天王寺鋸について、こないだ熱い議論をしました。(笑)
年末のどさくさに趣味の鍛冶屋調べをしていて思った所があったのでちらっと書いてみます。
もちろん、参考までに。
手曲がり鋸ともいわれますが。
やはりプロはあえて、天王寺鋸と言いたいところ。(笑)
天王寺やから大阪の天王寺や四天王寺に鋸鍛冶がいたとなってますが。
そこらへんを調べてみようと資料をひっくり返してみました。
で、それの根拠で古いのは雍州府志(1682年)ですね。
鋸
所々の鍛工これを打ち、その内 専ら鋸を造る家の多くは天王寺屋と号す、
はじめ、摂州天王寺門前の鍛冶これを造る。
あとは少しどこの情報?感はありますが。
会津の鋸歴史ですね。
8代将軍徳川吉宗の時代の享保年間(1730年)頃、会津藩老の田中玄宰が大阪天王寺門前の鋸鍛冶「中屋源太郎」の高弟の「中屋重内」や「重五郎」を招いて、伐採用の手曲がり鋸である天王寺鋸を藩内に伝え、更に鋸鍛冶は盛んになりました。そして、越後や江戸にその鋸鍛冶技術は伝藩していきました
こんなこというたら怒られますが、僕は会津の記述は微妙ですね。
まず、出所がわからない。そんな昔の話どこにかいてあってんということです。
みてると凄い推測が入り乱れてるし。。
会津の鋸鍛冶の本をみたら、ばっちりかいてあったら謝ります。(笑)
まぁ、そのへんの根拠はまた、鋸熱が高まった時にかきます。
更にマニアックな話になりますが。。
大阪の鋸事情を少し調べましょう。
大阪で江戸時代に鋸鍛冶がいたのは、今でいう本町駅から心斎橋駅あたりにいたのは資料を見れば載ってます。
ここの資料には久太郎町1丁目、鋸となってます。
いっぱい探しましたが、大体ここにある表の中に鍛冶屋さんがおさまってます。
上町に研ぎ屋がいるのが惜しい感じですが。
天王寺北村にあったのはハゼの栽培。
これは蝋燭ですね。農家の感じです。
しかし、どんだけ探しても、天王寺に鍛冶屋はいない。
そこで、でてくるもうひとつ。
あえて見てみましょう。京都。
京都三条堀川の三右衛門。
この人は前挽き鋸の始祖ですが。
この人の屋号が天王寺屋。手曲がりで古いのが残ってるので名前が分かる最古がこの人。この人の屋号から天王寺鋸と呼ばれるようになったのではないか。。と推測。
前挽鍛冶の名簿五軒。
これは京羽二重大全で1784年。
この年には京都三条で前挽き鋸が製造されていた。
で、僕が持っている。(自慢)
三右衛門。
鋸の歴史上、柄が曲がったのは前挽鋸が初めて。(見てる感じ)
それまではまっすぐの鋸を二人で使っていた。
それを一人でもできるようにしたのが、前挽鋸。
壺切、大鋸、前挽が昔の大鋸三兄弟。
その始祖が天王寺屋三右衛門。
その屋号を取って天王寺鋸と手曲がりタイプの鋸を呼ぶようになったのではないか。
と手元の資料だけで、強引に結論づければ考えられる。
しかし。
気になる、、、天王寺屋の屋号。
天王寺村の歴史を調べると大阪の陣(1614-1615)で焼けてるので、そこまでは村や集落が結構あったようです。
そこまでは、天王寺にも鍛冶屋があったのか?
1685年に前挽き鍛冶が京都にいないのに、1784年に突如現れるのも気になります。
天王寺屋の起源が江戸時代以前なら捜索は難しくなりそう。。
この話を調べていくと沼にはまっていく感じがします。
ぶつかるのは京都大阪の歴史。
全てを総合的に理解しないと進めない気も(大げさですが、、)します。
最後にちらっと鋸年表。
1682 雍州府志 所々の鍛工これを打ち、その内 専ら鋸を造る家の多くは天王寺屋と号す。伏見、中屋の鋸の記述。
1684 堺鑑 昔は桜町の西には人家がなかったが、土手である所に小屋を建てて住んで鋸を鍛造していた。
他の職人よりも腕がよかったので、世間では「土居原鋸」といって評判がよかった。今に至るまで子孫が引き継いでいる。
1712 和漢三才図会 堺の土居原鋸が有名の記述あり。
1784 京羽二重大全 京都前挽き鋸天王寺屋三右衛門記述。
土居原鋸なんてのも気になる存在ですが。。
やはり、本が大阪で作られると土居原鋸。京都で作ると中屋、天王寺屋となる。
なぜか大阪の本には天王寺屋はない。ここもひっかかります。
ざっくり堺から来て天王寺屋いうてんのちゃうん?京都の鍛冶屋~。
天王寺屋の根拠って雍州府志だけ?ってかんじになると、なんかその情報も怪しくなります。
京都人が適当に書いてるだけの情報に振り回されている私の身にもなってよ!って話になります。
ほんまに、マジ卍。
趣味ですから需要は無くても、またやります。(笑)