📜補遺
罪とは何か
多くの人は、
罪と聞くと悪い行いを思い浮かべる。
盗み。
嘘。
暴力。
裏切り。
確かにそれらは罪である。
しかし私は思う。
それらは罪の実であって、
罪の根ではないのではないかと。
的外れ
新約聖書で使われる
「罪」
という言葉は、
本来
的を外す
という意味を持つ。
弓を放つ。
しかし矢が的を外れる。
これが罪である。
では、
その的とは何だろうか。
人間の罪
エデンの園で、
アダムとエバが犯した罪。
それは果実を食べたことだったのだろうか。
私はそれだけではないと思う。
神は語られた。
「食べてはならない」
しかし人は別の声を信じた。
神の言葉よりも、
自分の判断を選んだ。
つまり、
神から離れたのである。
だから私は思う。
人間にとっての罪とは、
単なる行動ではなく、
神から離れることなのかもしれない。
サタンの罪
ではサタンはどうだったのだろう。
ここで興味深い違いが見えてくる。
アダムとエバは、
神から離れた。
しかしサタンは、
さらにその先へ進んだ。
サタンは、
神の座を求めた。
導かれる者ではなく、
支配する者になろうとした。
従う者ではなく、
中心に座る者になろうとした。
自我と偶像
ここで、
第二章のテーマへ戻る。
神のようになろうとする心。
自我の誕生。
偶像崇拝。
これらは別々の話ではない。
一本の線で繋がっている。
神が中心なのか。
私が中心なのか。
その問いである。
偶像とは、
木や石ではない。
神の代わりに中心へ置かれるもの全てである。
金。
権力。
思想。
宗教。
名誉。
そして時には、
自分自身である。
王座の問題
私は思う。
罪の本質とは、
行動の問題だけではない。
王座の問題である。
本来、
神がおられる場所へ、
別のものを座らせること。
それが偶像である。
それが自我である。
そしてそれが、
罪の根なのかもしれない。
的はどこにあるのか
だから罪を考える時、
私はこう考える。
問題は何本矢を放ったかではない。
問題は、
どこを狙っているかである。
神を向いているのか。
自分を向いているのか。
作者を見ているのか。
自分の物語だけを見ているのか。
その違いが、
的中と的外れを分ける。
最後に
エデンの園で始まった物語。
サタンの反逆。
人類の堕落。
偶像崇拝。
自我。
それらは別々の話ではない。
全ては、
誰が王座に座るのかという問いへ繋がっている。
そして私は思う。
罪とは単なる悪事ではない。
神から離れることであり、
やがて自分自身を神の座へ置こうとすることである。
その時、
人は的を外す。
そしてその的とは、
最初から変わることなく、
神ご自身なのである。
