こんにちは、ヤッパくんです。
今日も元気に鉄道の話をしていきます。
先日、鉄道ニュースを眺めていて、こんな記事に目が留まりました。
JR西日本が「踏切ゲート-Lite+」を開発。
小型特殊自動車にも対応する改良版で、2025年度には50か所設置予定――と。
ふむふむ、と思って読み進めるうちに、なんとも言えない気持ちがこみ上げてきました。
いや、誤解のないように言いますよ。
これは素晴らしい取り組みです。
本気で拍手を送りたいくらい。
だけど同時に、こんな問いが浮かんできたんです。
「安全のために進化したこの設備、本当に“安全”を生んでいるだろうか?」
技術が進化するほど、人は考えなくなる?
かつて日本中に張り巡らされた線路の上には、「第4種踏切」というちょっとした落とし穴があります。
警報機も遮断機もなく、ただ“ここを渡っていいですよ”と線路が道を横切っている場所。
当然、事故も多い。
その対策として登場したのが「踏切ゲート」。
自分で押して開けないと渡れない仕組みにすることで、「立ち止まって安全を確認する」ことを促す構造です。
そしてこのたび登場したのが、その改良版。
特殊車両も通れるようにするって、なかなかのアップデートじゃありませんか。
でもね、ここで僕はふと思ったんです。
本来、“自分で立ち止まって安全確認をする”というのは、人間が当たり前にやるべきことじゃなかったのか?
あの頃、園児は知っていた。
思い出してください。
黄色い帽子の園児たちが、手を上げながら横断歩道に立つ姿。
「右見て、左見て、もう一度右!」
誰に教えられるまでもなく、小さな命は自分を守る術を身につけようとしていた。
なのに、私たち大人になるにつれ、それを“デバイスに任せるようになった”気がしませんか?
警報機が鳴ったら進まない。
遮断機が下りたら立ち止まる。
それってつまり、「機械が言わなきゃ止まらない」ってことですよね?
“見なくてもいい環境”が“見ない言い訳”になってないか?
ぼくらの暮らしはどんどん便利になっています。
踏切だけじゃありません。自動ブレーキの車、スマホのナビ、家電のAI…。
でも便利さに囲まれた結果、ぼくらは「判断すること」「考えること」から、少しずつ離れていってる。
特に交通安全において、それは命に直結する話です。
「だって警報鳴ってなかったから…」
「遮断機が下りてなかったし…」
それ、装置に責任を押し付けてませんか?
あなたの命を、いつから機械に預けたんですか?
踏切ゲートは、“装置”というより“問いかけ”だ。
今回の「踏切ゲート-Lite+」は、僕にとって単なる設備じゃありません。
「あなた、本当に今、渡って大丈夫?」という問いを投げかける存在なんです。
技術が進化することで、
逆に人の意識が退化してしまうことがある。
その危うさに、うっすら警鐘を鳴らしているようにも感じます。
だって本当に、何も考えずにゲートを押して渡っていいはずがない。
装置は“安全”じゃない。安全は、「その装置をどう使うか」という意識の中にあるのです。
「命を守る装置」じゃない、「命を守るきっかけ」に。
JR西の取り組みを僕は心から称賛します。
事故を減らすために、どんなに細かい場所にも手を入れていこうとする姿勢には、本当に頭が下がります。
でも、装置を増やすことで、
「安全の意識」が置き去りにされることがないように。
たとえばゲートの横に、こう書いてあったらどうだろう。
「左右左、見た? 聞こえた? 生きて帰りたいなら、それが最初の一歩。」
ちょっと怖い?
でも、命の話だからこそ、これくらいのリアリティは必要かもしれません。
終わりに:便利の先にあるものを、忘れないように
鉄道の安全は、設備だけで守れるものじゃない。
それを使う人の「意識」と「判断力」によって完成するものです。
どれだけ技術が進歩しても、
どれだけ設備がスマートになっても、
人が考えることをやめたら、そこに安全はありません。
だから次に踏切を渡るときは、
こう思ってみてください。
「このゲートは、通るためにあるんじゃない。生きて帰るためにあるんだ。」
安全は、機械任せじゃない。
あなたの意識が、その第一歩です。
以上、今日も線路の端っこから人生を見つめるヤッパくんでした。
今日はいつにもまして説教くさい、胡散臭い笑
次回は「なぜローカル線の駅名はやたら情緒的なのか?」を考察します。
それでは皆さん、ご安全に!