プーチン大統領が「スターリングラード空港」の名称復活を約束したというニュースが出ましたね。
多くの日本人にとっては、「ふーん、地名を戻すだけでしょ」と思うかもしれない。
でも、これはただの名前の話ではない。
これは、「命の扱い方」についての話と思う。
そして、「国家が人をどれだけ道具として扱ってきたか」の話でもある。
◆ロシアは、昔から命を使い捨てている
スターリングラードの戦いを以前、映画で見ました。
ソ連が善、ドイツが悪と描かれるべき作品であるにもかかわらず、ソ連も大概、ドイツと変わらんという描写が目についた印象です。
ソ連兵たち貨物列車で次々に戦場に送られ、車両の扉が開いた時点で目の前は戦場。
銃は2人に1つしか渡されず、戦場に突撃を命じられるわけですよ。
銃を持てなかった兵士は、前にいる仲間が死んだらその銃を拾って前進せよ――それが命令。
もし後ろに下がれば、「味方」の憲兵に撃ち殺された。
つまり、ロシアは戦場で兵士を“弾”のように扱った。撃ち尽くされたら、次の命を装填するだけとでも考えてるんでしょう。
◆シベリア抑留も同じ構造だった
戦後、約60万人の日本人捕虜がシベリアへ連行されてます。
その中で5万〜6万人が飢え、寒さ、病、暴力で命を落としている。
多くの人は「ひどい非道だ」と思うかもしれない。僕らの感覚からすると、たしかにその通り。
ここで、よく考えてみる。
シベリア抑留が“特別”な非道だったわけではない。
ロシアにとっては、自国民ですら同じように使い捨てにするのだから、そもそも捕虜など、人間扱いする理由がない。
◆チェルノブイリ、そして今の戦争も
1986年のチェルノブイリ事故。
事故直後、放射線の危険すら知らされないまま、消防士や兵士が現場へ送られ、被曝して命を落とした。
防護服もなく、鉛のシートもない。命を守るための装備は一切なかった。
彼らもまた、“国のために黙って死ね”と言われたのだ。(いやそもそも、そういう事実すら隠した)
ウクライナ戦争ではどうか。
訓練もほとんど受けていない若者たちが前線に送り出され、「死んだこと」にされる。
遺族への連絡はない。
報道も規制され、彼らは最初から「いなかったこと」にされる。
◆平和ボケした日本人に伝えたいこと
こうした話をしても、「そんな昔の話されても…」「戦争だからしょうがない」と言う人がいますよね。
でも、それは「今のロシア」でもまったく変わっていないという事実を知らない。
ロシアにとって、人の命は「使うもの」であって、「守るもの」ではない。
それは過去の話ではなく、現在進行形のロシアの思想と制度だ。
日本のように、「命は大切に」「人を死なせないように最善を尽くす」文化に生きていると、こうした国家の実態が想像できないのかもしれない。
でも、それは恐ろしい“無知”だと思う。
プーチンは先日、ウクライナ戦争で命を落とした遺族に会ったとき、なんと言ったか。
「死ぬのが早いか遅いかだけの問題だ」
と、言ったんだよね。言い切りよった。
こんなの日本の総理大臣が口にしたら、内閣総辞職やがな。
そんな価値観の合わない人間が、すぐ近くにいるわけで。
◆名前を戻すだけじゃない、「記憶の書き換え」だ
「スターリングラード空港」――この名は、単に地名を戻すのではない。
国家がかつて命を燃料にしていた時代を、「英雄の時代」として塗り替えようとしている。
「死んだのは無駄ではなかった」
「国家のために命を捧げた者たちは偉大だ」
そう言って、命を踏みにじった側が正当化されていく。
そしてまた、人が「使われる」時代がやってくる。
◆私たちは、見なければならない
遠い国の話だと思わないでほしい。
これは、「命をどう扱うか」という国家観の問題であり、民主主義と専制主義の本質的な違いを示す事例だ。
ロシアは、変わっていない。
変わる気もない。
そして、そんな国家が、今も隣国を侵略し、命を燃やし続けている。
「スターリングラード空港」という名が示すのは、懐古でも郷愁でもない。
それは「命の軽視の復活宣言」だ。
最近の日本は、ちょっと戦争を舐めていると思う。
静かに見過ごしてはいけない。
歴史は繰り返す。
そして、無知は最も安く買える破滅だ。