補遺命の本質とは何か | Truth Hawkのblog

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📜補遺
命の本質とは何か


私は時々思う。

人は何のために生きているのだろうか。

この問いは古くて、
そして新しい。

しかし現代社会を見ていると、
別の問いも見えてくる。

人はいつから、
命とお金を同じもののように考えるようになったのだろうか。


時は金なり


現代には有名な言葉がある。

「時は金なり」

確かにその通りである。

時間は貴重である。

人生は有限である。

しかし気付けば、
時間だけではなく、
命そのものまでお金に換算する社会になっている。

年収。
資産。
利益。
生産性。
効率。

いつしか人の価値まで、
数字で測ろうとする。


どれだけ持っているか


私は時々思う。

現代社会の成功とは、
どれだけ持っているかになっていないだろうか。

どれだけ稼いだか。
どれだけ資産があるか。
どれだけ大きな家か。
どれだけ有名か。

しかし聖書は別の問いを投げかける。

「あなたは何を得たか」
ではなく、

「あなたは何になったか」
である。


フィッシング詐欺の本質


前の補遺で見たように、
詐欺師は人の欲を利用する。

もっと欲しい。
もっと楽になりたい。
もっと得をしたい。
その欲に餌を付ける。

だから人は釣られる。

しかし私は思う。

サタンの誘惑もまた、
同じ問いを人へ投げているのかもしれない。

「もっと欲しくないか。」
「もっとなれるぞ。」
「もっと手に入るぞ。」

エデンの園もそうだった。

蛇はエバへ、
神のようになれると言った。

それは知識の問題ではなかった。

欲の問題だったのである。


命とは何か


ここで私は立ち止まる。

命とは何だろうか。
呼吸だろうか。
心臓の鼓動だろうか。
お金だろうか。
財産だろうか。

もし命がお金なら、
億万長者は永遠に生きられるはずである。

しかし現実は違う。

どれだけ持っていても、
死は訪れる。

どれだけ積み上げても、
最後には手放す。


最後に暴かれるもの


私は思う。

最後の審判で暴かれるのは、
人がどれだけ持っていたかではない。

何を愛していたかなのかもしれない。

神を愛したのか。

お金を愛したのか。
真理を愛したのか。
自分を愛したのか。

そこが明らかになる。

なぜなら人は、
口では何とでも言えるからである。

しかし人生そのものは嘘をつかない。

時間の使い方。
お金の使い方。

考えていること。
求めているもの。

それらが本当に愛しているものを映し出す。


最後に


私は思う。

人はパンだけで生きるのではない。

それは単なる宗教的な言葉ではない。

命の本質を語る言葉なのである。

お金は大切である。

生活にも必要である。

しかしお金は命ではない。

命はもっと深いところにある。

そして最後の日、
人が本当に何を命としていたのかが、
全て明らかになるのかもしれない。