【3-4】聖餐 ― 主を覚える食卓
イェシュアが十字架にかかられる前の夜、弟子たちと最後の食事を共にされた。
その席でイェシュアはパンを取り、感謝をささげ、それを裂いて弟子たちに与えられた。
さらに杯を取り、
「これは、多くの人のために流される、契約の血である。」
と語られた。
この食卓は、後に「聖餐」と呼ばれるようになった。
聖書を見ると、この食事の中心にあるのは、
「主を覚える」ということである。
パンを見つめることでも、杯そのものを見ることでもない。
十字架へ向かわれるイェシュアを覚え、その恵みに感謝することである。
イェシュアは、ご自身を命のパンと呼ばれた。
そして、ご自身の体が裂かれ、血が流されることによって、多くの人に命が与えられる道を開かれた。
パンと杯は、その救いの御業を思い起こさせる、尊いしるしとなったのである。
使徒たちは、その後も共に集まり、パンを裂き、祈り、交わりを続けた。
そこには喜びがあり、感謝があり、主への信頼があった。
このことから、聖餐は単なる宗教的な儀式ではなく、主との交わり、そして主にある兄弟姉妹との交わりを表す食卓であることが分かる。
だからこそ、パウロはコリントの教会に対して、自らを吟味するよう勧めた。
それは、「完全な人だけがこの食卓に着くことができる」という意味ではない。
むしろ、自分の罪を認め、主の憐れみによって生かされていることを覚え、へりくだって主の前に立つよう招いているのである。
この視点から見るなら、断食と聖餐は互いに対立するものではない。
断食は、自らの心を静め、神を第一とすることを学ぶ営みである。
聖餐は、その神が与えてくださった救いを感謝して受け取る営みである。
どちらも、その中心におられるのはイェシュア・キリストである。
もしパンだけが残り、キリストがおられないなら、それはただの食事になってしまう。
もし杯だけが残り、感謝が失われるなら、それはただの形式になってしまう。
しかし、イェシュアを覚え、その恵みに感謝する時、ありふれたパンと杯は、私たちの心を十字架へと向ける尊いしるしとなる。
聖餐の価値は、儀式そのものにあるのではない。
私たちのためにご自身を与えてくださった主を覚え、その愛と救いにあずかる交わりにある。
だから今日も私たちは、パンを見るのではなく、そのパンが指し示すお方を見上げたい。
杯を見るのではなく、その杯が語る契約の恵みを心に刻みたい。
そして、命のパンであるイェシュアと共に歩む者として、日々新しく神の恵みに生かされる歩みを続けていきたいのである。
📎補遺 過越の食事から聖餐へ
聖餐は、新約聖書になって突然始まった新しい儀式ではない。
その背景には、出エジプトの夜に定められた「過越」の食事がある。
イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんでいた。
その時、神は小羊をほふり、その血を家の門柱とかもいに塗るよう命じられた。
その夜、裁きは血のしるしのある家を「過ぎ越し」、神はご自身の民をエジプトから救い出された。
この出来事を忘れないために、イスラエルは毎年、過越の祭りを祝い続けた。
その食卓には、いくつもの象徴があった。
過越の小羊は、血による救いを思い起こさせた。
種なしパンは、急いでエジプトを出たことを記念するとともに、パン種を取り除くことから、罪や古い生活を離れることも思い起こさせる。
苦菜は、エジプトでの苦い奴隷生活を忘れないためのしるしであった。
つまり過越の食卓は、「神が救ってくださった」という恵みを世代を超えて語り継ぐ食卓だったのである。
そしてイェシュアは、その過越の食事の席で、パンを取り、杯を取り、新しい意味を弟子たちへ示された。
パンを裂き、
「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。」
と言われ、
杯を取り、
「これは、多くの人のために流される契約の血である。」
と語られた。
イェシュアは過越を否定されたのではない。
ご自身によって、その深い意味を明らかにされたのである。
これまで小羊が指し示していたものは、ご自身であった。
これまで流されてきた血は、ご自身の十字架を指し示していた。
これまで繰り返し祝われてきた食卓は、ご自身による救いへと人々の目を向けるための備えであった。
この意味で、聖餐は過越と切り離されたものではない。
過越に込められていた神の救いの御計画が、イェシュアにおいて成就へと向かう、その記念なのである。
そして、その救いはエジプトという一つの国からの解放だけでは終わらない。
イェシュアは、罪と死の支配から人を解放するために、ご自身を過越の小羊としてささげられた。
だから今日も私たちは、パンと杯を見るたびに、遠い昔の出来事だけを思い起こすのではない。
神が昔イスラエルを救い出されたように、今もキリストによって人を救い出してくださることを覚えるのである。
過越の夜から始まった神の救いの物語は、十字架で終わったのではない。
復活されたイェシュアによって、今もなお、その恵みは世界中の人々へと語り継がれている。
だから聖餐は、過去を懐かしむためだけの食卓ではない。
救いを成し遂げられた主を覚え、再び来られるその日を待ち望む、希望の食卓なのである。