伏見義民 文殊九助 | べしょうのブログ

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伏見の金物を調べていたら。

こんな話がありました。

それが伏見義民の話。




その義民が七名おられるわけですが。

その中心人物が。

刃物鍛冶の文殊九助。


1785年、伏見奉行小掘政方の悪政を幕府に直訴し、

伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を

伏見義民という。



それで、思い起こされるのはこちら。

伏見鑑の刃物鍛冶の黒塗り。

ここにはおそらく、文殊九助が入ると思います。


伏見鑑が出版されたのが、1783年。


彼らが直訴したのが、1785年。




出版されてから、直訴があり黒塗りされたと考えるのが自然ですね。




ちなみにこちらがネットで拾った文殊九助のプロフィール。

・文殊九助

直訴の中心人物で、町の年寄役。板橋二丁目に住む。

文殊(もんじゅ)の家は文禄年間の豊臣秀吉の伏見築城にあたり城閤に必要な金物の鋳造をするため南部から伏見へ移住した文殊四郎包守清左衛門より出て、代々刃物鍛冶を営み薩摩藩御用達となる。

九助は七代目で包光宗兵衛と称し、家業を子の宗兵衛に譲り隠居していた。

江戸での詮議の最中の天明8年正月3日に獄死し、陽岳寺に葬られた。

一族は薩摩藩のとりなしで没落を免れた。



色々興味深い内容です。


堺では文殊四郎は加賀から来た刀鍛冶という話があり。

伏見では南部(青森)から来た鋳物師という話。

まぁ、要するに良く分からんのでしょうね。


刀鍛冶の文殊四郎一派は奈良の刀鍛冶であったようですが。



南部説はおかしいですよね。

それでは南部鉄器の歴史を見てみましょう。






28代南部藩主重直公(1606-1664)が、自藩から良質の鉄等の原材料が産出することから茶の湯釜の制作を思い立ち、藩内の鋳物師とは別に江戸初期、万治2年(徳川四代家綱時代1659年)京都出身の釜師(初代小泉仁左衛門)を召抱え、茶の湯釜を作らせたのが南部釜の起源でございます。

ということですから。

わざわざ、京都に茶の湯の釜師がいっぱいいる南部から呼びよせるのはおかしい。



でも、微妙にシンクロしてる部分があるのも気になるところ。

文殊四郎包守清左衛門から出て、包光宗兵衛と名乗る流れなんかばっちしです。

伏見鑑の内容を説明してくれる。


そして、7代目。一代20年少しぐらい見たら、時代は秀吉の時代にさかのぼれます。

そう考えると、伏見の鍛冶屋の歴史は室町時代を起源と見るより安土桃山とみるほうが良さそう。

室町時代の伏見の状況などは遺跡などの状況を見ても、ただの田舎ってかんじですから。 


まぁ、文殊九助のプロフィールに秀吉が呼んだ職人と記述があるので伏見城を作るときに伏見の鍛冶屋が始まったと考えて間違いなさそうですね。

京都と全く違った国を作ろうとした当時の最先端都市、伏見ですから。







秀吉が伏見城を作るとなったときに集められた職人の中に堺から来た文殊四郎がいた。

利休の屋敷跡と文殊鍛冶(山ノ上鍛冶)のいた宿院は目と鼻の先。

茶に呼ばれた秀吉やその近臣の目にとまったとしてもおかしくない。


ちなみに文殊九助、谷口さんと同じ町内。

親戚?



そして圧政をしていた小掘政方は小掘遠州の流れではあります。

まぁ、7代目の家元でもあったわけですが。

無茶のしすぎで結局はクビになり。

家元は6代の息子が8代目を継いだようです。

何代も続くとこんなのが出てくるんですね。


 
伏見義民之碑が伏見桃山の御香宮境内に明治19年(1886)12月に建立。

篆額(題字)は内大臣三條實美(三条実美/さねみ。内閣総理大臣兼任)

書、碑文は海舟散人(勝海舟)撰。

嗚呼(ああ)むかしもいまも鬼いばらよもぎはことに茂りやすし。九助ぬしの如きは、そをかり払ふよき利鎌(とがま)といはむ歟(か)

勝海舟の詩はいいですね。

九助の刃物鍛冶にかけて、詩に鎌を入れるなんて。


気になる方のために伏見義民の話は下に書いときます。

めっちゃ長いですが。

短いのがほしければ、ネット検索「伏見義民」でGO!


■伏見奉行に対する直訴の経緯

安永7年11月8日に小室藩第6代藩主の小堀和泉守政方が37歳で伏見奉行に任じられる。翌年2月27日に伏見に着任。

小堀家の利益を裂いて町民のために善政を行うが、財政は窮乏し、伏見の裕福な町人に御用金(ごようきん。財政難を補うための臨時の徴収金)を課すなどをして怨嗟を生んだ。

御用金は6月に町人枡屋源兵衛に銀四貫目を命じたのに始まり各所に渡るが、還元の様子も無く、政方が目にかけた商人や御用金徴収人の異例の贔屓が行われ、政方やその腹心の着服が疑われた。

天明元年(1781)5月28日、政方の妾芳子が宴の席で魚の骨を喉を詰まらせ、小堀家お抱え医の水島甲庵(幸庵)が癒した褒美として何を求めるか政方から聞かれると、甲庵は竹の柱に瓦屋根の家が欲しいと答えた。

これは崩壊寸前の小堀家を喩えであり涙ながらに諫言するが、言葉では政方達の心が動かせないと分かり、甲庵は身をもって諌めようと帰宅後自刃した。


心を動かされたのは町民達で、甲庵の遺骸は町民達の手で密かに水島家の墓に葬られた。

凶作が続く中で米穀の価格高騰が収まらず(町人の訴えは米価についても多く、調整や救済指示は町奉行所の仕事でもある)町民の苦悩を見かねて、町年寄役(町の自治長)である文殊九助丸屋九兵衛等同志達が両替町の受泉寺、深草間眞宗院の山室で密議し、もはや越訴(訴訟は奉行所を通す決まりだが、その段階を飛び越えて民衆が処罰覚悟で直接将軍や閣僚等に訴状を渡す直訴)しかないと捨て身の決意を固めた。


天明5年(1785)5月に九兵衛が代表として伏見を出て江戸に向かうが同志達に呼び戻され、深草善福寺の後室で議論を重ね、江戸行きは九助・九兵衛・麹屋伝兵衛の3人に決まる。


7月21日に3人が出発し江戸に入った翌月、同志であった中村靭負がこの計画を伏見奉行に密告したため奉行側は関係者達を幽閉し、3人を捜索する。
捕史が3人が宿泊する白河屋を襲撃するが伝兵衛が大いに奮闘し、深川陽岳寺に入り事なきを得たが、伝兵衛は傷を負ってしまう。


9月16日ついに政方一味の暴政を寺社奉行(勘定奉行・町奉行と並ぶ三奉行の筆頭角ともいわれる)松平伯耆守資承(すけつぐ)邸前で籠訴(かごそ。竹の先に訴状を挟み、外出時の駕籠に駆け寄り閣僚等に訴状を渡す越訴)し、11月に追書を提出した。11日に伝兵衛が傷が元で病死し、陽岳寺に葬る。


12月5日に龍ノ口評定所(幕府の評定所。現東京都大手町)で2人の帰郷が命じられ、願いが受け容れられて、政方が江戸に呼び出された。


27日に政方は伏見奉行職を解任となる。


天明6年(1786)1月14日に九助・九兵衛が伏見に帰り、21日に久留島信濃守通祐が伏見奉行に着任する。


23日に久留島信濃守は京の東町奉行所へ行き、25日に伏見奉行所の与力・同心と共に九助・九兵衛を呼び出し、続いて200名近い関係者が吟味(調査)のため東町奉行所に預けられた。


久留島信濃守は京町奉行丸毛和泉守政良と共に直々に吟味し、九助ら7人の町人が獄に入った。大人数の処置は年末までかかり、その間に病死する者も少なくなかった。

12月15日に事件に関わった小堀家臣と奉行与力・同心、町人達が江戸へ護送され28日に到着し、29日から龍ノ口評定所で各奉行の審問を受ける。


天明7年(1787)5月6日にようやく獄が定まったほどで小堀側も町人側も次々に病死している。