戦時である。
アパートの1階が燃えている時、たとえ私がまどろみに落ちていても炎は私を焦がす。
たとえ地下街の一番向こうの店が燃えていても、その煙や炎は私の店の天井裏を侵している。
戦時に思い起こさなくてはいけないことは、抱きしめるという鋭意である。
私の両腕は、ある時は人を殴るだろうが、本来の働きは、誰かを抱きしめ、温かいスープを作り、愛する人の前に運ぶためにある。
戦争も暴力も、怒りと憎しみにかられて起こる。どんな知略の前提にもそれがある。
そんなきれいごとをと言われるかもしれないが、少なくとも私たちはそれを実現した瞬間がある。
あのとき、イギリスの音楽家は、見も知らぬエチオピアの子どもを抱き上げたではないか。
あのとき、アメリカの、世界の音楽シーンを彩る全員が、飢餓を救うためにひとつになったじゃないか。
クインシー・ジョーンズのゆがんだ眼鏡のその先に、このメロディに命を注がれる現実があったじゃないか。
命を引きとめる術こそ、私たち人間に与えられた力だろう。
悲惨な戦場リポートを目にして、より凄惨な悲劇を予見して、武器の性能を声高らかに誇り語る愚かさよ。
身を焦がす炎は、私たちの利器ではない。ただ叡智をもって消すのみだ。
あれは、イギリスを最もカッコいいと感じた瞬間であり、アメリカが実現できた最も豊かな瞬間だろう。
毀誉褒貶を語り、粗を探すことはすまい。
ただ、ボブ・ゲドルフ、マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチーに感謝する。
ただ、ただこの戦禍の早く鎮まることを、この戦火の人を焼かざることを祈る。