ふるさと網干は網を干すと書いて、あぼしと読みます。
太古の昔は、興浜村など網干南部は海中だったのですが、
長い年月を経て、揖保川の三角州に土が堆積するとともに、
遠浅の瀬戸内の海が徐々に後退して、海に向かって広がり、
田畑や家屋の土地として、利用されるようになっていったようです。
網干北部は古くから開発され、弥生の旨戸遺跡や条里遺構が残り、
魚吹神社の氏子28カ村と重なる、福井荘という荘園もありました。
魚吹八幡神社の北(朝日中学校の南側)辺りに条里制跡が残る
朝日中学校建設工事では、縄文土器や弥生遺跡が出土している
『網干の名前』の起こりは、魚吹八幡神社の由来によると、
養老4年(720)、魚吹八幡神社の放生会(ほうじょうえ)の式日に、
生き物の殺生を禁じ 氏子の漁師は『網を干して』社参したので、
あみほしまつりといい、近郷を網干と称したと言われています。
「放生会」とは、仏教の「殺生戒」を元とした宗教儀式のようで、
大分宇佐神宮にならって、始まったと考えられています。
魚吹八幡神社が、京都石清水八幡の別宮だったためか、
幕末までは、『石清水放生会』と呼んでいたようです。
明治19年頃に修繕され、現在の形は平成の初めです。
タイ国に旅行した際、徳を積むための「タムブン」という、
お経を唱えながら、魚や鳥を逃がす人たちが多くいました。
起源は古く、広範囲に行われた宗教行為かも知れません。
タイ・チェンマイでお経を唱えながら、魚を逃がす若者です。
以前紹介した、興浜村の大覚寺の亀のいた池も「放生池」です。
網干とは、殺生をしないと同義語というのは考えすぎでしょうか。