👑特別補遺
王になる前に、王を学ぶ
― 箴言31章と「キリストと共に治める者」―
ここまで、
箴言31章4–9節を通して、
「王とは何か」
ということを考えてきました。
王とは、
単に王冠をかぶる者ではありません。
力を持つ者でもありません。
レムエルの母が、
王である息子へ最初に教えたのは、
領土を広げる方法でも、
敵に勝つ方法でも、
富を増やす方法でもありませんでした。
むしろ、
自分を治めること。
そして、
与えられた力を、弱い者のために使うこと。
でした。
ここで、
一つ興味深い視点があります。
それは、
この「王としての学び」を、
黙示録20章に描かれる、
「キリストと共に治める者たち」
という姿と並べてみることです。
もちろん、
箴言31章が、
黙示録20章を直接預言している、
という意味ではありません。
また、
レムエル王についての教えを、
そのまま終末論へ置き換えるわけでもありません。
しかし、
聖書全体に流れる、
「神のもとで治めるとは何か」
というテーマとして眺めるなら、
そこには、
考えてみる価値のある響き合いがあります。
■ 「彼らはキリストと共に統治した」
黙示録20章には、
非常に印象的な光景があります。
「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」
― 黙示録20:4
さらに6節では、
「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」
と語られます。
ここには、
キリストと共に治める者たち
が登場します。
しかも4節を見ると、
彼らの前には、
「多くの座」があり、
そこに座る者たちには、
「裁くことが許されていた」
とあります。
つまり、
聖書が語る「治める」という働きには、
単に権力を持つことだけではなく、
正しく判断する責任
という側面も含まれていることが分かります。
すると、
箴言31章の言葉が、
ここで思い起こされます。
「酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げることがないためである。」
― 箴言31:5
そして、
「口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。」
― 箴言31:9
箴言31章の王にも、
正しく裁くこと
が求められていました。
■ 王冠より先に、自己統治がある
ここまでの箴言31章の流れを、
もう一度見てみましょう。
王に最初に教えられたのは、
「どうやって他人を支配するか」
ではありません。
まず、
自分自身についてでした。
欲望に、
力を渡してはいけない。
酒によって、
判断を失ってはいけない。
神の定めを、
忘れてはいけない。
自分を高くするためには、
口を閉じなければならない。
つまり、
他者を治める以前に、自分自身を治めることを学べ。
という方向が見えてきます。
これは、
非常に重要な順序ではないでしょうか。
なぜなら、
自分の欲望に支配されている者が、
大きな権力を持てば、
その欲望まで大きな力を持つことになるからです。
怒りに支配された王。
金に支配された王。
快楽に支配された王。
承認欲求に支配された王。
自分の正しさに酔った王。
そのような王に、
さらに大きな力を与えることは、
国そのものを危険にさらします。
だから、
箴言31章では、
王冠より先に、
王自身の心
が扱われているように見えるのです。
■ 「自分という国」を治める
ここからは、
一つの象徴的な黙想です。
私たち一人一人にも、
ある意味で、
「治めなければならない領域」
があります。
身体。
欲望。
感情。
怒り。
言葉。
時間。
お金。
知識。
そして、
自分に託された力。
パウロも、
自分自身について、
「自分のからだを打ちたたいて服従させる」
と語りました。
― Ⅰコリント9:27参照
これは、
自分が神になるという意味ではありません。
真の王は、
イェシュア・ハ・マシアハです。
しかし、
真の王の支配の下で、自分に託されたものを治める。
そういう意味では、
現在の生活そのものが、
「治めること」を学ぶ場所とも考えられます。
■ 黙示録20章で治める者たちは、何を選んだのか
そして、
黙示録20章には、
さらに重要なことが書かれています。
キリストと共に治める者たちは、
獣を拝まなかった。
その像を拝まなかった。
額や手に、
獣の刻印を受けなかった。
そして、
イェシュアの証しと、
神の言葉のために、
命を失った者たちとして描かれています。
ここに、
神の国の不思議な逆転があります。
彼らは、
治めるために獣へ屈した者たちではありません。
むしろ、
獣へ屈するくらいなら、
この世における力も、
安全も、
最後には命さえ、
手放した者たちです。
そして、
その者たちが、
キリストと共に治める。
これは、
この世の王国とは、
まったく違う価値観です。
■ 力を得るために屈するのか、力を手放して忠実であるのか
この世では、
力を得るために、
何かへ屈することがあります。
地位を守るため。
生活を守るため。
評価を守るため。
権力を得るため。
しかし、
黙示録20章の者たちは、
それを拒みました。
ここに、
イェシュアご自身の姿との響き合いも見えてきます。
荒野で悪魔は、
イェシュアに、
世界の国々とその栄華を示しました。
そして、
自分を拝むなら、
それらを与えると言いました。
しかし、
イェシュアは拒まれました。
つまり、
支配するために、間違ったものへひれ伏すことを拒まれた。
そして、
黙示録20章の者たちも、
獣を拝むことを拒んだ者として描かれています。
ここにも、
王なるイェシュアと、
その王に従う者たちとの、
美しい響き合いを見ることができます。
■ 「獣の支配」と「小羊の支配」
黙示録を読むと、
「力」というものが、
繰り返し問われています。
獣も、
力を持っています。
王たちも、
力を持っています。
大バビロンも、
富と影響力を持っています。
しかし、
力を持っているからといって、
それが神の国の力であるとは限りません。
ここは、
箴言31章の学びと、
非常によく響き合います。
問題は、
「力があるか」
ではありません。
問題は、
「その力を、何のために使うのか」
なのです。
獣の支配は、
自分へ従わせます。
しかし、
イェシュアは言われました。
「あなたがたの間では、そうであってはならない。」
― マタイ20:26参照
そして、
人の子は、
仕えられるためではなく、
仕えるために来たと語られました。
神の国における偉さは、
この世の支配とは、
根本から方向が違うのです。
■ 王とは、弱い者を踏む者ではない
ここで、
再び箴言31章へ戻ります。
レムエルの母が、
王に命じました。
「あなたは黙っている人のために……口を開くがよい。」
王の力は、
弱い者を黙らせるためではありません。
黙らされている者の声を、届かせるために使われる。
そして、
「貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。」
と続きます。
つまり、
神の前における王権は、
単なる特権ではなく、
責任
なのです。
王座が高くなるほど、
下にいる者が、
見えなくなってはいけない。
むしろ、
力を与えられた者ほど、
声の届かない者を、
見る必要があります。
■ 「聖徒は世をさばく」
パウロも、
コリントの信徒たちに、
驚くような言葉を語っています。
「聖徒は世をさばく」
― Ⅰコリント6:2参照
この箇所の直接的な文脈は、
信徒同士の争いを、
世俗の法廷へ持ち込んでいた問題です。
ですから、
これを単純に、
黙示録20章の千年王国についての説明だと、
断定することはできません。
しかし、
少なくともパウロが、
神の民と「裁き」という働きを、
まったく無関係なものとして考えていなかったことは分かります。
そう考えるなら、
現在の小さな判断。
現在の人間関係。
現在の言葉。
現在のお金の使い方。
現在の怒りの扱い方。
そうしたものさえ、
決して小さなことではないのかもしれません。
■ 神は、将来だけ王にするのだろうか
ここで、
一つの問いが生まれます。
神は私たちを、将来突然「治める者」にするのでしょうか。
それとも、
今すでに、
私たちの日常を通して、
治めることを学ばせておられるのでしょうか。
これは、
聖書本文が直接、
そう説明しているわけではありません。
ですから、
一つの黙想として考えてみたいと思います。
もし、
キリストと共に治めるという希望があるなら、
今の人生で問われていることは、
単なる知識だけではないのかもしれません。
怒りを、
どう治めるのか。
欲望を、
どう治めるのか。
口を、
どう治めるのか。
与えられた力を、
どう使うのか。
弱い者を、
どう見るのか。
真実と利益が衝突した時、
どちらを選ぶのか。
それらはすべて、
「王とは何か」
という問いにつながっているようにも見えます。
■ 王になる前に、王を学ぶ
箴言31章から、
黙示録20章まで。
この二つを、
直接的な預言と成就として結びつける必要はありません。
しかし、
「神のもとで治める」
という聖書全体のテーマとして並べてみると、
一つの美しい流れが見えてきます。
今、自分を治める。
↓
神の御言葉を忘れない。
↓
弱い者の声を聞く。
↓
正しく判断することを学ぶ。
↓
自分のためではなく、他者のために力を使う。
↓
獣の力へ屈するのではなく、神への忠実を選ぶ。
↓
そして、
キリストと共に治める。
もし、
このような見方が許されるなら、
現在の人生は、
ただ天国へ行くまでの待合室ではありません。
私たちは、
今日という一日の中で、
「王とは何か」
を学んでいるのかもしれません。
■ そして、真の王を見る
しかし、
ここで最後に、
決して忘れてはならないことがあります。
私たちの模範は、
自分自身ではありません。
真の王は、
イェシュア・ハ・マシアハです。
彼は、
力を持ちながら、
その力を、
自分自身を高くするために使われませんでした。
支配することができたのに、
仕えられました。
命を奪うことができたのに、
命を与えられました。
自分を救うことができたのに、
十字架にとどまられました。
そして、
復活された小羊が、
王として治められます。
だから、
キリストと共に治めるという希望は、
私たちが小さな独裁者になることではありません。
それは、
小羊の王権に参与すること
なのです。
ならば、
今から学ぶべき王の姿も、
明らかです。
欲望に支配されない。
力に酔わない。
神を忘れない。
弱い者を忘れない。
自分を高くするためには、
口を閉じる。
そして、
声なき者のためには、
口を開く。
王になる前に、
王を学ぶ。
いや、
もっと正確に言うなら――
真の王を見ながら、その王の治め方を学ぶ。
それが、
今を生きる私たちに与えられている、
一つの大切な学びなのかもしれません。
そしていつの日か、
黙示録が描くように、
キリストと共に治める時が来るのなら――
今日、
自分の小さな力を、
何のために使うのか。
その問いは、
決して小さな問いではないのです。
