重要な要素を、指摘しておきたいと思います。
それは超感覚的な体験において先へ進めば進むほど、自分自身の肉体性が
自分自身から遠ざかっていくのを、よりいっそう強く感じ取ることです。
すなわち、この肉体性が、通常の生において関係を持っている一切が、
自分から次第に遠くなっていくのです。
※超感覚的な体験は、瞑想時などの集中状態を指しているので、
瞑想が深くなるほど、自身の肉体や通常の感覚から離れていくことになります。
私たちの判断というものが人生でどのように生じてくるかを一度考えてみましょう。
私たちは誕生後成長し、子供となっていきます。
この時、生の中に好感と反感とが根付いてゆきます。
様々な自然、現象に対して、
また特に他人に対しての好感や反感が形を得ていきます。
こういうものの一切には肉体が参与しています。
もちろん肉体の中へこのような好感と反感を注ぎ込むのですが、
それらの多くは実は、私たちの肉体の物質的な活動から生じたものなのです。
密議的認識に向かう人が超感覚的世界の中へ入る瞬間に、
自身が超感覚的世界にいるかぎり、肉体的なものと関連している好感や反感が、
次第に自分とは縁遠くなっていくのを体験します。
肉体性によって結び付けられているものから自分を解き放すからです。
再び通常の生活の中へ戻ろうとするとき、
通常の、普通なら当然のこととして生じている好感と反感の中へ、
再び自分を戻し入れなければなりません。
私たちは朝目覚めると、自分の肉体の中に戻り、
事物や人間に対して以前と全く同じ愛情を感じ、以前と同じ好感と反感を抱きます。
これはおのずからそうなるのですが、もし超感覚的な世界に滞在した後、
もう一度元の好感と反感に戻ろうと思うとき(自分自身の肉体性に潜り込むとき)、
大きな努力が必要とされます。
このような肉体性からの離脱現象が生じるのは、
密議的認識においていくらか進歩したことを示す証拠の一つです。
通例では寛容性の著しく豊かな好感と反感が立ち現れてきて、
次第に密議体験者と一体になっていきます。
密議的認識が行われている間の記憶・想起作用は、
密議的体験に向かっての成長を特に強く現わす現象です。
私たちは通常の人生のうちに色々な体験をし、記憶を得て、後にこれを想起します。
超感覚的世界での体験はこのようにはいきません。
これを偉大さや美や意味深さとして体験することができますが、
それは過ぎ去っていきます。
それがもう一度魂の前に姿を現わすことになるとすれば、
それはもう一度改めて体験され直されなければならないのです。
普通の意味においては、超感覚的世界における体験は、記憶に痕跡を残しません。
これが記憶に刻印されるのは、非常な努力をはらって
知的理解作用を超感覚的世界の中へ送り込み、概念の形に化すときだけです。
超感覚的世界の中で思考をする際には、肉体の助けを借りることなく
思考しなければならないため、これは非常に難しいことです。
故にこの世界を覗き込むためには、予め自分の概念保持能力を強めておき、
論理を決して失わないように、
予め成熟した論理的思考者になっていなければなりません。
単純な透視者は多くを見ることが出来ますが、
彼らはその世界に入るときに論理を忘れてしまっています。
私たちは超感覚的な諸々の事実を、人に語り聞かせなければならなくなる、
正にその時に、
超感覚的な真実との関連において、記憶がこのように変化したことに気付くのです。
この点において物質的肉体がいかに思考作用にではなく、
記憶の行使に関係するものであるか、
超感覚的なものを取り込もうとする性質をもつ記憶作用の行使をも
いかに強く支配するものであるか、を見るのです。
※知性・思考力の育成や発達に関しても
「シュタイナーコレクション3 照応する宇宙」などで解説されています。
訳:高橋 巌氏 2003.10.10発行
第一部 マクロコスモスとミクロコスモス 1910.3.21~31 ウィーン
第九講 目次
象徴の作用/ハートで思考する/合理的に思考する/認識の三段階/認識を身体で感じる/
真実の多面性/自我の12の側面/自分の立場から離れる/こころの血
第八講で、
象徴像と呼ばれる特定の図形などを観想する瞑想法の解説と
それによって形成される蓮華(又はチャクラ)に関して解説されています。
*また次回続きを記載させていただきます。どうもありがとうございました。







