補遺2-3
「腰に墨つぼ」
――神は「書き記す」
エゼキエル9章2節。
六人の中の一人。
亜麻布を着た者について、
もう一つ、
特徴的なものが、
記されている。
「腰に物を書く墨つぼをつけていた。」
口語訳では、
「墨つぼ」。
しかし、
原文を見ると、
もう少し、
具体的な姿が見えてくる。
■ 「書記の道具」
ここで使われている表現は、
קֶסֶת הַסֹּפֵרqeseth hassōphēr
おおよそ、
「書記の筆記用具」「書記の書く道具」
という意味である。
だから、
現代の小さなインク瓶だけを、
想像する必要はない。
筆記具やインクなどを備えた、
書記のための道具一式
を考える方が、
近いかもしれない。
重要なのは、
形ではない。
この人物が、
「書くためのもの」
を備えている、
ということである。
■ 五人には「滅ぼす道具」
ここで、
もう一度、
六人を見てみる。
五人には、
滅ぼすための道具。
一人には、
書くための道具。
破壊するもの。
そして、
記すもの。
裁きが始まろうとしている時、
神は、
ただ、
「滅ぼせ」
と命じられるのではない。
その前に、
一人を、
町の中へ送られる。
そして、
その者へ、
命じられる。
「しるしをつけよ。」
■ 神は「誰でも同じ」とは見ておられない
エルサレム全体には、
忌むべきことが、
満ちていた。
神殿も、
汚されていた。
暴虐が、
地を満たしていた。
人間の目には、
「もう全部同じだ」
と、
見えるかもしれない。
しかし、
神は、
そう見ておられなかった。
その町の中に、
行われている忌むべきことを、
嘆き、
悲しんでいる者たちがいる。
神は、
その者たちを、
知っておられる。
■ 人間には見えなくても、神には見えている
これは、
非常に大きな慰めでもあり、
同時に、
非常に大きな警告でもある。
人間には、
分からない。
誰が、
本当に、
神を求めているのか。
誰が、
外側だけ、
宗教的なのか。
誰が、
人前では、
正しく見えていて、
隠れた場所では、
違う方向を向いているのか。
エゼキエル8章は、
まさに、
その「隠れた場所」を、
暴いた章だった。
しかし、
反対もある。
人間には、
見えていなくても、
神だけが知っている、
嘆きがある。
祈りがある。
涙がある。
忠実さがある。
■ 誰にも知られなくても、神は知っておられる
町全体が、
神から離れているように見える。
宗教制度そのものまで、
腐っているように見える。
それでも、
その中で、
一人、
神の前で、
嘆いている者がいるかもしれない。
誰からも、
評価されない。
誰からも、
知られない。
歴史書にも、
名前が残らない。
しかし、
神は、
その者を、
見失われない。
エゼキエル9章では、
そのことが、
額のしるし
という、
目に見える形で、
表される。
■ ここから「神の書」というテーマが見えてくる
もちろん、
注意したい。
エゼキエル9章の、
書記の道具は、
「命の書を書くための道具」
だとは、
書かれていない。
この人物が、
天にある本へ、
名前を書き込んでいる、
とも、
書かれていない。
彼がしているのは、
町を巡り、
指定された者の、
額へ、
しるしをつけること。
だから、
墨つぼ=命の書
ではない。
しかし、
「神が人を知り、
区別し、
記される」
というテーマを追っていくと、
聖書の中には、
非常に興味深い、
「書」の流れが現れる。
■ モーセ――「あなたの書から」
出エジプト記32章。
金の子牛の事件。
イスラエルが、
大きな罪を犯す。
そして、
モーセは、
神の前で、
民のために、
執り成す。
そこで、
驚くべき言葉を語る。
「もしそれをおゆるしにならないのであれば、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください。」
すると、
主は答えられる。
「わたしに罪を犯した者は、だれでもわたしのふみから消し去るであろう。」
ここには、
すでに、
神の前にある「書」
という、
非常に重要な概念が現れる。
■ モーセは、自分の名前より民を思った
そして、
ここで、
エゼキエルとの、
もう一つの共鳴が見えてくる。
モーセは、
裁きを見て、
民のために、
執り成した。
エゼキエルも、
9章8節で、
裁きを見て、
神の前にひれ伏し、
叫ぶ。
「ああ主なる神よ、あなたはイスラエルの残りの者を、ことごとく滅ぼされるのですか。」
真の預言者は、
裁きを語って、
喜ぶのではない。
裁きを見た時、
神の前に、
立つ。
これは、
後の補遺で、
改めて見たい。
■ 詩篇にも「命の書」が現れる
詩篇69篇28節。
そこには、
こういう祈りがある。
「彼らをいのちの書から消し去って、義人のうちに記録されることのないようにしてください。」
ここでも、
記される者
と、
消される者
という、
強い表現が現れる。
もちろん、
これを、
エゼキエル9章の額のしるしと、
完全に同一視することはできない。
しかし、
聖書の中で、
神の前に、
人間の状態が、
「記される」という表現が、
繰り返されていることは、
見えてくる。
■ ダニエル――「書に名をしるされた者」
そして、
ダニエル12章。
大きな苦難の時が、
語られる。
その中で、
こう書かれる。
「その時あなたの民は救われます。すなわち、あの書に名をしるされた者は皆救われます。」
ここでは、
苦難と、
救われる者の区別。
そして、
書に記されている者
というテーマが、
一つの場面に現れる。
これは、
エゼキエル9章との、
非常に興味深い共鳴である。
エゼキエルでは、
額へ、
しるし。
ダニエルでは、
書へ、
名前。
形は違う。
しかし、
どちらにも、
裁き・苦難の中で、神がご自分の者を知っておられる
というテーマがある。
■ マラキ――「記憶の書」
そして、
私が、
特に興味深いと思うのが、
マラキ3章16節である。
そこでは、
主を恐れる者たちが、
互いに語り合う。
すると、
主は、
それを聞かれる。
そして、
主を恐れ、
その名を心に留める者たちのために、
「記憶の書」
が、
御前で記される。
ここが、
非常に美しい。
■ 神は「聞いておられた」
人間から見れば、
ただの会話かもしれない。
小さな集まりかもしれない。
歴史を動かすような、
大事件ではない。
しかし、
本文は言う。
主は耳を傾けて聞かれた。
そして、
記憶の書が、
記された。
人間が、
覚えていなくても。
社会が、
評価しなくても。
誰にも、
知られていなくても。
神は聞いておられる。
■ 「記憶の書」は、神の物忘れ防止ではない
もちろん、
神が、
忘れっぽいから、
帳面に書いておかなければならない、
という意味ではない。
聖書が、
人間にも理解できる形で、
神の記憶、
神の認識、
神の裁きの確かさを、
「書」というイメージで、
表している。
つまり、
神の前では忘れられていない。
それが、
重要なのである。
■ エゼキエル9章の嘆く者たちも、忘れられていない
ここで、
エゼキエル9章へ戻る。
町の中で、
嘆いている者たち。
彼らの名前は、
ここでは、
記録されていない。
私たちは、
彼らが、
誰だったのかを知らない。
何人いたのかも、
本文は教えていない。
しかし、
神は、
知っておられた。
そして、
亜麻布を着た者へ、
命じられた。
「その者たちの額に、しるしをつけよ。」
人間の歴史には、
名前が残らなくても、
神には、
誰なのかが、
分かっている。
■ イェシュアも「名前が記されている」ことを語られた
ルカ10章。
弟子たちが、
喜んで帰ってくる。
悪霊さえ、
自分たちに服従する。
それは、
彼らにとって、
大きな出来事だった。
しかし、
イェシュアは、
彼らの喜びの中心を、
修正される。
「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。」
これは、
非常に大切な言葉である。
■ 「何ができるか」より「誰のものか」
弟子たちは、
能力を見ていた。
悪霊が服従する。
奇跡が起こる。
働きが成功する。
しかし、
イェシュアは、
もっと根本へ、
視線を戻される。
あなたが何をできるかではない。
あなたの名が、どこに記されているのか。
これは、
今回の、
額のしるしのテーマとも、
よく響く。
■ 神の前では「肩書」より「名前」
牧師。
教師。
預言者。
神学者。
宣教師。
教会員。
安息日を守る者。
聖書を研究する者。
そういう肩書は、
人間社会では、
人を区別する。
しかし、
神の前で、
最後に重要なのは、
肩書ではない。
誰のものなのか。
そして、
神が、
その人を、
どう知っておられるのか。
■ 黙示録――「命の書」
そして、
聖書の最後、
黙示録へ行くと、
「書」のテーマは、
さらに大きくなる。
黙示録3章では、
「命の書」。
13章。
17章。
20章。
21章。
繰り返し、
命の書が、
登場する。
特に、
黙示録20章。
大きな白い御座。
死者たち。
そして、
数々の書物が開かれる。
さらに、
もう一つの書物、
命の書
が開かれる。
■ 最後の裁きにも「書」がある
これは、
非常に象徴的である。
人間の人生は、
消えていない。
忘れられていない。
誰にも知られなかったことも、
神には、
知られている。
人間の裁判では、
証拠が失われる。
記録が消える。
証人が死ぬ。
記憶が薄れる。
しかし、
神の裁きでは、
そうではない。
■ 神には「見落とし」がない
ここが、
エゼキエル9章と、
つながってくる。
エルサレム全体が、
裁かれようとしている。
しかし、
神は、
一人も、
見落とさない。
嘆いている者を、
知っておられる。
そして、
しるしをつける。
だから、
神の裁きは、
人間の集団心理とは違う。
「あの町の人間は全部同じ。」
「あの宗派は全部同じ。」
「あの民族は全部同じ。」
「あの教会は全部同じ。」
神は、
そんな雑な見方をされない。
一人一人を、
知っておられる。
■ これは慰めであり、同時に恐ろしい
それは、
大きな慰めである。
誰にも、
理解されなかった忠実さを、
神は知っておられる。
誰にも、
見られなかった涙を、
神は知っておられる。
誰にも、
聞かれなかった祈りを、
神は知っておられる。
しかし、
反対もある。
誰にも、
見つからなかった罪も、
神は知っておられる。
エゼキエル8章で、
長老たちは、
暗い部屋で、
こう考えていた。
「主はわれわれを見られない。」
しかし、
見ておられた。
■ 8章と9章は「見られている」という点でもつながっている
これは、
非常に面白い。
8章では、
人間が、
こう考える。
「神は見ていない。」
しかし、
神は、
隠された偶像礼拝を、
エゼキエルへ見せる。
そして、
9章では、
神は、
人間には見えない、
嘆く者たち
まで、
見分けられる。
つまり、
神は、
隠れた悪だけを、
見ておられるのではない。
隠れた忠実さも、見ておられる。
■ 神は悪だけを記録しているのではない
「神の記録」
と聞くと、
怖く感じるかもしれない。
罪のリスト。
失敗の記録。
裁判資料。
しかし、
マラキ3章を見ると、
それだけではない。
神を恐れる者たちのために、
記憶の書
が記される。
つまり、
神は、
罪だけを数えておられる方ではない。
忠実さも、
知っておられる。
涙も、
知っておられる。
嘆きも、
知っておられる。
■ 人間が忘れた者を、神は忘れない
歴史には、
名前が残らない人がいる。
墓碑さえ、
残らない人がいる。
誰にも、
評価されなかった人がいる。
しかし、
聖書が語る、
神の記憶は、
人間の歴史書とは違う。
人間の歴史から、
消えても、
神の前から、
消えるとは限らない。
ここで、
前の「タウ400」の考察とも、
少し響き合う。
墓へ入っても、
約束は、
墓へ入らない。
人間から、
忘れられても、
神の記憶から、
消えるとは限らない。
■ 「書く」という行為の重さ
だから、
エゼキエル9章で、
亜麻布の者が、
腰に、
書記の道具を持っていることは、
興味深い。
もちろん、
その道具で、
命の書を書いている、
という意味ではない。
しかし、
裁きのただ中で、
「書くものを持つ者」
が登場する。
そして、
その者が、
神によって、
区別された者へ、
しるしを置く。
この姿から、
聖書全体に流れる、
「神は知っておられる」
というテーマへ、
目を向けることができる。
■ 「神は誰が誰なのかを知っておられる」
これが、
今回の中心かもしれない。
人間は、
間違える。
見た目で判断する。
肩書で判断する。
宗派で判断する。
所属で判断する。
噂で判断する。
しかし、
神は、
誰が誰なのかを、
知っておられる。
誰が、
本当に、
嘆いているのか。
誰が、
本当に、
神を恐れているのか。
誰が、
外側だけ、
宗教をまとっているのか。
神は、
知っておられる。
■ 「額のしるし」は、人間が自分で書くものではない
ここも、
非常に重要である。
エゼキエル9章の人々は、
自分で、
額へ、
しるしを書いていない。
「私は神の民です」
と、
自分でマークしているのではない。
神が、
命じられる。
亜麻布の者が、
つける。
だから、
究極的な区別は、
自己申告ではない。
■ 「私はクリスチャンです」だけでは終わらない
人間は、
自分で、
いろいろな名前をつける。
クリスチャン。
プロテスタント。
カトリック。
福音派。
安息日を守る者。
聖書信仰。
どの名称にも、
歴史や意味がある。
しかし、
エゼキエル9章が、
もっと深く問うのは、
そのラベルではない。
神は、私をどう知っておられるのか。
■ 神の前に記されるということ
モーセは、
神の書について語った。
詩篇は、
命の書について語った。
ダニエルは、
書に名を記された者について語った。
マラキは、
記憶の書について語った。
イェシュアは、
名が天に記されていることを語られた。
黙示録は、
命の書について語る。
これらすべてを、
一冊の同じ物理的な本だと、
単純に断定する必要はない。
それぞれの文脈を、
尊重しなければならない。
しかし、
一つの大きな聖書的テーマは、
確かに見えてくる。
神は、ご自分のものを知っておられる。
■ 神は「記録がないから分からない」とは言われない
人間社会では、
記録がなければ、
分からなくなる。
戸籍。
契約書。
名簿。
データベース。
墓碑。
歴史書。
それらが失われれば、
その人が、
存在したことさえ、
忘れられることがある。
しかし、
神は、
そうではない。
聖書の「書」は、
神が、
情報不足を補うためのものではない。
むしろ、
神の認識と裁きと記憶の確かさ
を、
人間に分かる言葉で、
示している。
■ エゼキエル9章の名もなき者たち
私は、
ここが、
非常に好きである。
エゼキエル9章で、
額にしるしを受けた者たち。
彼らの名前を、
私たちは知らない。
聖書には、
一人の名前も、
書かれていない。
しかし、
神は、
知っていた。
だから、
亜麻布の者は、
町の中を、
巡ることができた。
神にとって、
彼らは、
「その他大勢」
ではなかった。
■ 人間の本に名前がなくてもいい
これは、
信仰を生きる者にとって、
大きな慰めになる。
有名にならなくてもいい。
大きな働きを、
残さなくてもいい。
本を書かなくてもいい。
教会史に、
名前が残らなくてもいい。
人から、
「立派な信仰者だった」
と言われなくてもいい。
最終的に、
大切なのは、
神が知っておられること。
■ しかし、これは自己満足でもない
ただし、
ここで、
「神は私の心を知っているから、
外側の行いはどうでもいい」
という方向へ、
行ってはいけない。
エゼキエル9章で、
神が見ておられる心は、
実際に、
嘆き
として現れている。
聖書では、
生きた信仰は、
実を結ぶ。
心と、
歩みを、
切り離すことはできない。
神が知っておられるからこそ、
外側の宗教だけでは、
ごまかせない。
■ 神は、私の何を記しておられるのか
だから、
この「墨つぼ」は、
私たちへ、
問いを返してくる。
私は、
人に、
どう記憶されたいのか。
そればかりを、
気にしていないだろうか。
SNS。
評価。
肩書。
実績。
宗教歴。
人間の記録。
しかし、
もっと大切なのは、
神の前で、
私は、
どう知られているのか。
■ 墨つぼから、命の書まで
エゼキエル9章の、
書記の道具。
出エジプト記の、
神の書。
詩篇の、
命の書。
ダニエルの、
名を記された書。
マラキの、
記憶の書。
ルカ福音書の、
天に記された名前。
黙示録の、
命の書。
これらを、
全部同じものだと、
言う必要はない。
しかし、
それぞれの場所から、
一つの声が、
聞こえてくる。
神は忘れない。
■ そして、神は区別される
エゼキエル9章で、
裁きが始まる。
しかし、
その前に、
神は、
書く道具を持つ者を、
町へ送られる。
誰が、
嘆いているのか。
誰が、
忌むべきことを、
当然のものとして、
受け入れていないのか。
神は、
知っておられる。
そして、
区別される。
だから、
私たちが、
獣の刻印を恐れる前に、
問うべきことは、
ここでも同じである。
私は、誰のものなのか。
そして、
もう一つ。
神は、私をどのように知っておられるのか。
人間が、
私を忘れてもいい。
歴史が、
私を忘れてもいい。
墓碑が、
消えてもいい。
名前が、
この世界から、
消えてもいい。
しかし、
神が、
知っておられる。
エゼキエル9章の、
名もなき者たちも、
そうだった。
誰も、
彼らの名前を知らない。
しかし、
神は、
その嘆きを知っておられた。
そして、
亜麻布を着た者へ、
命じられた。
「その額に、しるしをつけよ。」
神の前では、
一人一人が、
「その他大勢」ではない。
人間が忘れても、
神は忘れない。
人間には見えなくても、
神は見ておられる。
人間には区別できなくても、
神は区別される。
だから、
腰の墨つぼは、
ただの小道具ではない。
それは、
少なくとも私たちに、
一つの大きな問いを、
思い起こさせる。
人間の記録に、私はどう残るのか。
ではない。
もっと深く。
神の前で、私はどのように知られているのか。
そこへ、
私たちの視線を、
戻したい。
考察天の書記官エノクと、墨つぼを持つ者