こんにちは。

日本人なら誰でも、会話する際には「相手の目を見て話をしなさい。」と注意された経験があるのではないでしょうか。誰しも話をしたくない人や苦手な人が自分の視界に入った場合に目を伏せたり気づかない振りをする。相手に対してやましい事がある場合、思わず視線をそらしてしまう。読者の皆さんもおそらく同じような経験をお持ちなのではないかと思います。「目は口ほどに物を言う」、「目は心の鏡」、「目にものを見せる」など目に関する格言は枚挙にいとまがない程数多くありますが、今回は「心の中まで見られる神の目を意識して生きる」と題し、万物を創造された神の目を意識することの重要性について考察したことを述べさせていただきます。

 

「神(または主)の目に適う」とは神の律法、掟、戒めに適合した行いをすること、神に義とされることを意味します。したがって人間が「善い」と思っている行為でも、神から見たら「悪」とされる行為が世の中には非常に数多く存在しています。その一例として、まずは聖書に度々登場する「人口調査」という行為について考えます。旧約聖書のサムエル記下 二十四章一節を、新共同訳聖書は「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。」と翻訳していますが、ここでダビデを誘ったのは主ではなくサタンです。なぜそう断言出来るのかというと、同じ場面の記述が歴代誌上二十一章一節にあり、そこでは「サタンがイスラエルに敵対し、イスラエルの人口を数えるようにダビデを唆した。」(拙訳)と書かれているからです。「神の目はこのことを悪と見做され、神はイスラエルを撃たれた。ダビデは神に言った。「わたしはこのような事を行って重罪を犯しました。どうか大変愚かなことをしてしまった、あなたの僕の不義を見逃してください。」」(歴代誌上 二十一章七〜八節、拙訳)神の目に悪とされる行為の一つである人口調査を行ってしまったダビデは神に赦しを乞いました。神は預言者にして先見者でもあったガドを通して、三年間の飢饉か、三ヶ月間敵に襲撃されるか、三日間疫病が起こることのいずれかを選ぶことを迫られ、ダビデは人間の手によって倒れる事を忌避し、主の剣である疫病によって倒れることを選びました。三日の間に七万人が死ぬという大きな被害がイスラエルにもたらされましたが、ダビデは自分とその家族は倒れても構わないが、イスラエルの民をこれ以上災難に遭わせないようにして欲しいと主に祈願した結果、主は贖罪のための祭壇を麦打ち場に築いて、焼き尽くす献げ物と和解の捧げ物を献げることをガドを通してダビデに告げられ、ダビデがそれを実行することにより疫病がやんだ、と書かれています。この様に、ダビデ王の時代においては、人口調査は罪に該当する行為であったということがご理解いただけたかと思います。それではモーセが主導して行った人口調査(出エジプト記 三十章十一〜十六節と民数記 一、三、七章等)についてはなぜ、罪に当たらないのでしょうか。それは神がモーセに対して直接命じられたものであったのに対し、ダビデが行った人口調査は兵力(この時代の国力)を把握する目的で実施してみようかとダビデが心の中で考えたことから始まったためだと手前は理解しています。また、人口調査(登録)については新約聖書 ルカによる福音書二章と使徒言行録 五章にも記されていますが、これらについては、主の命じられたことではなく皇帝の命によって実施されたことは明らかで、神の目には不義とされる行いです。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」(マタイによる福音書 十五章九節参照)主を心から信頼しているならば、兵士の数を数えてイスラエルの軍事力を可視化する必要はなかったのに、ダビデは安心材料が欲しくて人口調査を行った。これはとても小さな悪意から始まった行動ですが、王という多くの人々を統治する人間の一挙手一投足が、国民の生命に関わるという事実をサムエル記下 二十四章と歴代誌上 二十一章は読者に教えてくれているのではないでしょうか。(ここまでの内容に関してはミカエル氏の記事「サウルとダビデの違いとダビデと主イエスの関係」を参考にさせていただきました。こちらの記事を未読の方は是非、ご一読ください。)

 

ツイッターでは悪行の限りを尽くしている政治家たちに怒りの声を発する人々が多数いますが、現代の王である世界各国の首相や大統領たちは自分を犠牲にして国民を守ろうとしたダビデ王とは真逆で、政治の場では無駄な議論、茶番劇を演じていることに気がついている人はとても少なく、科学技術が現代の魔術である事実に気づいている人はより少数です。技術官僚(テクノクラート)の人々は庶民に対して人工地震やケムトレイル、気象操作や5Gや無線LAN等による電磁波攻撃を仕掛け、そして生物兵器ワクチン接種による人為的災害によって人口削減を推進し、自分たちだけは不正な富を利用してそれらの人為的災害の影響を受けない場所に身を隠し、地上の富を蓄えています。鬼畜のような彼らは悪魔崇拝者に他なりません。人口抑制という邪悪な思想は、新世界秩序支配層の者どもがずっと以前から抱いていたもので、それを立証しようとして実施されたのが「ユニバース25(別名、ねずみ実験)」という動物実験です。太陽暦千九百六十八年に行われたこの動物実験は、食料と水が無制限に存在、外敵がない閉空間においてねずみがどの様な社会を形成するかを観察する事を目的として行われたそうです。

(参考動画はこちら、Youtube)

実験の結果は上記の図が示している通り、ねずみであろうと個体数が増加した後に支配層と被支配層が形成されて、権力闘争が勃発し、同性愛等の性的倒錯、ストーカーの出現、子育て出来ない雌の増加、共食い、引きこもりの発生等の社会問題が発生し、乳児死亡率が増加して超高齢化社会となり、種の絶滅に至るという悲惨なものでした。現代の人間社会、特に日本は大東亜戦争以降、国内紛争などがなかったため平和ボケし、外敵の居ないねずみたちと同様の社会問題が発生しています。世の中の異常に気づかず、聖書を読もうとしなかった愚かな人々は、獣の如く食っちゃ寝を繰り返すこの実験のねずみたちと何ら変わらないと手前は感じました。動画の投稿欄にも「まるで人間社会のようだ。人間もやっぱり動物なんだなあと改めて思いました。 すごく興味深い実験の紹介でした!」「住・食が保証されてても全ての個体にとって"楽園"とは限らない、ネズミの世界を覗いていた筈なのに人間の世界を観ていた気分になりました。」などの投稿がありましたが、読者のあなたはいかがでしょうか。現代日本においては出生および死亡届を役所に提出することが戸籍法にて義務付けられているため、人口調査は当たり前のこととして日々行われておりますが、あなたは厚労省のホームページに掲載されている、人口動態調査の頁を自分で開いて確認したことがありますか。手前もまだまだ努力が必要ですが、どんなことでも自主的に調べること、思考する事を怠ってはなりません。日々何が出来るかを考え、神の目に適った行いをし続けましょう。


次に考察したいのは、人間の目ではっきりと視認することは出来ない「夢」についてです。夢について辞典を引くと下記のように書かれています。

睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。「怖い夢を見る」「正夢」
将来実現させたいと思っている事柄。「政治家になるのが夢だ」「少年のころの夢がかなう」
現実からはなれた空想や楽しい考え。「成功すれば億万長者も夢ではない」「夢多い少女」
心の迷い。「彼は母の死で夢からさめた」
はかないこと。たよりにならないこと。「夢の世の中」「人生は夢だ」
(出典:小学館、デジタル大辞泉)

世に属していた頃の自分を思い返してみると、目先の些細な問題をいかに解決するかに悩んだり、家族や職場の人間関係について思い煩ったり、今にして思うとくだらない事、儚いことに時間を浪費しておりました。しかし、手前は世の中の異常に気がついて人は何のために生きているかについて考えるようになり、物事の本質や根本的な原因を考えるようになりました。日本全体が危機的な状況にある事を知り、夢を見ている場合ではないと思うようになったのは今から四年ほど前のことでした。

では聖書には夢についてどう書かれているのでしょうか。旧約聖書には夢を表すヘブライ語 חֲלוֹם が六十四回使われていて、創世記 四十~四十一章にはヨセフが二人の囚人とエジプトの王ファラオの夢を解き明かす場面が書かれています。この場面に関してはご自分の聖書で見直してみてください。ここでは新約聖書にある夢に限定して話を進めます。夢を意味するギリシア語 ὄναρ は、マタイによる福音書にのみ六回登場する単語です。ὄναρ が含まれた聖句は以下の通りです。

 

・このように(婚約者のマリアが妊娠している事を知り、縁を切る事について)思案していると、主の天使が夢に現れて彼(ヨセフ)に言った。「ダビデの子ヨセフ、おまえは恐れず妻マリアを迎え入れなさい。彼女の子は聖霊によって受胎したのである。彼女は男の子を生む。おまえはその子をインマヌエルと名付けなさい。その子は自分の民を彼らの罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(一章二十〜二十二節、拙訳)

・だが、「ヘロデのところに帰るな」と(学者たちに)夢でお告げがあったので、別の道を通って彼らの国に帰って行った。学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子とその母親を連れてエジプトへ逃げ、我が告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデがその子を探し出して殺そうとしている。」彼(ヨセフ)は起きて、夜のうちにその子と母親を連れてエジプトへ逃げ去り、ヘロデが死ぬまでそこに居た。「我はエジプトから我が子を呼び出した」という、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。(二章十二〜十四節、拙訳)

・ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて(二章十九節)

アルケラオが父のヘロデに代わってユダヤを統治していると聞き、そこに行くことを恐れた。だが、夢でお告げがあったため、ガリラヤ地方へ引きこもり、ナザレという町に来て住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」という、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(二章十九〜二十三節、拙訳)

 

以上の箇所はいずれも「夢の中でお告げ」があり、旧約時代に主が「預言者(たち)を通して言われたことが実現する」という形の文が繰り返し使われています。これらに対応する旧約聖書に書かれた預言をいくつか列挙します。

 

イザヤ書 七章十四節(拙訳)

それ故、主は御自らしるしをあなたたちに与えられる。見よ、おとめが孕んで男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

インマヌエル(ヘブライ語 עִמָּנוּאֵל)とは「わたしたちと共に神がいる」という意味です。新約聖書では上記のマタイ一章二十三節のみインマヌエルという表記がされており、それ以外ではイエスと表記されています。処女であったマリアが妊娠するという奇跡は神のみが成せる業で、人間には決して真似ることが出来ません。

 

ホセア書 十一章一節(拙訳)

イスラエルが少年だった頃、我は彼を愛した。

そして我はエジプトから呼び戻し、我が子とした。

 

ここでいうイスラエルはヤコブと神の教えに従う人々、両方の意味を含んでいます。また、エジプトはイスラエルの民を奴隷として使う国、悪の王国の例えです。神は神の教えを遵守するイスラエルの民を我が子として俗悪な世の中から救い出されることがこの聖句から読み取れます。

 

イザヤ書十一章一節(拙訳)

エッサイの株から一本の若枝が生じ

その根から一本の若枝が育つ

 

エッサイはダビデの父親です。ダビデの家系からイエスが誕生することを、この聖句は表していると手前は理解しています。

以上、ὄναρ が用いられている聖句の意味について考察してみましたが、一箇所別の形で ὄναρ が使われている聖句がありますので、それについても記載しておきます。

 

マタイによる福音書 二十七章十九節(拙訳)

彼(ピラト)が裁判の座に着いている時に、彼の妻からの伝言があった。「あの正しい人に関わりを持たないでください。わたしは夢で随分苦しめられました。

 

四つの福音書を読まれた方なら誰もが理解されていると思いますが、その生涯において何の罪を犯されなかった主イエス・キリストは裁判にかけられ、総督ピラトは妻からイエスに関わりを持たないで(誤審をしないで)との警告を受けていたにもかかわらず、愚かな群衆の声の大きさに押されてしまい、罪人バラバを釈放し、イエスに鞭を打ってから十字架刑に処す事を決めてしまいました。いつの時代も群衆は自分に甘く、自主的に学ぼうとせず、神の目ではなく他人の目を意識してしまい、いつの間にか多数派である反キリストになってしまうのです。

(画像引用元:ミカエル氏、真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」)

 

また、「夢」と似た言葉に「幻」(英語のビジョン)という言葉がありますが、西洋かぶれした大多数の日本人は、ビジョンという言葉を格好良いと見做しているのでしょう。ミカエル氏のブログ「真の聖書福音と預言」に出会うまでは手前もまったく意識していませんでしたが、言葉による侵略を軽視するのは非常に危険です。ビジョンという言葉を美化した記事を引用します。

「ビジョナリーカンパニー」の概要

まずはビジョナリーカンパニーの概要から見ていきましょう。「ビジョナリー」とは「先見性」だったり「未来志向」といったような意味を持っています。

ビジョナリーカンパニーの定義

ビジョナリーという言葉が「先見性」などを意味していたように、ビジョナリーカンパニーは優れた企業を指します。具体的な定義は、

  • 業界で卓越した企業である
  • 見識ある経営者や企業幹部の間で広く尊敬されている
  • わたしたちが暮らす社会に、消えることのない足跡を残している。
  • 最高経営責任者(CEO)が世代交代している
  • 当初の主力商品(またはサービス)のライフ・サイクルを超えて反映している。
  • 1950年以前に設立されている(設立後50年以上経過している)

というように本書で定められています。

カルト文化

ビジョナリーカンパニーは「カルトのような文化」を醸成することによって、社員に「特別な会社にいる特別な人間」という強い自覚を与えます。つまり自社で働くために必要な資質を明確にして、企業文化との一体化を促すのです。

そう聞いてみると、何だか怖いような気がしないこともないですが、こうして社員に「特別な自覚」を与えることで高い意識を継続させるのです。もちろんみんなが同じ文化に染まっているので、会社一丸となって物事に取り組むことができます。     

(引用元記事:ビジョナリーカンパニーとは?意味や具体例を紹介!、識学総研)

手前がかつて属していた会社も「ビジョナリーカンパニー」「グローバル企業」などと自称していました。横文字を使うことが格好良いと考える軽薄な人間ばかり…。このような会社は、老害社員が権力を握り続けて、夢や幻を追うカルト企業というのが実態です。ビジョンという言葉から連想されるミカエル氏の記事「コロナ茶番は神世界秩序(NWO)の道具」から引用させていただきます。

 

(引用ここから)

いい加減にテレビなんかを信用するのはやめましょう。テレビという言葉は、英語のtelevision(テレビジョン)から来ており、この英単語はtell a vision(テルァビジョン)をまとめたものです。ビジョンは映像という意味だけでなく理想像、幻影という意味もあります。要するに、テレビは悪魔崇拝をしているNWO支配層の支配層と被支配層を二分する共産主義の醜い理想像を語る装置、愚かなスポーツ、バラエティ番組、お笑い、ドラマ、映画等の幻影を見せて現実世界や政治経済、そして聖書から大衆の注意を逸らし、虚偽情報によって騙して扇動したりNWO支配層に従うように仕向ける洗脳する装置なのです。テレビだけでなく、ネットにおいても同様で、大手報道機関が書く情報や御用学者や御用医師らがネット上に出している記事を読んだり動画を見て信じるならテレビを見ているのと一緒です。

(引用ここまで)

 

テレビやスマホ、パソコン等の電子機器の画面に映し出されている映像は物事の本質を映し出しているかどうかを考えたことはありますか。デジカメやスマホなどで撮った画像を共有して、友達と一時的な共感を得ることがそんなに大切なのでしょうか。コンピューターの処理速度や画像処理技術はとても高度に発達しましたが、その弊害として誰でも人を欺き易くなってしまったことについても目を向けるべきだと思います。(参考動画:Fake Robot(Corridor Crew)、ジョーバイデン(Eden Media)、共に Youtube)夢や幻を見ることの虚しさについては以下の聖句でも理解できると思います。

 

ユダの手紙 八~十節(拙訳)
同じように夢想家たちは身を汚し、権威を拒み、輝かしい者たちを罵るのです。しかし、天使長ミカエルは、モーセの遺体について悪魔と言い争った際、敢えて罵って告訴しようとはせず、「主がお前を諫めてくださるように」と言いました。彼ら(夢想家たち)は知りもしない事を罵り、理性のない獣のように本能的に理解している事柄に依り自滅する。

 

今回、前半では聖書を表面的に読むだけでは何が罪に該当するのかが理解し難いということを、後半は聖書の預言が必ず実現することと、夢や幻を追い求めることの虚しさを自分なりの言葉で読者のあなたに伝えさせていただいたつもりです。下記画像の聖句やヘブライ人への手紙四章十三節に「神の御前に隠された被造物は何ひとつなく、すべてのものは神の目には明からさまであり、我らは神に対して自分のことを弁明しなければなりません。」(拙訳)とある通り、神は人の心の中まで評価され、すべての人間を分け隔てなく裁かれる存在です。この記事が難解な聖書理解の一助、あなたがミカエル氏の教会の門を叩く切っ掛けになりましたら幸甚です。最後までご覧いただきありがとうございました。