冠光寺流は柔術を名乗っています。
柔術、つまり素手で相手を組み伏せる技術体系。
では護身術として使えるのでしょうか…
当流の導き合いの形稽古で愛魂合気を実感できるようになったら、護身術として使えるのでしょうか?
答えは二通り。
①はい、可能です。
東京本部道場の解説に、
冠光寺眞法(コミュニタ、 Comunitat)に基づく護身技術…
物理法則に裏づけられた力学技法をも加味した斬新な柔術体系…
…合気に似た効果を生み出すことで、筋力や運動能力に劣る者が優る者を制することができる…
と掲示されています。
制することができる、と。
これはつまり、愛魂≒合気が出来れば可能だということでしょう。
実際のところ保江先生は、本気で潰しに来た空手家の炭粉さんに対処した。
その師匠が作った技術体系を修得しているから、自分も同じようにできるはず!(※)…わけない。
(※)炭粉さんも畑村さん(氣空術)も、冠光寺流の形稽古では本気の打撃を出してなかった。そもそもの彼らの目的は愛魂を学ぶことなので当たり前だったと思います。そんな設定された条件下で対処できるから妙な自信を持つとか、普通はそんな無謀な考え抱くわけない…はず。
大前提があります。愛魂ができるかどうか。
似たようなケースはかの傑作【北斗の拳 武論尊(原作)原哲夫(作画)©集英社】
のエピソードでみることがあります。
暴力が支配する世紀末を無抵抗主義で生き抜く村長は、笑顔で世紀末覇者ラオウに説きました。
しかしラオウは、その無抵抗は意志を放棄した媚へつらいであると喝破してしまう。
ここで笑えたかどうか…そこが分水嶺だったのでした(;´д`)
愛魂もまったく同様なのであります。
さて次の答え、
②いいえ、使えません。
護身術として使えるかどうか、それは対応できる技術が備わっているかどうかになります。
身を護る。
胸倉掴まれ凄まれる…うしろから抱きつかれる…腕肩掴まれ連れ去られそうになる…殴られそうに…蹴られそうに…
と、あらゆる想定下のときに如何に対処するか。
そもそも圧倒的な力と体格の差があったらどうなるのか…反撃して相手が逆上しさらに暴力的(*)になったら…
(*)躊躇することなく暴力を奮う輩が、体格に恵まれ格闘術に励んでいることも多い。
いかがでしょうか。
柔道、空手、ブラジリアン柔術、総合格闘技などを地道に真摯に学び続けるしかない?
冠光寺流柔術の形は十数手のみであり、そもそもが愛魂を学ぶために制定された形。
具体的な状況下での柔術稽古ではありますが、実践的なテクニックではありません。
そもそもが人を制することを目的としていません(形で結果としては制しますが、導き合いが目的)。
身を護りたいと願うのは、ほとんどが心優しき善き人々でしょう。
不安に駆られ具体的に考えても、キリがなくてそこには希望がありません。
ではどうしたらいいのでしょうか。
危急の事情で身を護るべき技術を身に付ける目的なら、当流は役に立たないでしょう。
①の立場だとしても、そもそも私達は保江先生とは違う。
②だとあきらめるしかない。
つまり①も②もあきらめるしかないという結果になる。
あきらめる…その完全放棄した先には何かあるのでしょうか?
保江先生が人生(命)を賭して世に問うた愛魂=合気、
それを私たちは十数手の形を稽古することで体感することができます。
そこで合気という古の秘伝の欠片に触れることができる…かもしれない。
そう。
それによって、あきらめの先にある何かに触れることができる…かもしれない。
机上の空論や夢想だけではなく、とりあえず実際に確認し続けることです。
争いから身を護る、闘うとなると、こういう世界を覚悟せないかんのです。
こんなガチな世界もいいけど、
こっちの究極同士でいいんじゃないかと、
というか二人と舞台と客席全部があるだけ。