【7-3】油による聖別 ― 神のために取り分けられた者
聖書において、「油」は特別な意味を持つ。
それは料理に使う油ではない。
神のために聖別するための油である。
旧約聖書では、王も、祭司も、預言者も、油を注がれてその務めへ任命された。
油が注がれるということは、
「この者は神のものとなった。」
というしるしでもあった。
つまり油注ぎとは、能力を与えること以上に、神へ取り分けられることを意味していたのである。
幕屋の器具にも油が注がれた。
祭壇にも。
契約の箱にも。
祭司にも。
それらはすべて、
「神のため」に聖別された。
聖別とは、特別な人になることではない。
神のために用いられる者となることである。
新約聖書においても、この油注ぎは重要な意味を持つ。
イェシュアは、
「油を注がれた者(メシア・キリスト)」として来られた。
そして御霊によって満たされ、御父から遣わされた。
私たちもまた、自分のためだけに生きる者ではなく、神のものとして招かれている。
だから聖別とは、
「この世から逃げること」ではない。
この世の中にあっても、神のために生きることである。
断食にも、この聖別の働きがある。
断食によって神へ近づく時、人は少しずつ、自分中心の歩みから神中心の歩みへと導かれていく。
自分の願いよりも、神の御心を求めるようになる。
自分の栄光よりも、神の栄光を願うようになる。
それが、聖別の始まりである。
油は、器へ注がれる。
しかし、器そのものが目的ではない。
器は、その中に注がれたものを運ぶために用いられる。
同じように、私たちも神の恵みを受けるだけで終わるのではなく、その恵みを人へ届ける器として召されている。
だから神は、私たちを油注ぎによって高くするためではなく、仕える者とするために整えてくださる。
イェシュアご自身がそうであられた。
最も大いなるお方が、最も低くなられた。
最も大きな権威を持ちながら、人々の足を洗われた。
それが、神の国における油注ぎの姿である。
火によって精錬され、
水によって洗われ、
油によって聖別される。
神はこのような歩みを通して、ご自身の民を少しずつキリストの似姿へと造り変えておられる。
断食とは、その聖別の恵みに、自らを静かに委ねる時でもある。
「主よ、この身をあなたのために用いてください。」
その祈りこそ、油注がれた者の歩みの始まりなのである。
