📎補遺⑤
「主がおられるのに、私は知らなかった」
― 神の臨在は、人間が気づいた瞬間に始まったのではない ―
エマオへの道を考えていると、
旧約聖書のある場面が、
強く響いてくる。
ヤコブである。
彼は、
家を離れていた。
兄エサウとの関係は壊れ、
故郷を離れ、
一人で旅をしていた。
安心できる家もない。
家族もそばにいない。
目的地まではまだ遠い。
日が沈み、
彼はその場所で、
石を枕にして眠った。
人間の目から見れば、
特別な場所ではない。
神殿でもない。
祭壇でもない。
聖なる町でもない。
ただの旅の途中。
ただの荒野。
ただの夜。
しかし、
その夜、
ヤコブは夢を見る。
■ 地から天へ伸びるはしご
夢の中で、
地に立てられたはしごがあり、
その頂は天に達していた。
そして、
神の使いたちが、
その上を上り下りしていた。
(創世記28:12参照)
さらに、
主がヤコブに語られる。
アブラハムとイサクに与えられた約束。
土地。
子孫。
祝福。
そして、
何よりも、
非常に大切な言葉が与えられる。
「見よ、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。」(創世記28:15参照)
ヤコブは、
一人だと思っていたかもしれない。
しかし、
神は言われる。
「わたしはあなたと共にいる。」
■ そして目覚めたヤコブは言った
ヤコブは、
眠りから覚める。
そして、
こう言った。
「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。」(創世記28:16)
この言葉は、
「隠されていた神」というテーマに、
非常に深く響く。
ヤコブが気づいたから、
神がそこへ来られたのではない。
神は、
すでにそこにおられた。
しかし、
ヤコブが、
それを知らなかった。
■ 「知らなかった」
ここが、
今回の核心である。
ヤコブは、
「主は今ここへ来られた」
とは言わない。
「おられるのに、私は知らなかった。」
つまり、
問題は、
神の存在ではない。
ヤコブの認識だった。
これは、
エマオの二人と同じである。
イェシュアは、
すでに隣を歩いておられた。
しかし、
彼らは知らなかった。
ヤコブも、
すでに神の臨在の中にいた。
しかし、
知らなかった。
■ 荒野でも神はおられる
ヤコブがいた場所は、
人間的には、
何もない場所だった。
しかし、
神は、
そこで御自身を現された。
これは、
非常に重要である。
人間は、
神を、
特別な場所だけに限定しやすい。
神殿。
礼拝堂。
聖地。
宗教的な空間。
しかし、
ヤコブが神に出会ったのは、
旅の途中の荒野だった。
■ 「神の家」と呼ばれた場所
目覚めたヤコブは言う。
「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ。」(創世記28:17参照)
そして、
その場所を、
ベテル
と名付ける。
ベテルとは、
「神の家」
という意味である。
しかし、
面白いことがある。
そこに、
建物はなかった。
壁もない。
屋根もない。
祭司もいない。
聖所もない。
それでも、
ヤコブは、
そこを、
「神の家」と呼んだ。
■ 神の家とは何か
これは、
私たちの「神の家」という感覚を、
問い直す。
建物があるから、
神がおられるのだろうか。
それとも、
神がおられるから、
そこが神の家になるのだろうか。
ヤコブの体験では、
明らかに後者である。
まず、
神の臨在がある。
そして、
人間が気づく。
その場所が、
聖なる場所として認識される。
■ 聖なる場所が神を閉じ込めるのではない
人間は、
聖なる場所を作る。
しかし、
神は、
人間が作った場所の中に、
閉じ込められる方ではない。
ソロモンも、
神殿奉献の時に言った。
「天も、いと高き天も、あなたをいれることができません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。」(列王記上8:27参照)
神殿は、
神を収納する箱ではない。
神が、
御名を置かれ、
御臨在を示される場所である。
この違いは、
とても大きい。
■ 第8回のテーマとつながる
ここまで、
私たちは、
何度も見てきた。
人間は、
神を、
遠くに探す。
空の上。
宇宙の彼方。
特別な奇跡。
宗教的な場所。
しかし、
聖書は、
不思議なことを語る。
神は、
人間の予想より、
もっと近い。
ヤコブの荒野。
エマオへの道。
マリヤの墓のそば。
ガリラヤ湖の岸。
ベツレヘムの飼葉桶。
ナザレの大工。
罪人の食卓。
十字架。
神は、
人間が、
「ここにはいないだろう」
と思う場所に、
御自身を隠すようにして現されることがある。
■ 神は、ヤコブが正しかったから現れたのか
ここも、
大事なところである。
この時のヤコブは、
決して、
完成された信仰者ではなかった。
父イサクを欺き、
兄エサウの祝福を得て、
その結果、
逃げるように家を出た。
もちろん、
ヤコブの物語全体には、
複雑な背景がある。
しかし少なくとも、
創世記28章のヤコブは、
「神に十分ふさわしい人間だったから、
神が現れた」
という単純な物語ではない。
■ 逃げている途中にも神は来られる
むしろ、
ヤコブは、
逃げている。
人生が、
順調な時ではない。
家族関係も壊れている。
将来も見えない。
その途中で、
神は言われる。
「わたしはあなたと共にいる。」
これは、
福音的でもある。
人が、
神のところまで完全に登っていったから、
神が会ってくださるのではない。
神の方から、
人間のところへ来られる。
■ ヤコブのはしごとイェシュア
ここで、
さらに重要なつながりがある。
ヨハネ1章で、
イェシュアはナタナエルに言われた。
「天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ1:51参照)
これは、
創世記28章のヤコブのはしごを、
明らかに思わせる。
ヤコブの夢では、
地と天が、
はしごによってつながっていた。
しかし、
ヨハネ福音書では、
御使いたちは、
「人の子の上に」
上り下りする。
■ はしごそのものがイェシュアなのか
ここは、
類型的に読むなら、
非常に重要である。
創世記のはしごは、
地と天をつないでいた。
そして、
ヨハネでは、
その構図が、
イェシュア御自身へ重ねられる。
つまり、
イェシュアこそ、
天と地をつなぐ方
として示されている、
と考えることができる。
これは、
ヨハネ14:6の、
「わたしは道であり、真理であり、命である。」
という言葉とも響き合う。
■ 人間が天へ登るのではない
ここには、
第8回で何度も見てきた、
福音の方向性がある。
宗教というものを、
人間が神のところまで登っていく運動として考えることがある。
しかし聖書は、
逆方向を示す。
神が、
人間のところへ来られる。
ヤコブの夢でも、
天と地は、
神の側から開かれる。
そして、
イェシュアにおいて、
「言は肉体となって、
私たちの間に宿った。」
神の方から、
降りて来られた。
■ 「天の門」はどこにあるのか
ヤコブは、
その場所を、
「天の門」
と呼んだ。
しかし、
新約聖書では、
その意味が、
一人の方へ集中していく。
イェシュアは言われる。
「わたしは門である。」(ヨハネ10:9参照)
もちろん、
創世記28:17とヨハネ10:9を、
直接同じ意味だと断定するべきではない。
しかし、
聖書全体の流れとして見るなら、
神へ至る入口は、
最終的に、
場所ではなく、
イェシュア御自身
に集約されていく。
■ ベテルからイェシュアへ
旧約では、
「ここは神の家だ。」
新約では、
「言は肉体となり、
私たちの間に幕屋を張られた。」
旧約では、
天と地をつなぐはしご。
新約では、
「人の子の上に、
御使いたちが上り下りする。」
旧約では、
「天の門。」
新約では、
「わたしは門である。」
こうして見ると、
ヤコブの体験は、
「神はどこにおられるのか」
という問いを、
イェシュアへ向けていくようにも見える。
■ 神は「場所」から「人」へ
これは、
今回のテーマでも、
非常に大きな転換である。
人間は、
神がおられる場所を探す。
しかし、
福音書では、
神の臨在が、
イェシュアという一人の方の中に、
人間のところまで来る。
だから、
ピリポに対して、
イェシュアは言われた。
「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14:9参照)
神は、
「どこにいるのか」
だけではなく、
「誰において御自身を現されたのか」
という問いへ、
私たちを導かれる。
■ 「神がおられる場所」と「神に気づく場所」
ここで、
一つ区別しておきたい。
神がおられる場所と、
人間が神に気づく場所は、
必ずしも同じタイミングではない。
ヤコブは、
眠る前から、
神の臨在の中にいた。
しかし、
目覚めた後に気づいた。
エマオの二人も、
道の途中から、
イェシュアと共にいた。
しかし、
食卓で、
目が開いた。
つまり、
臨在が先。
認識が後。
■ これは人生にも起こるのか
人生を振り返って、
後になって、
気づくことがある。
「あの時、
守られていたのかもしれない。」
「あの出会いには、
意味があったのかもしれない。」
「あの御言葉は、
この時のためだったのかもしれない。」
もちろん、
すべての出来事を、
簡単に、
「神がこうされた」
と断定すべきではない。
しかし、
御言葉の光の中で、
人生を振り返る時、
以前には見えなかったものが、
後から見えることがある。
■ 神の臨在は、感覚に依存しない
これも、
大切なことだと思う。
「神を感じる」
という経験は、
信仰生活の中で、
確かにある。
しかし、
感じない時に、
神がおられないとは限らない。
ヤコブは、
眠っていた。
何も感じていなかった。
それでも、
神はおられた。
エマオの二人も、
最初は気づかなかった。
それでも、
イェシュアはおられた。
だから、
信仰を、
感覚だけに置くことはできない。
■ 「感じない」と「いない」は違う
これは、
第6回の、
「神はなぜ沈黙されるのか」
ともつながる。
神の声を感じない。
祈りの答えが分からない。
神の働きが見えない。
その時、
私たちは、
すぐに、
「神はいない」
と結論づけてしまいやすい。
しかし、
聖書は、
その結論を急ぐな、
と言っているように見える。
沈黙と不在は、
同じではない。
見えないことと、
存在しないことも、
同じではない。
■ ヤコブは石を立てた
ヤコブは、
枕にしていた石を取り、
柱として立て、
その上に油を注いだ。
(創世記28:18参照)
それは、
記憶のしるしとなった。
「ここで神に出会った。」
人間は忘れる。
だから、
聖書には、
記念の石や、
祭壇や、
祭りや、
しるしが繰り返し現れる。
それは、
神をその物に閉じ込めるためではない。
神が何をされたかを忘れないため
である。
■ しかし、しるしそのものが神ではない
ここも、
非常に大事である。
ヤコブが立てた石が、
神なのではない。
場所そのものが、
神なのでもない。
神が、
そこで御自身を現された。
だから、
その場所が記念された。
この順番を逆にすると、
人間は、
しるしを偶像にしてしまう。
神の臨在を覚えるためのものが、
いつの間にか、
神の代わりになる。
■ 「隠される神」の本質
ここまで来ると、
「隠される神」という言葉も、
少し違って見えてくる。
神は、
何も示さず、
人間から逃げ回っている方なのだろうか。
ヤコブの物語では、
そうではない。
神は、
語っておられる。
約束しておられる。
共にいると言われる。
しかし、
ヤコブが、
それに気づいていなかった。
■ エマオとベテル
この二つの物語を、
並べてみる。
ヤコブ。
「主がおられるのに、私は知らなかった。」
エマオの二人。
イェシュアが隣を歩いておられるのに、彼らは分からなかった。
そして、
両方とも、
ある時、
認識が変わる。
ヤコブは、
夢から覚める。
エマオの二人は、
目が開かれる。
そこで、
初めて、
すでに存在していた現実が見える。
■ 神が来たのではない
この共通点は、
非常に重要である。
ヤコブが目覚めた瞬間に、
神が初めて来られたのではない。
弟子たちの目が開いた瞬間に、
イェシュアが初めて来られたのでもない。
神は、すでにおられた。
人間の側が、
後から気づいた。
🔥「主がおられるのに、私は知らなかった」
この言葉は、
ヤコブだけの告白なのだろうか。
もしかすると、
これは、
多くの人が、
いつか口にする言葉なのかもしれない。
神を探していた。
答えを探していた。
意味を探していた。
空を見上げた。
遠くを探した。
奇跡を求めた。
証拠を求めた。
しかし、
後になって、
気づく。
「主がおられるのに、私は知らなかった。」
御言葉の中に。
人との出会いの中に。
悔い改めへ導く声の中に。
自分を止めた警告の中に。
荒野の中に。
涙の中に。
そして何より、
イェシュアにおいて。
神は、
人間が気づいた瞬間に、
存在し始める方ではない。
人間が知らない時にも、
神は神である。
人間が見えない時にも、
神はおられる。
人間が聞こえない時にも、
御言葉は語られている。
だから、
私たちは、
ヤコブの言葉を、
自分自身の問いとして受け取りたい。
「私は、神がおられないと言っているのか。
それとも、まだ気づいていないだけなのか。」
そして、
もし目が開かれるなら、
私たちも、
いつか言うのかもしれない。
「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。」
それは、
神が、
突然現れた瞬間ではない。
ずっとそこにおられた方に、ようやく気づいた瞬間なのである。