補遺:不義は命を最後まで生かすことができない
エゼキエルは厳しく語る。
「その不義のために、だれも命を全うすることはできない。」
この言葉は、単に寿命が短くなるという意味だけではないように思える。
聖書が語る「命」とは、
ただ息をしていることではなく、
神との交わりの中にある命である。
■ 不義とは何か
「不義」とは、
単なる犯罪だけを指す言葉ではない。
神が示された正しさから外れ、
自分の道を選び続ける歩みでもある。
それが積み重なる時、
人は少しずつ神から離れていく。
そして、その歩みは命そのものを蝕んでいく。
■ 当たり前になった不正
恐ろしいのは、
不義は一度では終わらないことである。
繰り返されるうちに、
やがて人は慣れてしまう。
「これくらいなら。」
「みんなやっている。」
「今の時代は仕方ない。」
そうして不正は、
いつしか社会の常識となっていく。
しかし神の基準は、
時代によって変わることはない。
■ 神が示される道
だから神は、
エゼキエルを通して警告された。
裁きは、
人を絶望させるためではない。
立ち止まり、
自分の歩みを見つめ直し、
神へ立ち返るためである。
もし悔い改める道がなければ、
神は何度も預言者を遣わされることもなかった。
■ 悔い改めという希望
エゼキエル書の厳しい言葉の奥には、
一つの願いがある。
それは、
「帰って来なさい。」
という神の招きである。
神は不義をそのままにはされない。
しかし同時に、
悔い改める者を拒まれることもない。
■ 結び
不義は、
命を完成へ導くことができない。
それは人を少しずつ神から遠ざけ、
やがて実を結ぶ。
だからこそ神は、
その実が熟し切る前に、
何度も警告を与えられる。
悔い改めとは、
神に裁かれる前に、
自ら神のもとへ帰る道である。
そしてその道は、
今もなお開かれている。
🔥最後の一撃
不義は人を生かしているように見えて、命を少しずつ蝕んでいく。しかし悔い改めは、神との交わりを回復し、命を本来あるべき姿へ導く。
この一節を読んで改めて感じるのは、エゼキエルが語っているのは単なる「刑罰」ではなく、
「命の源から離れ続けることの深刻さ」
なんやろな。
だからこそ神は何度も、
「あなたがたは、わたしが主であることを知るようになる」
と語られる。
その言葉の根底には、裁きだけではなく、立ち返って生きてほしいという神の願いが流れているように思う😌📜🔥