FMシアター(ラジオドラマ)「春に散る」(前・後編) NHK-FM | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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単行本表紙


FMシアター「春に散る」(前・後編) NHK-FM
放送日 前編 2021/3/20  後編 3/17 番組
小説レビューはコチラ

原作    沢木耕太郎
脚色    原田裕文
音楽    谷川賢作

演出    小見山佳典
技術    西田俊和 山田顕隆
音響効果  野村知成

キャスト
広岡仁一(ジン)      篠田三郎 コメント
真田令子        真野響子 コメント
佐瀬健三(サセケン) 安原義人
藤原次郎(ジロー)    金井良信
星広(キッド)        阪田マサノブ
黒木翔吾         山木透
郡司(トレーナー)    松浦慎一郎
プロレス実況       ジャック・マルジ

感想
2015年に朝日新聞で連載されていた(あらすじはこちら
この放送をブロ友さんのところで知り、録音していた。
それをつい最近聴取。
若い頃世界に挑み、成し得なかった元ボクサー。

実業家として成功したものの満たされず老いて帰国。
ボクサー当時苦楽を共にした者との四人の共同生活の中で、才能ある若いボクサーを見出しその成長を見守る・・・

元々一年半続いた連載なので、二時間ドラマに圧縮するのはけっこう苦労だったろう。
かなりのエピソード割愛、整合のための設定変更等はあったが、まあうまくまとめてあった。
ただ「チャンプの家」は元々物件もので、不動産屋の社員 佳菜子がけっこう深く絡むのが小説だが、今回丸ごと削除されているのが少し残念。
スタッフに女性がいたら、内容も少し変わっていただろう(翔吾との恋愛も外さないだろうし・・・)

主人公の仁一は、国内戦で不当なジャッジを受けて負け、その反動から日本を出て世界に挑むも挫折。
そして日本に戻り、ひょんな事から指導する事になった若者、翔吾は逆に誤ったジャッジで勝たされたと思い、苦しむ。
「クロスカウンター」は我々の世代では「あしたのジョー」で、芯まで刷り込まれた「呪文」
ボクシングという、単純な殴り合いの奥に広がる深淵な世界。

新聞小説として一級品だったが、ラジオドラマでもいい余韻を残してくれた。
篠田三郎はもう一息(渋さを一振り)
真野響子はほぼイメージ通り。

適度な冷たさ(これにジビれる人生でもあった・・・)
オマケ
連載中は、年配女性からの反響が大きかったらしい。

コチラ(インタビュー)
年配の者たちが共感を持って読むことが出来る主人公の新聞小説があまりなかったせいか、と作者は分析している。


あらすじ
<前編> 3/20放送
ロスからマイアミを抜けてキーウェストを訪れた。
街のスポーツ・バーを訪れると、ボクシング中継を放送していた。
ウェルター級一位ジェイク・ミラーの相手はトシオ・ナカニシ。

ナカニシはチャンピオンと対戦するまでの「咬ませ犬」
昼の光景を思い出す。灯台の老夫婦。心のふるさとを語った。
俺のそういう場所はあるか。キューバ? 違う、日本だ。
もし彼が勝ったら日本に帰ろう。
厳しい戦いが続いた後、トシオ・ナカニシが勝利した。


それから二ケ月後、40年振りに帰国。まるで「浦島太郎」
会長の墓参りをした後は、やる事もない・・・行くだけ行くか。
東京西の郊外。19~26歳まで通った商店街。
会長が亡くなって15年。ある筈がない・・・
そこには--ビルが建っていた。5階建ての3階に・・・あった!
「真拳ジム」の看板。正式名称は「真田拳闘倶楽部」部屋の中に会長の写真が掛かっていた。
中ではスパーリングを行っている。声をかけられ、見学したいと言った。
会長は?と聞くと、お嬢さん、と言って奥に行く男。
「・・広岡君・・よね?」信じられない!と驚く女性。
一週間前に来たと答える。40年振り。

あれから一度も帰国していなかった。
仁一さん・・ですか?と先のトレーナー 郡司が聞く。
広岡仁一、藤原次郎、佐瀬健三、星広。

みんな強かったのに、どうして世界に届かなかったのか、というのが亡き会長の口ぐせだったという。

外に出ましょう、と言う彼女は会長の娘 令子。
多摩川沿いを歩くと、高一の時ここでデートしたのよ、と令子。

記憶がない。
大学生の時にハワイへ行ったが、仁一には会えなかったという。
「世界って遠いのね・・・」
他の三人の消息を聞く。
佐瀬君は山形。藤原君は・・二年の実刑で刑務所。
40年の空白は長すぎた。

令子に聞いた住所へ佐瀬を訪ねる。「サセケン!」
「ジンか!生きてたか」
その後の状況を聞く仁一。世界戦に負けて二年後に引退し、戻ってジムを開いたが人が集まらず、借金で閉めた。
農業はどうした?お嬢さんが米が届くと言ってたぞ。
借金で田んぼは手放した。米は農協で買って送っている・・・
おふくろがかけた年金で、今何とか暮している。
世界三位。チャンピオンにはなれず・・・
俺は生きてるか?死んでないだけじゃないのか・・・
仁一も自問。俺は生きているか?・・・

佐瀬から聞いた住所にキッドこと星広を訪ねる。
横浜の料理屋。休業の貼り紙。
「ジン!生きていたのか」入った部屋には小さな祭壇。

一ケ月前、妻が亡くなったという。入院三ヶ月で逝った。
女房がいなけりゃ店はしまい・・・
俺のところに来ないか、と言う仁一に「放っといてくれ・・」
俺にもそんな時期があった。野球で肩を壊して荒れた。

その時にお前に会い、打たれて気絶。
真拳ジムで生きる意味を見つけた。

令子と甲府刑務所を訪れる仁一。
仕切りパネルの向こうでジャブを繰り出し注意されるジロー。
勝手に日本を飛び出した、と言うジロー。
ハワイで1、ロスで4試合やった。負けたのは一回だけ。
バカな奴。会長は死ぬまで待っていた。
40年も心配かけやがって・・・でも良く帰って来た。
こんな再会もないもんだが。
2012年、ロンドンオリンピックでのモハメッド・アリのTV映像。

パーキンソン病の震える手で皆の前に出た。涙が出た。
その時に笑った客と揉めて事件になった。家族とも別れた。
ジンは? 結婚はしなかった。

令子が忘れられなかったのか?と茶化すジロー。
面会の終わり、ジローが呟く。
俺たち「元ボクサー」以外の道、あるかな・・・

店に入り、令子の話を聞く。息子が一人いるが、離婚して向こうに取られた。音大のあとピアニストを目指したが果たせず、30過ぎて結婚。
父が亡くなり、ジムを継ぐと言ったら反対され離婚になった。
仁一は、ボクシングを辞めた後ホームレスまで落ちたが、日系人に助けられホテル業務を仕込まれた。
今ホテルを二つ経営している。経済的には成功したが、今は何もない。
中座してトイレに行く仁一。ポケットからニトログリセリンの瓶を出す。
四ヶ月前、救急搬送された。

日本に帰りたい。このままでは死んでも死にきれない・・・
元ボクサー以外にどんな人生があるのか。
会長に言われた言葉。
鳧(ケリ)という鳥がいる。田に作った巣を壊されても何度でも作り続ける。だからケリのように粘り強くならなくては。
--自分たちは、そろそろケリをつけなくてはならない。

みんなが暮らせる家を探したいと言う仁一に、令子はある家を提案。
「チャンプの家・・・」それは仁一たち四人が共同で暮らしていた集合住宅。住んでくれたら父も喜ぶわ。
補修、清掃等に明け暮れる仁一。

またジロー、サセケン、キッドにも連絡を入れた。

そして今日、刑期を終えたジローが来る。次いでサセケン。
「これで星君がいれば・・・」と令子が言うところへ顔を出すキッド。
皆で乾杯。「奇跡みたい」と言う令子。
令子のピアノで皆の酒が進む。


昔を懐かしんだのも束の間、暮らし始めて早々、どうでもいい事でケンカ。誰が一番強いか決めようなどと言い出す始末。
うまくやれると思ったのが間違いだった、と謝る仁一。
やる事がないのが悪い。生きてる意味がない。
くすぶるにはまだ早い。だが、このままじゃ負け犬。
ジンの言葉。俺たちはプロのボクサーだった。

それだけで勇気のある男”チャンプ”なんだ。

とにかく何か始めよう。みんなでランニングを始める。
そんな時に数人の若者と接触した。

仁一らは謝ったが、因縁をつける若者たち。
一人が一番小柄なキッドに近づいたが、一発で倒される。
ついでまた一人がサセケンに迫るも、軽いジャブを受けて倒れる。
最後の男が仁一に向かって来た。「お前、ライセンスが・・」との声。
プロならやめておけ、と仁一。
だが奇妙な感覚がある。会ったことがある様な・・
ブレのないストレート。やめろ!
若者が出す右フック・・・ ジンのクロスカウンター!の声。


倒れた若者が頭を打った。
パトカーの音が聞こえる。

とりあえず若者をタクシーに乗せて病院へ行く仁一たち。
病院での検査では異常なかった。
ライセンスを持ってる、と若者。気がついたらやりたいと思った。
あんたらボクサーだろ?と言って立ち去る若者。

翌日、若者がチャンプの家へ来て病院代を払った。名は黒木翔吾。
それを聞いてサセケンが思い出した。高校三冠。プロになってから7戦全勝。だが最近名を聞かない。ボクシングは辞めたという。
もう一度俺と戦ってくれ!あのパンチが見たい。クロスカウンター。
戦う理由が見つかった。アンタと戦わなくちゃならない。
戦う理由・・・一番求めていたもの。生きている理由。


<後編> 3/27放送
なぜリングで戦うのか・・・

それは世界で最も自由な存在になるためだ。
グラブを持って「外に出ろ」と言う仁一。
間合いを詰める翔吾。防御、攻撃両面で対応出来る力がある。
ジャブの応酬。次は本能を捨ててみろ。

左ジャブを打たれたら普通は右手で打ち返す。

その本能を捨てて左で払えば相手の右はガラ開き。


教えて欲しい。クロスカウンターをか? 
そうだ。みんなのも教えて欲しい。
皆が持っている必殺技。サセケンのジャブ三段打ち、キッドのボディフック、ジローのインサイドアッパー、そして俺のクロスカウンター。
しかしリングに立たん奴に教えてもムダ。なぜリングを降りた?
連勝を続けた7戦目。負けていた試合でジャッジが勝たせた。
ジンと逆だな、の声。40年前、勝っていた試合で負けを宣告された。
翔吾が続ける。

親の敷いたレールに乗って戦うだけで意味のない試合。
でもジンさんを倒したいと思った。

自分の事を思い出す。

19歳の時、ケガで休み荒んでいた時、ボクシングの試合を見て息を飲んだ。それで探し当てた「真田拳闘倶楽部」
合宿生募集の条件は「頭脳明晰であること」
訪ねた先で聞いた会長の言葉。
ボクサーはリングの上では自由。全て一人の決断、実行。

無限に孤独。一筋の光を見た。
アメリカでペドロ・サンチェスに言われた。世界チャンピオンを何人も生み出した名トレーナー。
「チャンピオン中のチャンピオンになれる者にしか教えない」

教わりたいというなら、教えてやりたい・・・
それから毎週末、翔吾に教える事が俺たちの生きがいになった。
翔吾は天性のスピードとパンチ力がある「ボクサーファイター」
それから一ケ月後。
プロのリングに立たせるには、ジムを移籍させる必要がある。
相談された令子は驚く。翔吾は黒木ジム会長の息子。
一応話してみると言った令子からの連絡では、移籍OK。

息子に対する父の切実な思い。

翔吾の対戦への朗報。石塚ジムの山越(現東洋・太平洋チャンピオン)が対戦相手を探している。翔吾ならチケットが売れるし、ブランクがあるから負ける筈がないという皮算用。
翔吾は、即やりたいと言った。
翌日から猛練習が始まった。皆の技を次々にマスターして行く翔吾。

仕上げに真拳ジムの大塚をスパーリング相手として戦った。
序盤は互角だったが、スタミナがまだ不足の翔吾は次第に劣勢に。
大塚がフックを打って来た時、翔吾はロープの反動をつかってアッパーカットをヒットさせた。「打つな!」
大塚はダウンし、スパーリングは中止になった。
誘ったな、と翔吾を咎めるジロー。

これに味をしめると試合運びが雑になる・・・

そして山越戦当日。40年振りの後楽園ホール。
令子とリングサイドに座る仁一。復帰戦がチャンピオンとの試合では、自分なら逃げ出したい。だが翔吾は笑っていた。
翔吾の動きは早い。着実にポイントを重ねて行った。
相手のロングフックに気をつけろ、とセコンドのサセケンが言うと、仁一に訴えるような目を向ける翔吾。それはインサイドアッパーを使いたいとの意思。判定勝ちではなくKOで勝ちたい。頷いた仁一。
見事なインサイドアッパーで勝った翔吾。

報道陣から逃れてフロアに出ると「広岡さん、ですね?」と声をかけられた。翔吾の父親だという。

そして40年前は羽佐間正一だったと言った。
日本で戦った最後の相手。
判定で勝ったが、あれは広岡さんの勝ちでした。

その後世界に挑むことはなかった。あれを最後にリングを下りた。
自分には戦う資格がない・・・
翔吾も同じことを言っていました、と仁一。
あれは翔吾の勝ち。相手の境遇に同情して負けたと思い込んだ。
ジムが何をしたか知らないが、謝りたいと言う黒木に、あの負けがあったから世界に挑めた、と仁一。
今回についても翔吾を生き返らせてくれた、と頭を下げる。
--礼を言うのはこっち。

復帰戦から一ケ月後。
大塚が、世界戦の前に翔吾と戦いたいと言い出した。
翔吾に断るように言ってと頼む令子だが、同じ時代に生まれたボクサーの宿命。
男と男の戦い。勝った方が世界に行く。
翔吾が聞く。ジンさんはチャンピオンの中のチャンピオンと戦ったことがありますか?
ある。ジェイク・ミラー。

勝った方が世界チャンピオンに挑戦する事になっていた。
意気込んでリングに上がったが、圧倒的な力の差を感じた。

完璧な一発でダウンした。そして、ボクシングをやめた。
いつか、そういう相手と戦いたい、と翔吾。

大塚さんは強いが、絶対勝てない相手とは思わない。

現チャンピオンのアフメド・バイエフにはそれを感じる。
大塚に勝てば次はバイエフだ、と言う仁一にその後のミラーの事を聞く翔吾。
世界チャンピオンにはなれなかった。

網膜剥離のせい。それもまたボクシング。

大塚との試合当日。
1Rから、鮮やかなヒットアンドアウェイでポイントを重ねる大塚。
7R、ロープぎわに追い詰められた翔吾がインサイドアッパーを仕掛けたが、かわされてカウンターを打ち込まれる。
カウント7で立ち上がる翔吾。クリンチで何とか逃れる。
コーナーで仁一を見詰める翔吾。絶望的な状況で必死に考えている。
やりたい様にやってみろ、と頷く仁一。
8R。距離を詰めてフックを放つ大塚。

それをかわして翔吾の渾身の左フックがさく裂した。


そして10カウント。
翔吾は嵐を乗り切った。

そして練習再開。バイエフとの世界戦は二ケ月後。
翔吾にクロスカウンターを伝授する仁一。

相手の右フックをはね上げて左ストレートを打つ。
見えないパンチは効く。
季節は春になっていた。

「え、心臓病?」令子に真相を話す仁一。
タイトルマッチの後に検査を受けると言った。
アメリカにいた時はいつ死んでもいいと思っていた。今は違う。
だが万一の時は所有する財産の半分をスポーツ団体に寄付。あと半分は信託に付し、チャンプの家が存続出来るように。

実行は令子に一任する。それを引き受けた令子。
アメリカに残して来たものはないの?の問いに「ええ、何も」
土地に根を生やすという思いがない。

錨を上げれば風に流されるだけ。
私もそうだった、と言う令子。
結婚、出産でピアニストを諦めたけど、本当にやりたかったのか・・
ジムを引き受ける時も、自分の居場所だろうか、と。
でも最近はジムの会長こそ自分の仕事だと思う。

リングの下で、自由で孤独でいよう。

どうして結婚しなかったの?と聞かれて、昔会長に言われた事を話す仁一。
親というのは、自分の命を子供に分け与えることを受け入れた人がなるもの。
父はそんなことを?・・・・
母親が自分を生んですぐ亡くなり、自分が母の命を奪ったと悩んでいた私は、その言葉に救われた。
同時に自分は親にはなれないと思った。そんな覚悟は出来ない。
全てを犠牲にしても世界チャンピオンになりたい。

もしなれたら、その時には結婚して子供を持とう。
結局チャンピオンにはなれなかった。それが理由かも・・・
一年前、広岡君が来た時は桜が散ったあとだった。
試合が終わったら、一緒に見ましょうね。

試合まで一週間を切った晩、桜並木を翔吾と走る仁一。
ジンさんに世界を見せたい、と言う翔吾は、仁一が病院と話す電話を聞いていた。ニトロとか、バイパス手術とか・・・
心配かけてすまない。だが今は試合の事だけ考えろ。

試合当日は雨。翔吾は仁一にセコンドについて欲しいと頼んだ。
万一の時には俺たちがサポートする、と三人。

仁一の病気の事は知っていた。
アナウンスが響く。「世界ライト級王座決定戦!」
赤コーナー、アフメド・バイエル。青コーナー、黒木翔吾。
足を使え、と仁一。
試合開始。翔吾は軽快なフットワーク。パンチが良く決まる。
だが5R、ついにバイエルの反撃が始まった。

重い一発を食らい、翔吾は棒立ちになる。
7Rではコーナーに追い込まれた。逃げ場を失う。
来る!フックだ。倒れる翔吾。

カウント8で何とかファイティングポーズを取る。
バイエフがとどめを刺そうと右フックを放った。

次の瞬間、翔吾の拳がバイエフの顎を突き上げた。
勝った!これで終わりだ。

だがバイエフは立ち上がった。そしてゴング。
コーナーに戻った翔吾が「右目が見えない!」と言った。
網膜剥離か!試合をやめるか。イヤです!
長引かせると失明するぞ。やります!
8Rで凄まじいラッシュをかけるが、右目だけではパンチがずれる。
連打を放つバイエフ。立っているのがやっとの翔吾。
ゴングでコーナーに戻った翔吾。

今、とってもいいんです。右目が見えなくなっても自由の先に何があるか見えますよね? ああ!見える。

その前にもう一度戻って来い。
10R。ついに翔吾の足が止まる。あと一発受けたら終わり。
翔吾の両腕が下がった時、バイエフがとどめの右フックを打つ。
翔吾が強烈なクロスカウンターを放った。


ロープまで吹き飛んだバイエフ。だがバイエフはロープにつかまりながらも立ち上がった。蒼白になる翔吾。背負っているものの違い。
恐怖に打ち勝て!と仁一。
11、12Rとも双方激しく打ちあうが決着しない。
お前は今、リングの上で無限に自由だ。
う! 胸に激しい痛みが走った。

ズボンのポケットを探ったが、ニトロの瓶がない。セコンドでズボンを穿き替えた時に入れ忘れた。

ゴングが鳴った。リングで抱擁する二人。
ジャッジの結果、2対1で翔吾の勝利。
チャンピオン誕生の瞬間。その光景を見ながら仁一はリングの下にうずくまった。意識が薄くなって行く。
よかったな、翔吾。本当のボクサーの生き様を見せてもらった。

広岡くん!・・・広岡くん!
誰かが呼んでいる。一度も、その名前を呼ばなかった人。
一緒に桜の下を歩いた。その白さが目にしみる。
美しいなぁ。
広岡くん! 誰かー!  誰かー!

花の道を歩き続ける自分の後ろ姿が見える。
桜の花びらが雪のように散る中を、ゆっくりと。
そうか、そういう事だったのか。
ただ俺は、その場に留まりたくない思いでここまで歩いて来た。
だが、遠ざかろうとしているこの場所に、心を残している。
春から始まったこの一年が、心を残す場所を与えてくれたのだ。
そういう場所があったということ。
それを人は幸せと呼ぶのかも知れないな・・・

 

小説の挿絵(ラジオドラマに出て来ない人もチラホラ)