⭐️やさしさ通心…No.751 | yasashisatuushinのブログ

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心に栄養補給を!!
週に一度は良いお話で、心をリセットしましょう。(笑)
毎週土曜日の午前10時に配信しています。

2024年8月3日(土)

 

おはようございます。

 

8月に入り最初のやさしさ通心です。

8月はやはり先の大戦のお話になりますが、日本人として知るべきことですし、大変誇りに感じる素晴らしいお話ですので、ぜひ、お読み頂けますと嬉しいです。

 

『日本は子供にどんな教育をしているんだ⁉︎』

 

この言葉は、広島市を訪れたアメリカ人男性がSNSにつぶやいた一言です。

 

彼が広島で、ある一人の日本人少女とのやりとりに感動し、それをSNSに投稿すると、その言葉がアメリカのテレビ番組で取り上げられ、全米中の視聴者を号泣させるに至りました。

 

中国・四国地方最大の都市である広島市は人口約120万人の大きな町で、政令指定都市にもなっています。

 

お好み焼きやカキが有名で、外国人観光客にも非常に人気がある観光地としても有名です。

 

また広島は、第二次世界大戦で人類史上初めて原子爆弾を投下された場所としての悲しみを背負った町でもあります。

 

1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍の爆撃機B29が、広島に人類史上初めて原子爆弾を投下しました。

 

原爆は上空600メートルで炸裂し、猛烈な爆風が周囲の建物を破壊します。

 

爆心地周辺の地表面の温度は3000度から4000度に達した言われ、一瞬のうちに多くの人々の命を奪いました。

 

広島市ではこの時に約14万人が亡くなったと推計されています。

 

その時に被爆した建物が、原爆ドームとして今もなお残っています。

 

ほぼ、被爆した当時の姿のまま立ち続ける原爆ドームは、核兵器の悲惨さを伝えるものであり、

時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として残されています。

 

終戦から80年近く経った今でも、広島からの平和のメッセージを受け取りに、世界中から原爆ドームを訪れています。

 

そんな外国人旅行者の一人にアメリカ人のブルックさんがいました。

 

彼は以前から日本の文化に興味を持ち、この度ようやく念願だった日本に一人で訪れたとのことです。

 

東京、京都、大阪と旅をして来たブルックさんは、その足で広島を訪れます。

 

ブルックさんは、学校の授業で広島の歴史も学んでいました。

 

第二次世界大戦でアメリカ軍が原爆を投下して、大勢の被害者が出たこと。

しかし、そのおかげで長期化していた第二次世界大戦を終えることができたとも教わっていました。

 

広島にそれほど強い興味があったわけでもなかったそうですが、アメリカの友人が「日本に行くなら絶対に広島を見てきた方がいい」と、強く勧めてくれたので訪れたそうです。

 

最初は気軽な感じで原爆ドームを訪れたブルックさんでしたが、広島平和記念資料館を見た後には、まともに歩けないほどのショックを受けたそうです。

 

見学を終えた彼は近くの公園に座り、しばらく動けなかったそうです。

 

自分が教わってきた歴史は何だったんだろうか?

まるで現実では無いような世界が目の前に展示されていました。

 

まだ80年も経っていない歴史、つい最近と言える過去に、実際にこの場所で惨事が起きていたのです。

 

戦争にはどこの国が悪いとは言い切れない部分があると思います。

 

日本にも戦争犯した罪はあると想像しています。でもここにある1945年の広島は、人類が経験してはいけない世界です。

 

アメリカが犯した罪は非常に大きいと言わざるを得ません。

 

ブルックさんは後にコメントしています。

 

終戦時アメリカでは85%の人が原爆投下を支持していました。これが現実だったのです。

 

さらにこれには諸説ありますが、当時のアメリカ大統領のトルーマンは、人種差別主義者だったと言う記録もあります。

 

日本人も差別の対象にしていたことが原爆投下を決定させた要因の一つであった事は、様々な文献で指摘されています。

 

そういったアメリカの背景が、広島や長崎そして日本に、さらに大きな悲しみの影を落としていました。

 

ブルックさんが実際にアメリカの学校で習ってきた事実とは違う現実が、広島にはありました。

 

そのことにショックを受けたブルックさんは、座り込んだまま泣き出してしまったそうです。

 

アメリカがどうとか、日本がどうとか言う以前に、一人の人間としてここで起きたことを簡単には飲み込めませんでした。

 

ブルックさんは続けます。

当時、亡くなった方だけじゃなく、被爆して苦労した人もたくさんいると思います。

 

特に※貞子さんのストーリーは聞いていて、本当に辛かった。

※貞子さんのストーリーは、このお話の最後に添付させて頂きました。

 

広島の人が戦争の事実をここに残してくれたことに感謝しています。

 

私は幸運にも事実を知ることができました。

 

ブルックさんが公園で泣き崩れていると、日本人の少女が近づいてきました。

 

5〜6歳の女の子はブルックさんに話しかけます。

 

「これ、どうぞ」

 

そう言うと、女の子はアニメキャラクターの描かれた小さなハンカチをブルックさんに差し出します。

 

驚いたブルックさんが顔を上げると、日本人の少女はハニカミながらにっこりと微笑み、近くにいた母親の元に戻って行きました。

 

「大丈夫ですか?それ良かったら使ってください」

 

少女の母親はブルックさんにそう話しかけると、心配そうにブルックさんに寄り添います。

 

ブルックさんは、親子に頭を下げてお礼を伝えるとゆっくりと話し始めました。

 

ブルックさんは、日本語をほとんど話せなかったので、母親は近くにいた年配の日本人男性に通訳を頼んだそうです。

 

「私は今日初めて広島に来ました。そして、戦争が、核兵器がいかに非常なものか、平和がいかに尊いものかがよくわかりました。

 戦争の原因はいろいろあったと思います。私には分かりません。でも1つだけ言えるのは、原爆が多くの日本人の人生を奪ったということです。

 命だけじゃなく人生も奪ってしまいました」

 

ブルックさんはそう言うと、再び号泣してしまいました。

 

通訳の男性が、ブルックさんの話を日本人の母子に伝える終わると、再びブルックさんが気持ちを吐露します。

 

「正直、何とも言い難い気持ちです。罪悪感なのでしょうか?あるいはアメリカ人として恥ずかしく持ってるのかもしれません。

 祖国を非難するような気持ちも湧いて来ます。あなたたち日本人は私たちアメリカ人を恨んで、嫌っていることでしょう。

 許してはくれないと思いますが、謝りたい気分です」

 

ブルックさんはそう言うと、頭を大きく下げました。

 

その光景に驚きながら、通訳の話を聞いた母親は、この後とんでもない言葉をブルックさんに返しました。

 

「私たち日本人はあなたたちを恨んでなんかいませんよ。こうして広島に来てくれて、過去から逃げずに受け止めていただいた。それだけで充分嬉しいんですよ。

 せっかく泣いてくれるなら、今の広島を楽しんで嬉しい涙を流してほしいですね」

 

彼女はそう言いながら大きく笑いました。

 

それを通訳する日本人男性も、満面の笑顔でブルックさんに伝えます。

 

「私の両親はここ広島で戦争を体験しています。戦争では生き残りましたが、被爆した恐怖から、いつ自分の体がおかしくなるのかと怯えながら生活していました。

 私はそんな両親を見て来たから、過去をなかったことになんてできません。でも私が憎んでいるのは当時の上層部の人です。

 原爆を落とそうと決めたアメリカのリーダーたちや、戦争を起こした日本のリーダーは憎んでいますが、それ以外のアメリカ人は大好きなんですよ」

 

そう言いながら、ブルックさんを盛んに勇気づけました。

 

そうやって、彼ら日本人に励まされながらしばらく談笑したが、ブルックさんはホテルに戻る時間になります。

 

ハンカチをくれた日本人の親子と通訳をしてくれた日本人男性としっかりと握手をして、お別れをしました。

 

その時、母親からこんなことを言われてすごく感動したと、ブルックさんは後に話しています。

 

「私の娘は今、英語スクールに通っているんです。英語もアメリカ人の先生も大好きなので、楽しそうに通っています。

 この子が大人になった時に、お付き合いしていくアメリカ人はあなたやあなたのお子さんたちです。

 決してトルーマンじゃない。ぜひあなたたち今のアメリカ人には、日本や日本人を好きになってもらいたいです」

 

この母親の言葉を聞いたブルックさんは、再び涙してしまったと回想しています。

 

キャラクターの描かれたハンカチを日本人少女に返そうとしていたブルックさんでしたが、結局そのハンカチをもらって帰ることになってしまったそうです。

 

「それ、あげるね」

 

そう言いながら手を振ってくれた少女の顔は、今でも忘れない。

 

あの3人と過ごした時間は、日本旅行の中でも一番素敵な時間だったと、ブルックさんは振り返ります。

 

日本は世界で唯一核兵器を使用された国です。

 

今でも、世界中で戦争が起こっていますが、この悲しみを体験して知っているのは日本人だけです。

 

原爆を使ったアメリカ人に対してさえ温かい心で接し、受け入れ、未来を一緒に作ろうとする日本人親子や通訳の日本人男性の優しさ。

 

ブルックさんは、帰国後この広島での出来事をSNSにアップしました。そしてそれを見たアメリカのテレビ局から取材を受けることになったのです。

 

この時のエピソードは、全米でテレビ放送され、広島の歴史、戦争の悲惨さ、そしてブルックさんに対する日本人の優しさを伝えました。

 

このドキュメンタリー番組を見て、キャスターやレポーターだけでなく、テレビの前の全米の視聴者が涙したと言います。

 

その時、キャスターは涙ながらにこう言いました。

 

「私たちの知らない事実が広島にありました。アメリカ人にはアメリカ人の考えもあるとは思います。

 ですが、広島にある現実はきちんと受け止めたいと思います。

 

 そして何より、あの日本人親子と高齢の日本人男性の暖かさに私は心を打ち抜かれました。

 

 憎まれても仕方ない我々が、日本人の寛容な心で受け入れられ、そして一緒に歩もうとしてくれている。

 

 ブルックさんが日本人少女からもらったハンカチは、日本人から我々アメリカ人にくれた最高級のおもてなしのプレゼントと言えるでしょう」

 

通訳の日本人男性の一言で、その番組は締めらてていました。

 

「憎しみから平和は生まれないんですよ。それを世界中で一番分かっているのは我々日本人なんだからね」

 

この一言はアメリカ人だけでなく、世界中の人々への日本人からのメッセージと言えるのではないでしょうか?

 

[視聴者からのコメントの一部]

 

戦争も原爆も誰が悪いのかは私にはわからない。でも一つだけ言えることがある。

それは、この悲劇を決して繰り返してはならないと言うことだ。日本人がそれを教えてくれている。

 

私たちアメリカ人は、もっと広島や長崎で起きたことを学ぶ必要がある。

幸いにも日本人は寛容で、世界が平和であるために、必要な心を伝えようとしてくれているじゃないか。彼ら日本人と一緒に未来を作りたいと切に願うよ。

 

私も広島原爆資料館に行ったことがある。アメリカ人として、あの地に行くのに抵抗があったのも事実だ。でも行くことができる人はみんな行って欲しい。

あなた自身が資料館を体験しないと意味がない。日本人は、核兵器を持つことで対抗するのではなく、あの場所での惨劇を世界の人々と共感することで平和な世界を願った。

優しい日本人だからできることだけど、彼らのその心意気に感謝して、戦争のない平和な世界を目指したいって思えるはずだ。

 

あの日本人親子の言葉は一つ一つとても素晴らしいものだった。とても感動して涙が止まらなかったよ。

過去の全てを受け入れ、明日に向かって一緒に歩もうとしてくれている。僕たちの子供が、日本人と一緒に手をつなげることを誇りに思う。

 

あの日本人少女の何気ない行動が、日本人の全てを表現していると思う。泣いている人がいたら、誰が相手でもそっと助けを出す。

あんなに幼い子でも自然にできてしまうところが日本人の本質だと思う。僕にも子供がいるが、あの日本人の子供のように育ってほしいと願っている。

 

きっと、とても大切にしてくれていただろうハンカチをくれるのは、教育がしっかりしているからだろう。困っている人がいたら無条件で助ける。これは日本人ならではだと思う。

 

 

日本人はアメリカを憎しみの対象ではなく、受け入れることから始めました。武力で対抗するのではなく、平和を伝えるメッセージを発信するという選択をしました。

 

そして、日本人が伝え続けた結果、戦後すぐには原爆投下は正しかったというアメリカ人は85%でしたが、数年前の調査では、その数は50%近くまで下がっていました。

 

【あこがれJAPANチャンネル】より

 

佐々木 禎子(ささき さだこ、1943年〈昭和18年〉1月7日 - 1955年〈昭和30年〉10月25日)

太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下による被爆者の一人。12歳の若さで白血病により亡くなり、広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルになった。

原爆を投下したアメリカ合衆国のシアトルの平和公園にも銅像がある。2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

 

生涯

1943年1月7日、広島県広島市に生まれる。

「禎子」という名前は、元気に育つようにという父母の願いをこめて、両親の店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。

 

1945年8月6日、2歳のときに広島に投下された原爆によって、爆心地から約1.6km離れた楠木町(広島市西区)の自宅で被爆した。

 

爆風により屋外まで飛ばされたものの、外傷は負わなかった。

しかし母に背負われて避難する最中に、放射性降下物を含む「黒い雨」に打たれた。また祖母はその際に家に戻ったため亡くしている。

 

ともに被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。

1954年8月の検査では異常はなかった。運動神経が抜群で足が速く、将来の夢は「中学校の体育の先生」になることであった。

 

小学6年生の春の運動会で学級対抗リレーの選手の一人に選ばれたが6年竹組は最下位になったが、その後もリレーの練習を続け秋の運動会では6年竹組は優勝した。

その日付は1954年10月25日と記録されている。

 

しかしその直後から体に異変がみられるようになる。

同年11月下旬頃、軽い風邪をひき、首や耳の後ろにしこりができた。しこりは徐々に大きくなり、顔がおたふく風邪のように腫れる。

 

正月明けに近所の病院で診察を受けるも、一向に腫れが引くことはなかった。さらに1月末には左足に紫色の斑点がみられるようになる。

 

原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)で検査を受ける。

 

2月18日、かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。

 

2月21日、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。

10月25日の朝に危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。

 

家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。

これが最期の言葉となる。

 

1955年10月25日午前9時57分、担当の沼田医師が臨終を家族に告げた。享年12歳。