久しぶりに、ブログを書きます。私の文学史。というか、読書遍歴、について。
「生まれてきてすみません」は、私の信奉する太宰治の言葉。「生まれてきた以上生きねばならぬ」は、これまた私の敬愛する夏目漱石の言葉。これに芥川龍之介と、宮沢賢治までが、明治の文学者で今でも読み続ける示唆深い作家。これに森鴎外を加えないといけないな。宮沢賢治のSF小説。彼のロマン、自然観、いや、宇宙観にはとにかく感銘を受けた。
その後、思想・哲学関係に興味が広がり、三木清、森有正、小林秀雄、埴谷雄高、加藤周一、吉本隆明、高橋和巳、大江健三郎あたりまでも、三木清は除き、同時代的に読んだ。これに三島由紀夫を加えないといけない。ただ、小林と三島は思想的には相容れない部分は確かにある。
明治期から昭和にかけての私の好きな作家群。政府とは独立した価値観を融資、政府に物申すという反骨的精神、あるいは、文学者としての使命感を、小林を除き、有していた点でも、その作品群の文学的素晴らしさだけではない、共鳴できるものがある。
今は、あまり読書に割く時間もないものの、小説、エッセイをよく読む。浅田次郎、村上春樹。彼らは言うまでもなく秀逸だ。浅田次郎の討論会には二度ほど足を運んだが、ざっくばらんだけれども、思っていたより真面目な感じに見受けられた。彼との距離2m。気が小さくない私だけれども、緊張したのは懐かしい思い出だ。今は他にそれほど好きな、あえて言えば、優れた小説家はいない気がしてならないのは、私だけかな。
二人には共通点はないようだけれども、反骨精神に溢れ、さらに音楽に造形が深いせいか、リズム感が文章に現れているように感じられて仕方ない、私には。ただ、浅田は、漢文の素養が影響し、村上は、翻訳の経験が影響しているのにちがいない。
新しい作家も読まないわけではないが、追っかけする程の作家は今のところいない。現れては欲しいけれど、本を読まない時代。作家という職業に人が集まらないのも不思議ではない。また、文学系統に予算を咲かない政府の方針が間接的にせよ影響を与えているのかもしれない。