補遺追記――恋なすびと「神以外のものに期待する心」 | Truth Hawkのblog

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補遺追記――恋なすびと「神以外のものに期待する心」


ラケルが父ラバンのテラフィムを持ち出した出来事を考える時、もう一つ思い起こされる場面がある。

それは創世記30章に記された、
「恋なすび」
の出来事である。

ラケルには長い間、子が与えられなかった。

姉レアには次々と子が生まれていく。

その状況の中で、ラケルは深い苦しみを抱えていた。

彼女はヤコブに、
「わたしに子をください。さもないと、わたしは死にます。」
とまで言っている。

この言葉からも、不妊という問題がラケルにとってどれほど大きな苦しみであったかが分かる。

そして、その後に「恋なすび」が登場する。

レアの子ルベンが野で恋なすびを見つけ、それを母レアのところへ持って来た。

するとラケルはレアに、
「あなたの子の恋なすびを、どうかわたしにください」
と願った。

なぜラケルはこれほど恋なすびを欲しがったのだろうか。

古代近東においてマンドレイク、すなわち恋なすびは、性愛や受胎、多産と結びつけられていた植物として知られていた。

もちろん聖書本文は、
「ラケルは恋なすびを食べれば妊娠できると信じていた」
と明言してはいない。

だから、そこまで断定することはできない。

しかし少なくとも、
不妊に苦しむラケルが、当時受胎と結びつけられていた植物を強く求めている。

この組み合わせには、考えさせられるものがある。

■ テラフィムと恋なすびに共通するもの

ここで、父ラバンのテラフィムを持ち出した出来事と並べてみる。

一方には、
偶像。

もう一方には、
受胎と結びつけられた植物。

もちろん両者は同じものではない。

恋なすびそのものが偶像なのでもない。

しかし共通して見えてくる可能性がある。

それは、
「神以外の何かに期待を置く心」
である。

人は苦しみが長引くほど、
目に見えない神を待つことが難しくなる。

すると、
目に見えるもの。
手でつかめるもの。

昔から効くと言われているもの。

人々が信じているもの。

そうしたものへ心が引かれていく。

それは現代で言えば、
単なる道具や治療法を用いることとは違う。

問題は、
そのものに「神に代わる力」を期待し始めること
である。

そこから迷信と偶像礼拝は近づいていく。

■ しかし、恋なすびでは胎は開かれなかった

そして創世記は、非常に重要な形でこの物語を締めくくる。

ラケルが恋なすびを手に入れた後、
すぐに、
「恋なすびによってラケルが妊娠した」
とは書かれていない。

むしろ後になって、創世記30:22はこう語る。

「神はラケルを覚え、彼女の願いを聞き、その胎を開かれた。」

ここが非常に重要である。

胎を開いたのは、
恋なすびではない。

テラフィムでもない。
人間の知恵でもない。

神である。

聖書は最後に、原因を明確に神へ戻している。

■ 「手段」と「依り頼むもの」は違う

ここで一つ区別しておきたい。

聖書は、
薬を使うこと。
医者にかかること。
植物を利用すること。
知識や技術を使うこと。

そのような「手段」そのものを否定しているわけではない。

問題は、
手段を神の位置に置くこと
である。

神が与えられたものを用いることと、
そのもの自体に救いや力を求めることは違う。

ここを混同すると、
いつの間にか、
「使っているだけだったもの」が、
「依り頼む対象」
に変わってしまう。

そしてそこに、
偶像化の入口が生まれる。

■ ラケルの物語から見える警告

ラケルの物語を一つの流れとして見るなら、
非常に興味深い。

彼女は不妊に苦しむ。

恋なすびを求める。

その後、父の家からテラフィムを持ち出す。

そしてそのテラフィムを、
鞍の下に隠す。

これらを一つの直接的因果関係として結ぶことはできない。

しかし、
「神以外のものに力を期待する危うさ」
という視点で並べてみると、一つの警告として響いてくる。

人は苦しみの中で、
神を待てなくなることがある。

すると、

迷信。
習慣。
占い。
縁起。
物。
人。
制度。

それらへ少しずつ期待を移していく。

そして最初は
「助けになるかもしれない」と思っていたものが、
いつしか、
「これがなければならない」
という位置へ上がってしまう。

そこに偶像化が始まる。

■ 神はラケルを「覚えられた」

しかし聖書は、
ラケルの失敗だけを語って終わらない。

最後に、
「神はラケルを覚えられた。」
と記す。

ラケルが完全だったからではない。

正しい方法だけを選び続けたからでもない。

それでも神は、
彼女の声を聞き、
胎を開かれた。

ここにも福音がある。

人は遠回りする。

神以外のものへ心を向けることもある。

しかし本当の命を与えるのは、
最後まで神である。

だからラケルの物語は、
単に「迷信を使った女」という話ではなく、
人間が目に見えるものへ頼りたくなる弱さと、それでも最終的に命を与える神
を対比しているようにも見える。

そしてそれは、
エゼキエル8章の偶像礼拝を読む時にも、
私たち自身へ突きつけられる問いとなる。

私は苦しみの中で、何に期待しているのか。

神を待てない時、何を
「代わり」に置いているのか。

偶像は、
必ずしも像の形で現れるとは限らない。

それは時に、
「これさえあれば大丈夫」
と思っている何かとして、
心の中に置かれているのかもしれない。

補遺 ラケルが隠したテラフィム