ふるさとの網干を、ぶらぶら街歩きを始めたきっかけに、
詳しく知らなかった加藤家の歴史を、知ることができました。
見学をしたことはないのですが、加藤家の屋敷の中には、
鶴亀の庭があって、インド更紗の襖や立派な欄間があり、
勝海舟や、山岡鉄舟直筆の扁額等が掲げてあるそうです。
成田屋の屋号は享保17年(1732)に現れ、加藤の苗字は、
寛政2年(1790)以降に、使われ始められたと知りました。
明治38年92歳没の第9代高文氏と、第10代邦太郎氏の手記が、
古文書資料として、姫路市に委託されているそうです。
高文氏は明治6年飾磨県に勤務、地租改正の職務に携わり、
明治9年3月に退官して、著述業に専念されました。
国会図書館の所蔵書として、一部が保存されているそうです。
邦太郎氏は飾磨県会議員を務め、初代網干町長となりました。
加藤家の東、我が家の菩提寺でもある余子浜法専寺には、
加藤高文・邦太郎の両氏親子の墓が、あるそうです。
加藤家住宅の貴人門の前に、邦太郎氏の功績を顕彰する、
勝海舟が題額を揮毫した、『擷秀碑』が据えられています。
邦太郎氏が、水車営業組合頭取に17年間在任した徳を讃えて、
有志者の水車業者が、明治32年5月に建立した碑のようです。
建立に当たって、網干出身の元勤皇志士河野東馬に依頼し、
勝海舟の部下だった、海軍中将で播磨守護の傍流にあたる、
赤松則良経由で、当時の伯爵勝海舟に書いてもらったようです。
向かい側あたりにあったものを、移動したとも聞きます。