世の不思議な写真で加工やレタッチのあるものは論外である。
ついでに言えば、撮った本人が「これは何の神様のメッセージ?」というようなヤツも論外である。
もし、それが神様や仏様のメッセージであるなら、撮った本人が「ああ!」と合点がいくのが普通だからだ。
それがハレーションやゴースト、またはバースト、または雲や水の波紋、ものの影や木の葉の重なりのような造形であっても、これは違うと合点がいくのが第一だからだ。
その場合、「これはバースト」と言われても、撮影時の状況や、撮影者が初見で得たメッセージを説明することができる。
何の変哲もない風景写真でも、それによって勇気づけられたり、癒されたり、得も言われぬパワーを感じることはよくあることで、そこに審神者の介入はさほど必要ない。
特に複雑な風景写真などでは、その何処かが人物や仏像や龍に見えることなどいくらでもある。
特にライトが不安定で陰影が大きい朝日や夕景、木漏れ日や水面などを撮るとそう見えることが多いが、撮影慣れすればそれはある程度狙える。
狙って撮ったものや、加工をしたものを神秘だというのはむしろ「本当の神秘」への冒涜でしかない。
そういうことを止め、諌め、排除した先にしか本物はない。
ある虹が「美しい」以上の意味を撮影者が感じた時、また見た者が感じた時に不思議は生じる。
そうして多くの人が神秘を感じたときにこそ、鍛え抜かれた審神者の出番なのだ。
不思議を愛するものが、安易に不思議の価値を下げてはいけない。
雨上がりのふつうの虹
雲の中の龍ぽい形状を狙ったもの(手間は2分)
たなびく雲にあたる夕日
湯河原の狸福神社参拝直後の水しぶき
さて、何をして不思議とするか?