ハウルの動く城 | 不可思議?

不可思議?

不定期に面白い不思議ネタを書けたらいいな。

1998長野オリンピック・パラリンピックというと思い出すのが久石譲さん。





あのパラリンピックのセレモニーは歴史に残るものだと思う。


歴史というのは不思議なもので、ほんとうのことが残るのではなく、大きくて重たいものが網に引っかかる。


最近は「歴史戦」という異常なことばもあって、歴史修正主義のようなクソッタレも跋扈しているが、あったものは「あった」で、なかったものは「なかった」で、正しい論証(特定のベクトルに偏重しないように慎重で丁寧な議論や証明)の途上にあるものは「議論の途上にある」または「AかもしれずBかもしれない」と書くのが正しい。

「日本バンザイ」や嫌韓・嫌中などが見えたら、それはすでにギミックでしかない。


閑話休題

久石譲さんといえば、日本の映画orアニメーションの偉大な作家 宮崎駿さんとのコンビは長くて、フェデリコ・フェリーニとニーノ・ロータみたいなコンビで、どっちが欠けても画竜点睛を欠くような、宮崎さんの絵には久石さんの音が、久石の曲には宮崎さんのタッチがよく似合うコンビだ。


一方で、これは間違いなく天才の芸で、素晴らしいのだが、レア元素すぎて網からこぼれそうなものもたくさんある。

その際たるものがあがた森魚さんで、幼少期にTVなどで見た印象は「かなり変わったおじさん」で、『バントネオンの豹』の頃は先端の尖った人で、名盤『イミテーション・ゴールド』は大好きな1枚だった。

それから、なんとなく聴かない時期を経て、偶然にもテレビ東京の「マハラジャ」というダウンタウンなんかが出ていた番組の「Fの魂」というコーナーで再会する。




たまたま、つけてみたTVからはギター1本で歌うあがた森魚さんの説得力のある歌が流れてきた。

「うぉぉぉ!あがた森魚だぁ」とダジャレのような驚きとともに、その時間はできる限りそのコーナーを見た。

当時流行った、プロがアマチュアを鍛える系のコーナーで、キャラの濃いあがたさんが起用されたのだろうが、言ってること、歌、全部が落合博満のバッティングのような感じだった。

まとも過ぎて主流になれない重さをプロがアマにぶつける動画が流れて、それを主流になりたいタレントやお笑いが受け止めきれずにごまかすのがオチだったが、とにかくあがた森魚のナマナマしい歌が良すぎた。


あがた森魚さんと言えば、早川義夫さんに認められて世に出てからずっと独自の世界で、でもその独自の世界は、はちみつぱいやムーンライダーズをこの世に出したし、有名な『赤色エレジー』の昭和歌謡の再生産は、その後の戸川純やヒカシューなどの再々生産につながり、それが椎名林檎などに流れ込んで今に至ると思うと、ある意味で非常に生産的な日本音楽や文化の基本底流であるようにも思う。


歌が心を打ちのめすものだとすれば、あがたさんはマイク・タイソンや、ジョージ・フォアマンのようなものかもしれない。また、惹句で合わせれば「石の拳」ロベルト・デュランのようなもので、「石の歌」あがた森魚なのだと思う。


さて、なんでここで、久石譲さんとあがた森魚さんを併記しているかというと、前回書いたBillie EilishのTikTokで久石譲さんの「人生のメリーゴーランド(Merry GoRound  of Life)」のストリングスアレンジが使われていて、これを聴いて、私はあがた森魚さんの『サイレント・イヴ』を思い出したからだ。





どっちも、非常に似た、ゆらゆらしたイントロで始まる。

こういうことを書くと、「パクり」とかを期待されるかもしれないが、それは全く違う。ある哀感を表現すると「カノン進行」になってしまうような、基層や祖型・原型での類似の一つだと思う。


久石さんがゆらゆら感から哀感の濃い大人なJazzyなワルツに流すのに対して、あがたさんはムーンライダーズの白井良明さんの絶妙なアレンジで、ごく普通の男女の真剣な愛が、時流やタイミング、エキストラな出来事の挿入に翻弄されて、濃密なタンゴのようなステップになってしまう情緒を濃密に歌い上げている。

どちらも、人が主体的にではなく、状況によって見事に踊らざるを得ない瞬間を絶妙に表現している名曲だ。


あがたさんバージョンと辛島美登里さんの原曲の聴き比べも実に趣深い(ここにはリンクしないけど)。


音楽や芸術を愛好するなら、意図して篩の目を細かくして、2段目3段目にでいいからこんなに光る本物が、こうしてここにあることを残すというのは大いなる義務だし、それが愛なのだと思わずにはいられない。