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講演「水戸の心日本の魂」〜水戸学の本質を考える。但野正弘氏



講演メモ⤵︎

・水戸徳川家当主徳川昭武と渋沢栄一はパリの万国博覧会に行った。

水戸の人々は、薩長の動きや水戸出身の徳川慶喜が大政奉還に追い込まれたことなど、明治維新を必ずしも歓迎していなかった

・徳川光圀は、水戸初代徳川頼房の三男。江戸でやんちゃをしていたが「史記」の「伯夷伝」を読み感動して反省。兄弟が家督を譲り合った話。自身の兄の子を養子に迎えた

・徳川光圀は、「大日本史」を編纂した。人物中心の紀伝体の歴史書(完成は250年後、1906年、全402巻)

・日本は建国以来、革命で異民族の侵略・国家の滅亡は一度も無かった。光圀はその根本を大日本史を通じて人によるものであると断じた。皇室に対する無限の尊崇と愛情が、「尊皇・勤皇」であり「尊皇敬幕」である、とした

・幕末は、日本の国家的意識・光圀公の精神の蘇りの時期であった

・水戸の商家の次男だった藤田幽谷は、尊王攘夷論(1808〜)の基礎の概念をつくった

・藤田幽谷の門人会沢正志斎は、英国捕鯨船が茨城に上陸した際、水戸藩に派遣され訊問を実施。英国の東洋侵略の状況と意図を察知し、「新論」を著作。公刊は著作後33年後。(1857)吉田松陰らに影響を与えた

・烈公徳川斉昭の登場。水戸藩天保の改革を推進した。徳川斉昭公の尊王攘夷論の真相は、攘夷は難しい。外国との貿易する方が得策だと考えていた

・総船印の制定、日章旗を制定したのは徳川斉昭公と島津斉彬公の建言によるものとされる

・徳川慶喜公は、徳川斉昭の七男。徳川宗家を継いだが、大政奉還を行なった。再挙を促されても日本の国体は他国とは異なり天子に向かって弓を引くことはしないと誓った。これは水戸家の教え、尊皇の信条からきたものである

・大日本史の編纂から、道徳や尊皇を旨とする水戸学の概念ができた

・英仏戦争が幕末の真相。形式上外国からの表向きの干渉を排除し明治維新を成し遂げたのは水戸学であり日本の魂こころである。