⭐️やさしさ通心…No.725 | yasashisatuushinのブログ

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心に栄養補給を!!
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毎週土曜日の午前10時に配信しています。

2024年2月3日(土)

 

おはようございます。

 

さあ、2月に入り今日は節分、でも、まだまだ寒い日が続いていますし、インフルエンザもコロナもまた流行っているようですから、くれぐれもご注意くださいね。

 

ところで私事ですが、娘が旦那さんと二人で大阪の天満橋で居酒屋をやってまして、「持ち帰り用の恵方巻きを作るから…」と事前に予約を取られ、今日はその恵方巻きを頂きます。(笑)

 

能登半島地震で亡くなられた皆様、被害に遭われた皆様にはご冥福をお祈りすると共に、一日も早い復興をお祈りするばかりですが、年初からの災害や事故なども、節分を機会に穏やかな毎日になるといいなと思います。

 

さて、今朝のやさしさ通心も、親日国台湾の人々に、今も祀られている日本人のお話をご紹介させて頂きます。

 

『台湾人日本兵2000人の命を救った警部』

   廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん)

 

首都・台北(たいぺい)から60キロ南にある景勝地の獅頭山(しとうざん)に建っている寺・輔天宮(ほてんぐう)に、毎年、日台の老若男女が集い、ある日本人警察官の慰霊祭が行われている。

 

寺に安置されている位牌には、廣枝音右衛門(ひろえだ おとえもん)と記されている。

 

慰霊祭は現在、台湾在住の渡邉崇之(わたなべ たかゆき)氏を中心に営まれている。

 

戦時中、廣枝警部に命を助けられた台湾人巡査2000名の最後の生存者・劉維添(りゅう いてん)が主催していたが、2013年(平成25年)の死後、渡邉氏が彼の意思を継いだ。

 

一体、廣枝はどんな経緯(いきさつ)で、かつての台湾人巡査らにより、弔い続けられることになったのだろうか?

 

1905(明治38)年、廣枝は神奈川県小田原で生まれた。

日本大学予科を経て、22歳で幹部候補生としてに入隊、軍曹(ぐんそう)まで昇進して満期除隊した後、小学校の教員となるが、25歳の時に渡台(とたい=台湾に渡ること)。

 

競争率100倍という超難関の台湾総督府巡査試験に挑み、見事合格したからだ。

頭脳面積でありながらも、温厚な人柄の廣枝は、部下は元より島民にも慕われ、1942(昭和17)年には警部へと昇進。

 

その後、大東亜戦争の戦線拡大により、占領地の治安維持部隊として偏差された、軍属による「海軍巡査隊」を総指揮する大隊長に任命された。

 

38歳の廣枝は、1943(昭和18)年末、台湾南部の高尾港より特務艦「武昌丸」にて、台湾人志願兵や軍属を中心に編成された海軍巡査隊2000名を引率し、フィリピンに向け出航。

2日後、マニラ南部に入港、任務に就く。

 

台湾人巡査を指揮した廣枝は、警備や後方支援に努めていたが、戦局日に日に悪化、ついにはマニアのあるルソン島に米軍の上陸が迫ると、マニラ海軍防衛隊が編成され、巡査隊も防衛隊に編入され戦うことに。

 

1945(昭和20)年2月、米軍はルソン島に上陸を開始。マニラは市街戦の修羅場となり、巡査隊員にも負傷者が続出した。

重症を負った部下を廣枝は抱き寄せ、大声で名前を呼んで涙ながらに励まし、自ら砲弾が降り注ぐ中を、5キロも離れた病院へ護送するなど、率先垂範で隊員らを勇気付けた。

 

しかし、圧倒的な物量と兵力を誇る米軍に為すすべを失った日本軍上層は、各指揮官ら集めて棒地雷や対戦車用の刺殺爆雷を配布。

 

そして「敵戦車に体当たりして全員玉砕せよ!」と、陸軍特攻による総攻撃の命令が発せられた。

 

以後、連夜のように一個小隊規模での体当たり特攻を敢行。戦場はすぐに死体の山となった。

 

廣枝は元より、喜んで特攻に散る覚悟ができていたものの、台湾人部下たちのことを思って苦悩。既に戦局を達観していた彼は、帰りを待つ妻子が台湾にいた身ではあったが、意決して隊員たちを集め、突撃命令は出さずに最後の言葉を発した。

 

「諸君はよく戦った。が、玉砕するは誠に犬死に如(し)かず。お前たちには妻子父母兄弟が待っているだろう。

連れて帰れないのは残念だが、お前たちだけでも、生きられる処(ところ)まで行け!

捕虜になってでも故郷へ生還し、台湾の再建に努めよ。

俺は日本人だ。全責任は、この隊長がとる!」

 

皆がすすり泣く中、壕(ごう)に消えて銃声が2発響く。軍命に背いた責任を執り、廣枝は自決。

この日は40歳の誕生日だった…。

 

戦後台湾へ帰還した部下は、31年後の1976(昭和51)年、劉維添(りゅう いてん)を中心に、数百人が新竹洲の獅頭山(しとうざん)に集結した。

 

「我ら今日あるは、隊長の殺身成仁(さっしんせいじん=身を殺し仁を成す)故(ゆ)え。

この大恩は、子々孫々に至るも忘却せず、報恩感謝の誠を捧げん!」と誓う。

 

国民党による戒厳令下、旧日本軍人の廟(びょう=墓)を建立するなど不可能な時代、輔天宮(ほてんぐう)に頼み、当局に知られぬよう、永代仏として合祀し、慰霊祭を毎年行うことで合意。

 

彼らは翌1977(昭和52)年、茨城県取手市の弘経寺(ぐきょうじ)を訪問。

廣枝の墓域に遺徳顕彰碑を建立し、廣枝の恩に、涙で感謝の意を捧げている。

 

【大和撫子列伝/和ORLD(ワールド)令和5年 V O L.6】より