性の問題は重要 | 不可思議?

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LGBTQや性依存が話題になるが、人間の存在と性は当然不可分で、重要な問題である。
性の問題を避けてあらゆることが語れないという事実は重要で、その意味でフロイドの心理学は価値がある。

個人において性自認や性癖を獲得する過程は重要である。
第二次性徴以前の発達心理には疎いが、まずは人間の興味は差異に向く。この差異への関心は異性との性差と個人的な等質性の中の細部の差異に向く。
第二次性徴において、ヒトは欲情を獲得し、その問題の解決に悩むが、その深い苦悩を解決するものの重大なひとつが、性的快楽であると程なく気がつく。そうするとその快楽をもたらす部分や方法に関心が向く。
若年の女性が、肉感的な身体の友人にスキンシップを求めたり、男児が男性器の形状や大小、それがもたらす快楽の質の差(等質の中の差異)に集中するのはある意味当然の興味である。
この段階で、私たちは異性に興味と奇異感を持ち、同性に興味と共感性を持つ。

ものすごく単純化してしまえば、異性への興味が〈①伝統的な正当性 ②欲情の度合 ③より大きな身体的差異への興味 など〉によって勝ればヘテロに傾斜し、性器や性的なスポットのもたらす快楽や等質性の安心をベースにした差異探索の快楽が勝れば同性愛的傾向が強くなる。
それらの両点から距離が遠くなれば中性的であったり、Xジェンダーになるが、その距離がより動物的な部分に対して理性が勝る場合(ナチュラルにのめり込みがない)と、嫌悪が勝る場合があって、そのスタンス自体が形成される。

ヘテロ男性の立場に限定しても、女性的な身体性(ふくよかさや体毛の少ない柔らかさ)とのコミュニケーションを好む人もいれば、女性の身体性を経由して快楽を得ることに集中する人がいる。一方で経験する量を問題にするタイプもあるが、実際にはその量は異性に返されるのではなく、同性のコミュニティにおいて誇られるので、視野としてはむしろ同性愛的だとも言える。

個人の中には常にある割合(変動しながら)で同性への興味と愛着、異性への興味と愛着が混在しているし、そのパワーの表出方法は個人において異なる。

ただし、一回アファメーションされた性的趣味の変更は極めて難しい。自分はゲイだとアファメーションすればどこまでもゲイだし、オレはヘテロだとアファメーションすればどこまでもヘテロだ。バイでもトランスでも同じで、また「表明しない」もしくは「モラトリアムを選択する」アファメーションはXジェンダーを生む。
(生命への畏敬がある人間は決して無宗教ではないが、無宗教を表明することで無宗教になるのと似ている。ここでいう無宗教は非キリスト教ということではなく、※宗教的と判断できる選択を忌避するという場合を指す)

このアファメーションはさらに細部に及び、多種多様なフェティッシュを形成する。
「私はサディストだ」「私はマゾヒストだ」「脚フェチだ」「巨乳好きだ」「筋肉質な背中が最高」なども曖昧な(混沌とした)自覚をアファメーションすることで固定化する。また表明内容の選択にあたっては、先人の残した社会規定に基づくが、固定化される一方で微細な差異を拾って多様化も行われるのは言うまでもない。

これらの混沌とした欲求とアファメーションによって私たちは直接的な人間関係を形成しているが、それらの人間関係は当然、間接的な外部を持ち、その外部は私たちに社会として自覚される。
性はこのように強いモチベーションであるので、社会の前面に出ることは少なく、前面に出すことは抑圧され、性癖の多様性もこの社会によって規制される。
その規制は理性的・合理的側面と、エモーショナルな嫌悪と憎悪の両面がある。前者は総体としての社会維持からもたらされるものであり、後者はひたすらに憎悪であるが、憎悪の規模が社会維持に影響を持つほどに全体的である場合、合理的判断に返される。

例を挙げれば、近代においてゲイが社会表面に出ることを忌避されたのは、合理的にはソドミーでは子孫が生じず次代が維持できない(次世代が予期できない社会に安定はない)からであり、感情的には排泄器を生殖器の代替とする「汚らしさ」にあり、日本語の蔑称である「オカマ」は完全に後者である。
同様に無秩序な乱婚も忌避された。

しかしながら、基本的興味や欲求が細分に向かう傾向は揺るがないので、秩序外のラヴアフェアは存在し続けるので、恋愛譚の主題に用いられ続けてきた。
同じくこの差異への欲求(多くは等質性に返される)と快楽衝動のセットはペドフェリアやネクロフィリアなどの数多くの変態を産んだ。

昨今の日本の「萌え」文化には多くのペド要素を含んでいて、極めて肉感的身体に幼児的な表情やポーズ、判断や発言させる作品は批判の対象にもされている。

よく性犯罪の抑制が難しく、再犯が多いのも、一旦アファメーションによって固定化した欲望の表出ルートは動かしづらく、欲望が生じると固定的な出口に向かうからだろう。
アメリカなどがGPS装着やホルモン注射や去勢を求めるのもこうしたところにある。つまりは欲求そのものを断つということ(GPSは機会を断つ方式)だろう。

アファメーションによって固定化させる出口は必ずしも生得的なものでなく、誤解を恐れず言えば「呪術的」に獲得されている。
去勢的な方法以外があるとすると、悪魔祓いによる呪術解除以外にないのかもしれない。

ただ、その呪術は私たちにも及んでいることは意識しないと、ある種の崩壊を招く危険がある。その崩壊とは性という根源的なモチベーションの削除によってもたらされる。

性がなぜ根源的モチベーションたりうるのかは、心理学の著作や宗教書に詳しいが、暗喩的で寓話的であり、実体として書かれているものは秘教である。比較的手に入りやすいだろうヴィルヘルム・ライヒの著作(それらをオルゴンという「汎用的物質」で説明しようとした)もあまり手に入らないようだ。

それにしても昔聞いた冗談「『Reich』は帝国であり、『Freud』は自由であるが実に皮肉だ」は実に示唆的でパラレルに呪術的だ。

性の主題は実に難しい。しかしながら、SNSのセルフィーの自意識も、服装の趣味も化粧も、多くは性の呪縛の表明である。