🔥第5回
「神は今も語られるのか」
― もし神が語っておられるなら、私たちはどうやってそれを知るのか ―
前回の学び⬇
「神様が本当にいるのなら、一度くらい話しかけてくれたらいいのに。」
そう思ったことのある人は、決して少なくないのではないだろうか。
神が目の前に現れて、
「私はここにいる。」
そう言ってくだされば、どれほど分かりやすいだろう。
しかし実際には、
空から声が聞こえるわけでもない。
天が開いて神の姿が見えるわけでもない。
だから人は思う。
「神は沈黙している。」
しかし、本当にそうなのだろうか。
もしかすると問題は、
神が語っておられないことではなく、私たちが「神の語り方」を知らないことにあるのかもしれない。
■ 聖書には「語られる神」がいる
聖書の最初には、
非常に印象的な言葉が繰り返される。
「神は言われた。」
そして世界が造られていく。
聖書の神は、
沈黙する偶像ではない。
語られる神である。
アブラハムを呼び、
モーセを呼び、
サムエルを呼び、
預言者たちを通して語り、
そして遂には、
イェシュアを通して人間の世界へ語りかけられた。
ヘブライ書はこう記している。
「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。」(ヘブル1:1-2)
重要なのは、
「いろいろな方法で」
というところである。
神の語りかけは、
一つの方法に限定されていない。
■ ① 聖書を通して語られる
神の声を知ろうとする時、
まず基準となるのは御言葉である。
聖書は、
何千年も前に書かれた文章である。
しかし不思議なことに、
同じ箇所を読んでも、
ある日突然、
まるで今の自分に向かって書かれたかのように迫ってくることがある。
昨日まで何とも思わなかった一節が、
苦しみの中で読むと、
まったく違う言葉として響く。
文字は変わっていない。
変わったのは、
読む者の置かれている場所である。
だから聖書は、
単なる古代文書として読むこともできる。
しかし信仰者にとっては、
今なお神を知るための基準となる御言葉なのである。
■ ② 良心を通して語られる
誰にも見られていない。
法律にも触れていない。
それでも心の中から、
「それは違う。」
という声がすることがある。
反対に、
自分には何の得にもならないのに、
「この人を助けなければ。」
と思うこともある。
聖書は、人間の心に刻まれたものについて語っている。
「律法の要求する事柄が、その心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心もいっしょになってあかしをしている。」(ローマ2:15)
もちろん、
良心=そのまま神の声
と単純化することはできない。
人の良心も、
育った環境や価値観によって影響を受けるからである。
だからこそ、
御言葉によって確かめる必要がある。
それでも、
人間の内側にある
「これは正しい」
「これは違う」という感覚について、
聖書は決して軽く扱ってはいない。
■ ③ 人との出会いを通して語られる
前回、
私たちは
「偶然という奇跡」について考えた。
ある人との出会い。
何気ない会話。
その時たまたま聞いた一言。
話した本人は、
数日後には忘れているかもしれない。
しかし聞いた人にとっては、
人生を変える一言になることがある。
聖書にも、
神が人を人のもとへ遣わされる場面が何度も登場する。
ピリポとエチオピアの宦官。
アナニヤとサウロ。
ペテロとコルネリオ。
神は、
人を通して人に触れられる。
だから、
私たちが誰かに出会った時、
その人自身を神にしてはいけない。
しかし同時に、
その人を通して何かを語っておられる可能性まで閉ざす必要もない。
■ ④ 聖霊によって導かれる
そして最も説明することが難しいのが、
聖霊の導きである。
「なぜか分からないけれど、こちらへ行くべきだと思った。」
「この人のために祈らなければならないと思った。」
「今、この言葉を伝えるべきだと強く感じた。」
聖書には、
そのような導きが繰り返し描かれている。
「御霊がピリポに『進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい』と言った。」(使徒8:29)
しかしここにも、
大切な注意が必要である。
「そう感じた」=「神が言われた」
とは限らない。
自分の願望かもしれない。
恐れかもしれない。
思い込みかもしれない。
だから聖書は、
「すべてのものを識別して、良いものを守り」(Ⅰテサロニケ5:21)
とも教えている。
神の導きを求めることと、
何でも神の声だと思い込むことは、
まったく違うのである。
■ では、どうやって見分けるのか
ここが非常に重要である。
誰かが、
「神様がこう言った。」
と言ったからといって、
それだけで信じる必要はない。
むしろ聖書は、
確かめることを勧めている。
ベレヤの人々は、
パウロの話でさえ、
「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。」(使徒17:11)
神の語りかけを求める人ほど、
御言葉によって確かめる必要がある。
その導きは、
イェシュアの教えと矛盾していないか。
愛へ向かわせるのか。
悔い改めへ向かわせるのか。
自分だけを偉くする方向へ向かっていないか。
恐怖によって人を支配しようとしていないか。
そして、
聖書全体の証言と一致しているのか。
「神が言った。」
という言葉ほど、
慎重に扱わなければならない言葉はないのかもしれない。
■ 神の声は、雷鳴とは限らない
預言者エリヤは、
神を求めて山に立った。
激しい風が吹いた。
しかし、
主は風の中にはおられなかった。
地震が起こった。
しかし、
主は地震の中にもおられなかった。
火が起こった。
しかし、
主は火の中にもおられなかった。
その後、
静かにささやく声があった。
(列王記上19:11-12)
私たちは、
神の声というものを、
あまりにも派手に想像しているのかもしれない。
しかし神は時として、
人生を揺さぶる雷鳴ではなく、
誰にも聞こえないほど静かなところで、
人の心に触れられる。
🔥「神は今も語られるのか」
私は、
語られると信じている。
しかし、
それは必ずしも、
耳に聞こえる声ではない。
御言葉を通して。
良心を通して。
人との出会いを通して。
聖霊の導きを通して。
そして時には、
沈黙そのものを通して。
神は、
人が想像するよりもずっと多くの方法で、
語りかけておられるのかもしれない。
問題は、
「神は語っておられるのか」だけではない。
もう一つの問いがある。
「私は、聞こうとしているだろうか。」
🌿今回の問い
もし今日、
ほんの少しでも、
「神様、本当におられるのですか。」
と思っているなら、
無理に何かを感じようとしなくていい。
特別な声を聞こうとしなくてもいい。
ただ、
こう祈ってみてほしい。
「神様。もしあなたが語っておられるのなら、私にも分かるようにしてください。」
そして、
少しだけ耳を澄ませてみる。
聖書を開いてみる。
自分の良心と向き合ってみる。
今日出会った人の言葉を思い返してみる。
なぜか心に残っていることを、
すぐに捨てずに考えてみる。
もしかすると、
あなたが初めて神を呼んだその瞬間より前から、
神はすでに、あなたを呼んでおられたのかもしれない。


