中島みゆきの『糸』というのは名曲ということになっている。
いや、水を差すわけではない。
元来はB面の曲なのだ。『糸』が天理教に絡む曲とかどうとかは関係ない。今や奈良県の大都会であるし、教祖を揶揄する気持ちは微塵もない。
でもね、聴き比べればA面であった『命の別名』の良さが浮き立つのだ。
中島みゆき本人の思い入れは『二隻の舟』『銀の龍の背に乗って』なみに厚いだろう。「命に付く名前を『心』と呼ぶ」のピークを表現するためのことばの階段が根性入りすぎてる。おそらく中島みゆき本人の表現力の限界値を踏みたかったのだろうと思う。
作曲とそれ以上に詩人としての評価もある中島みゆきの渾身作と言えよう。
当時の野島伸司の大ブームで、TBSが中島みゆきに求めたことは、1981年『3年B組金八先生』の「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく」という『世情』の熱狂であっただろう。
名曲『世情』を超えるために煮詰めたジャムが『命の別名』だろうと思う。
糸がB面になったのは、宗教がらみでも何でもなく出来だ。この時期の中島みゆきの作詞のクオリティとして、パワーワード「めぐりあい」「縦横」「いつか」「温める」のような【パワーワード】構成の歌詞を嫌っていた節もある。
文学の世界でよく言われるのは誰でも書き易いことを書いたら負けということだ。「未来」「抱きしめる」「離れない」「切ない」「思い出」「雨(涙)」のような組み立てや連続は使わないというのが魔法界の掟だった。
近年になってそれは見事に崩されて、童謡以下のパワーワードの連呼の歌詞が増えた。
今の人は子猫とヒヨコが出会って今日一日中仲睦まじいとき、この二つの命は生涯に渡って円満と思うのだろう。あまりにも浅薄だ。そうならないことを十分に孕んだ明日があるのだ。
詩人・中島みゆきはそこを避けたきらいがある。
この『糸』の「めぐり逢う」「縦・横」「温める」は実際にパワーワードだが、これを歌う人、聴く人の中で、縦糸の「あなた」は固定糸で、横糸の「私」が“通り過ぎて”初めて温かい布はできるという意識は少ないだろう。
中島みゆきはわかって歌っているが、「私とあなたが別れた後にできる布が、私でない誰かを温めるだろう」という内容でないと思って歌っている人が、プロのカバーでも多いように思う。
さて、中島みゆきの絶唱のひとつである『命の別名』に反応した二つの魂がある。一つは羽村市(現 あきる野市)のヤンキー 工藤静香であり、鹿児島の不良少女 中島美嘉である。
北海道の文学少女と東京のヤンキーと鹿児島の不良少女が「命に付く名前を『心』と呼ぶ」に呼応したわけだ。つまり、身体という物体ではなく、それに憑依して支配して、「あたしの主体」になっている「心」こそが私の命だという実感の中に生きてきた、濃く自分の生を歩むものにこの歌詞は響いたのだ。
理解と共感は列島を貫いている。
工藤の楽曲、中島のライブ映像を見ても、ほぼ自分の絶唱として歌い込んでいる。
でも私たちは『糸』をパワーワードに溺れて愛唱するのである。