📎補遺 雌鹿の足と高き所――未来を先に歌う者
「主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる。」――ハバクク3:19
聖書には、不思議なほど「足」が登場する。
荒野を歩く足。
山を登る足。
敵を踏む足。
福音を携える足。
そしてハバククは最後に、
「神は、わたしの足を雌鹿の足のようにされる」
と歌った。
ここで重要なのは、神が「山をなくす」とは言われていないことである。
山はそこにある。
道は険しい。
谷は深い。
足を滑らせれば落ちるような場所を、なお歩かなければならない。
しかし神は、その山を取り除く代わりに、
その山を歩くことのできる「足」を与えられる。
これこそ、この歌に隠された信仰の姿ではないだろうか。
🦌 雌鹿の足
ハバクク3:19の「雌鹿」は、ヘブライ語で
אַיָּלוֹת(ayyālōt)
と記されている。
険しい山地を軽やかに進み、高い場所に立つ鹿の姿である。
人間には危険に見える岩場でも、鹿にはそこを進むための足が備えられている。
つまり問題なのは、
「山があること」ではない。
その山を歩くための足があるかどうかなのである。
神に従う歩みも同じなのかもしれない。
私たちは時として、
「この問題を取り除いてください」
「この苦難をなくしてください」
「平坦な道を与えてください」
と祈る。
もちろん、その祈り自体が間違っているわけではない。
しかし神の答えは時として、
「山をなくすこと」ではなく、「山を越えられる者に造り変えること」
なのではないだろうか。
🏔️ ダビデが歌った鹿
ところが、この「雌鹿の足」という言葉はハバククが最初に語ったものではない。
ダビデも歌っている。
「神はわたしの足を雌じかの足のようにされ、わたしを高い所に立たせ」――詩篇18:33
この歌は、ダビデが敵とサウルの手から救い出された時の歌である。
つまりダビデには、
すでに経験した救い
があった。
敵に追われた。
命を狙われた。
荒野を逃げた。
しかし神は彼を救われた。
だからダビデは振り返って歌うことができた。
「神は私の足を雌鹿のようにされた。」
これは言うならば、
過去を振り返る歌
である。
🔥 ハバククは未来を歌った
しかしハバククは違った。
彼の目の前にあったのは繁栄ではなかった。
いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木には実がなく、オリーブも実らず、畑には食物がなく、羊も牛もいなくなる。
何もない。
まだ問題は解決していない。
それどころか、これから国に大きな災いが来ようとしている。
それなのにハバククは言った。
「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。」
そしてダビデの歌を思わせる言葉を続ける。
「わたしの足を雌鹿の足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。」
ここに、ダビデとハバククの決定的な違いがある。
ダビデは、起こった救いを歌った。
ハバククは、まだ見ていない救いを歌った。
ダビデの歌が「証し」なら、
ハバククの歌は同時に、
「預言」
にもなっている。
👣 「立たせる」から「歩ませる」へ
さらに二つの御言葉を比較すると興味深い。
ダビデは、
「高い所に立たせる」
と歌った。
しかしハバククは、
「高い所を歩ませる」
と歌う。
ヘブライ語でも動詞が異なる。
ダビデは、
יַעֲמִידֵנִי――私を立たせる。
ハバククは、
יַדְרִכֵנִי――私を歩ませる、踏ませる。
同じ「雌鹿の足」。
同じ「高き所」。
しかし、
立つ者から、歩く者へ。
これは単なる言葉遊びとして断定すべきものではない。
しかし霊的な黙想として見るなら、非常に美しい。
神は人を高い場所へ連れて行くだけではない。
そこで歩む者へと造り変えられる。
信仰とは、一度山頂に立って終わるものではない。
その高き所を、
神から与えられた足で歩き続けること
なのである。
🎵 なぜ最後が「歌」なのか
そしてハバクク書は、不思議な言葉で終わる。
「指揮者へ。わたしの弦楽器によって。」
ハバクク3章は「祈り」として始まり、
途中に「セラ」が置かれ、
最後には演奏の指示まで記されている。
つまりハバククは、
未来の救いについて単に論じたのではない。
歌ったのである。
ここに信仰の奥義がある。
信仰とは、
「救われたから賛美する」
だけではない。
まだ何も変わっていなくても、
神が救われることを信じて先に歌うことがある。
目には荒野しか見えない。
しかし歌は約束の地を見ている。
目には山しか見えない。
しかし歌は、その山を歩く足が与えられることを知っている。
🦌 鹿という聖書の伏線
そして私たちはこれまでの学びの中で、「鹿」というモチーフに何度も出会ってきた。
山を登る動物。
荒野を走る動物。
高い所を歩く動物。
聖書に登場する動物の象徴を一つの意味だけに固定することはできない。
しかし御言葉の中で同じイメージが繰り返される時、それらを比較して読むことで新しい景色が見えてくることがある。
特にナフタリについて、ヤコブはこう預言した。
「ナフタリは放たれた雌じか、彼は美しい子じかを生む。」――創世記49:21
※訳によっては後半を「美しい言葉を出す」と訳す。
ここにも、
鹿と言葉
という組み合わせが現れる。
そして現在学んでいるトビトは、そのナフタリ族の人物として描かれている。
しかも物語の舞台は、
ニネベ。
ニネベと聞けば、もう一人の預言者を思い出す。
ヨナである。
ヨナはニネベへ御言葉を携えた。
そしてトビトは、ニネベのただ中で神への忠実を守ろうとした。
背景も時代も物語の目的も異なるため、これらを直接同一視することはできない。
しかし、
ナフタリ――鹿――言葉――ニネベ――預言
という聖書内のモチーフを並べて観察することはできる。
⏳ 過去から未来へ受け継がれる歌
そして再びダビデとハバククへ戻る。
ダビデが過去の救いを歌い、
ハバククが未来の救いを歌ったのなら、
一つの歌が時間を越えて受け継がれたようにも見える。
過去に働かれた神は、未来にも働かれる。
だから預言者は、
まだ見ていない未来について歌うことができる。
信仰とは、
何の根拠もなく未来を楽観することではない。
過去に働かれた神を知っているから、まだ見えない未来においても同じ神を信頼すること
なのである。
ダビデの証しが、
ハバククの預言になる。
そしてハバククの預言が、
後の時代を歩く者の歌になる。
🎸 山は消えなくてもいい
だから最後に、この御言葉をもう一度読む。
「主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。」
もしかすると私たちは、
山がなくなることばかり祈ってきたのかもしれない。
しかし主が与えようとしておられるものは、
平坦な道ではなく、
雌鹿の足
なのかもしれない。
山があるからこそ、
その足が何のために与えられたのかが分かる。
険しい時代だからこそ、
神によって歩く者の姿が現れる。
そしてまだ救いが見えないなら――
ハバククのように、先に歌えばいい。
ダビデを救われた神は変わらない。
過去を支配された神は、
未来をも支配しておられる。
だから信仰者は、
未来が見えてから歌うのではない。
まだ見えない未来に向かって、神から与えられた雌鹿の足で歩きながら歌うのである。
そしてその歌の最後には、こう記されている。
「指揮者へ。弦楽器によって。」
山の上にも、
歌は響く。
