茶の湯と自己表現。

何度かにわたってお話をしてきましたが、最後に村田珠光のお話をして締めくくりたいなと思います。

 

村田珠光。千利休の師匠。茶の湯の開山と言われている大茶人。

茶の湯が日本に伝わってきたのは、遡ること600年前。鎌倉時代になります。

当初、日本に伝わってきた茶は、今とは違い、とても貴重で貴族しか嗜むことができなかったんですよね。

 

そして、その希少性に加えて、当時の貴族の茶文化に拍車を掛けたのが、上流階級の間で流行った”どのお茶がどこのお茶か”を当てあいっこする「利き茶」という遊びと

 

この道具すごいっしょ”と互いの道具の趣向を競う「闘茶」という遊び。

あとは、応仁の乱による莫大支出などが挙げられるのではないかなと。

 

そんなこんなで当初茶器のほとんどを中国から輸入していた我が国日本では、輸入にあてるお金を確保することが難しくなってしまったことを境に、中国茶器の価格があれよあれよと高騰。貴族のみぞ楽しめる茶になっちゃった。

 

貴族たちは我が宝の価値があがることに万々歳だったかもしれないが、茶人にとっては大事件ですよね。

だって、唐物茶器がなけりゃ茶はできぬと言われていた時代に、当の唐物茶器を手にすることが難しくなってしまったんですから。

 

そこに一石を投じたのが茶の湯の開山村田珠光です。

村田珠光は、宝石のように輝きを放つ中国伝来の天目茶碗を至極当然と扱っていた当時の茶の湯の空間に、当時、日用雑器として一般家庭で広く使われていた高麗茶碗をこれみよがしに投じたんです。

 

村田珠光の投じた魂の一石。

きらびやかな天目茶碗に似ても似つかぬ素朴な高麗茶碗。

ましてや、元来は日用雑器。

もちろんに抹茶碗として作られたものではないですから、茶が点てやすいとか飲むに口触りが良きなどといったことは毛頭なく、何も恐れず言うならば、なんの変哲もないお茶碗なんですよね。

 

この高麗茶碗を敢えてきらびやかな貴族の茶の湯の空間に投じた村田珠光の渾身の思いとは??

 

つづく