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来年で「平成時代」が終わろうとしているときに、改めて歴史を学びたくなります。

昭和史の第一人者半藤一利氏の終戦まで版「昭和史」(1925-1945)。

 

戦後72年が経ち、昭和史を詳しく知らない人が多くなっていることは、日本がとても豊かで平和である証明でもあります。それ自体はとてもいいことのなのですが、昭和史の教訓を果たして日本の政財官のリーダーは本当の意味で認識しているだろうか?昭和史の教訓を日本人がその弱点を認識しているだろうか?と考えさえてくれた内容です。

 

以前に触れたこともありますが、半藤氏が指摘する昭和史から見た日本人の教訓や弱点とは

 

①国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてはいけない

 

②最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しとうとしない

 

③日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害がある

 

④ポツダム宣言受諾が意思の表明でしかなく、終戦は降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人はまったく理解していなかった(国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった)主観的思考による独善

 

⑤何かことが起こった時に、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想(その場その場のごまかし的な方策・大局観がない・複眼的な考え方がほとんど不在)

 

この5点です。

 

・日本をリードしてきた政治的指導者・軍事的指導者は根拠なき自己過信に陥っていた。まずくいったときの底知れぬ無責任

 

・日本人は幻想、独善、泥縄的な発想から抜け出ていない

 

・情報を軽視し、驕慢な無知に支配された

 

日本の戦後民主主義は、憲法はじめ戦前戦中の教訓を基に構成されている部分が多い。昭和の時代は縁がある祖父母父母が生きた時代。縁があるからこそ、客観的事実としての歴史を知っておいて、日本人の弱点をきちんと認識しておくことが未来に繋がるのだと思います。

 

 

 

読書メモ↓

 

・1865(慶応元年)は国策を「攘夷のための開国」という開国と決め、そこから新しい国づくりをする節目となる年だった

 

・当時、インド・ビルマ(ミャンマー)・シンガポールはイギリスの、香港はイギリスの租借、インドシナ三国はフランスの植民地、フィリピンはアメリカの半植民地だった

 

・日本だけは、アフリカの戦争などの幸運で植民地にならずに済んだ

 

・日本は40年の近代化や日清・日露戦争の勝利によって、ようやく近代国家を完成させた

 

・日露戦争とは、帝政ロシアの南下に脅威を抱いた日本が南下を食い止めんと自存自衛のために起こったもの

 

・満州とは①日本本土を守る先端の防衛線②資源供給地③人口流出先として(移民政策)

 

・満州を日露戦争に勝ったことによって日本は手に入れた

 

・1910年は朝鮮半島を併合。強硬手段だったが、国際的には認められた

 

・中華民国からすれば、国内内戦に無関係な日本が満州の諸権益を奪っているのは許せないと思うのは自然

 

・日本は日露戦争で勝って急に威張りだしてしまったアジアの島国

 

・中国では国家づくりが完成していない時に排日運動が盛んで満州の権益を返せ、という声が強かった(大正~昭和初期)

 

・昭和とは、中国が統一に向かい、日本が最大の仮想敵国とみていたロシアも新しい国づくりをはじめる、国際情勢が激動しはじめたときにスタートした

 

・第1次世界大戦で、日本は突然参加し、イギリスから頼まれてドイツに参戦し勝利。戦勝国側となる。ドイツの権益である、マーシャル諸島や南洋諸島を委任統治地とした

 

・ワシントン軍縮条約と日英同盟の廃棄を伴った世界体制が昭和に入ってからの大問題となる

 

・張作霖は満州の大軍閥として君臨していた、それが張作霖爆殺事件に。沈黙の天皇ができあがった

 

・統帥権干犯問題。軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろうと口出しできない考え方が確立してしまった

 

・元老の西園寺公望氏は天皇のご意見番として、昭和初期の内閣総理大臣をほとんど一人で決めたといっていい

 

・昭和初期、日本の国民感情は満蒙の植民地化へ向かいつつあった

 

・満州事変で、軍部以上にマスコミは世論の先取りに狂奔し熱心だった

 

・万事に対処療法的なのが日本人の特色

 

・満州事変を機に、国策として日本が誘導して満州国をつくることに決めた。しかし国際世論の批判を浴びることとなった

 

・上海事変は田中隆吉と川島芳子が黒幕

 

・5.15事件で犬養首相暗殺された。政友会は潰されて、政党政治は息の根を止められてしまった

 

・中国本土と分離して「満州国独立」を宣言

 

・リットン調査団は必ずしも日本が悪とは決めつけなかった

 

・当時の毎日新聞は、日本が国際連盟で孤立しているなら連盟の外にいても孤立ではないか、と主張した。国際連盟脱退に向けての国策を応援した

 

・国際連盟全権大使の松岡洋右は、強気のように見えて実はそうではなかった

 

・国際連盟脱退は、「栄光ある孤立」ではないにもかかわらず排外主義的な攘夷思想に後押しされた国民的熱狂を起こした

 

・孤立化した日本は軍部が支配する国となり、国民的熱狂に押されながら戦争への道を突き進むことになる

 

・国会では昔も今も国家的政略や戦略が議論されていない

 

・日本は一気に軍国主義化したのではなく、昭和8年くらいまでは軍にたてつくことができていた

 

・軍の中では「統制派」(永田鉄山・「中国一撃論」中国と戦争を)と「皇道派」(小畑敏四郎・「予防戦争論」ソ連とまず戦争を)の二つの派閥ができはじめていた。

 

・陸軍の政策は天皇の軍隊として国家総力戦で戦える強力な統制国家をつくる方向に統一された

 

・軍部にとっては天皇を守っている穏健和平分子の重臣層が邪魔であった

 

・天皇機関説とは、

①帝国憲法にある天皇の絶対的権威を認めるが天皇は国家の上に乗っただけの機関であるべき

②天皇は国家を統治し陸海軍を聡指揮するが、政府が主体的・立憲的に自由主義的に国家を運営するべき(美濃部説)

③天皇は絶対であり、国家主権も絶対であり、その力で国家をよりよい方向に運営してゆくべき(北一輝)

結局③の方向に日本は進んでいく

 

・天皇機関説、国体明徴の政府声明以降、日本の言論は狭められ、軍国主義化が進んだ

 

・1935.8.12統制派の中心永田鉄山が皇道派相沢三郎に惨殺された。これが皇道派青年将校が起こしたクーデターニ・ニ六事件の発端

 

・陸軍は統制派が制圧

 

・広田弘毅内閣は、

軍部大臣現役武官制で軍部の政治介入を決定的にした

ドイツ派で日独伊三国同盟への道を決めた

北(ロシア)守南進を決めた→これは英米とぶつかるということ

この三つをやって日本の戦争への道の発端となった

 

・日本は国民が知らないところで軍部と財閥や政治家が結託し、戦争体制をつくりつつ南進政策に邁進してゆく

 

・西安事件は中国のナショナリズムが一つになって抗日戦を可能にする歴史の転換点となった

 

・昭和12年は日本には中国を一撃するべしという空気

 

・昭和11年に外務省は日本を大日本帝国と呼称することを決定

 

・盧溝橋事件そのものは真相はわからないままだが、中国軍がしかけて皇道派牟田口連隊長の独断命令で大きくなってしまった、との見方

 

・「支那事変」と呼称したのは、宣戦布告をしていないから

 

・南京で日本軍による大量の虐殺と各種の非行事件の起きたのは動かせない事実。だが中国が言うように30万人はあり得ない話

 

・近衛首相の蒋介石国民政府相手にせずという近衛声明は致命的な失敗

 

・日中戦争を解決するためには、中国を後方から支援しているアメリカ・イギリス相手の戦争になる

 

・ロンドン海軍条約締結時は、海軍部内は穏健な条約派と強硬な艦隊派に分かれた

 

・ワシントン条約を日本が破った

 

・軍人は常に過去の戦争を戦う

 

・ヒトラーのナチスドイツが勃興し、ヨーロッパ新秩序をつくると叫びだし、日本もアジアを植民地から解放し東亜新秩序をつくるという思想に発展

 

・「東亜新秩序」の発表は日本が蒋介石を見放したと同様に日本がアメリカを含む西欧列強と縁を切ったことを意味する

 

・ノモンハン事件は陸軍中央と関東軍との方針の違いから

 

・ノモンハンの「敗戦」から日本は学ばなかった

 

・日本人は歴史に何も学ばなかった、いや今も学ぼうとはしていない

 

・陸軍はドイツと同盟を結ぶことに賛成。ドイツイタリアと同盟を組み、その力を借りて日本の戦略を有利に展開したかった

 

・海軍は対米英強調の方針を貫いていた

 

・零戦のネーミングは昭和15年は紀元2600年で正式に採用された年であったから

 

・朝鮮戸籍名改正(創氏改名)を押し付けた

 

・昭和14年、国民精神総動員を近衛首相が唱えた

 

・独ソ不可侵条約に日本は蚊帳の外だった。昭和10年代の日本人は世界そして日本の動きが見えていなかった

 

・歴史を学んで歴史を見る眼を磨く

 

・天皇は最後まで英米との協調を主張

 

・1939年9月に第二次世界大戦が勃発

 

・米内内閣は陸軍の策謀により打倒された。2.26事件後広田内閣が軍部大臣現役武官制を復活させたのが原因

 

・昭和15年、七・七禁令でぜいたくが法律で禁止。子だくさんが推奨された

 

・陸軍主導で戦時色が強まり、軍国主義への様相

 

・軍部はヨーロッパ戦争不関与の米内内閣が邪魔に。陸軍大臣が辞任し、近衛内閣が誕生

 

・外務大臣は松岡洋右。日独伊ソの四か国で英米と対等にやりあうとする意見の持ち主

 

・海軍の方針、予算陸海平等・建艦、米国を仮想敵国とする、英米蘭との衝突覚悟しつつ南進

 

・ルーズベルト大統領は、石油・くず鉄などの対日輸出を政府許可制に。日本は仏印(ベトナム)への進出の必要性が

 

・日独伊三国軍事同盟を国策で決定

 

・昭和15年9月、陸軍は北部仏印に進駐計画を立てた。三国同盟と日本軍の無謀な仏印進駐は日本軍の戦闘意識を世界的に感じさせた

 

・昭和15年9月、アメリカは対日くず鉄輸出を全面禁止に

 

・ABCD包囲網で国民も好戦的な風潮に

 

・昭和15年10月大政翼賛会が発足

 

・昭和16年は治安維持法、国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法、軍機保護法、不穏文書取締法、戦時刑事特別法などが成立

 

・昭和16年4月日ソ中立条約、しかし6月ナチスドイツがソ連に侵攻

 

・日本はドイツの勝利を信じ、その後の新しい世界地図、アジア新秩序を夢想していた

 

・昭和15年10月頃には日本の外交暗号アメリカは解読し始めていた

 

・昭和15年7月アメリカは日本の在米資産をすべて凍結

 

・アメリカの建造力は日本の10倍以上だった

 

・自存自衛をまっとうし、大東亜の秩序を建設するため、ハルノートもあって対英米戦争を決意

 

・アメリカ政府や軍部は日本の攻撃開始を十分に承知していた。アメリカは大義名分を得て堂々と第二次世界大戦に加入できた

 

・大東亜新秩序建設は、後から飾り付けた戦争目的だった

 

・日本には長期戦に対する本気の覚悟はなかった

 

・真珠湾攻撃・ミッドウェイ・ガナルカナル戦と続く

 

・山本五十六長官の戦死後、日本は敗北に次ぐ敗北が始まっていく

 

・昭和19年春はインパール作戦。作戦そのものとは違う政治的判断で作戦を遂行し、失敗がわかっていながら総攻撃命令を出したことで大惨敗を喫した

 

・昭和19年春頃から特別攻撃兵器を研究。7月にサイパンが陥落し東条内閣は総辞職、戦争の勝利がまったくないことが決定づけられた

 

・昭和19年10月初めての特攻隊が編成

 

・昭和19年度の軍事費は国家予算の85.5%735億円に

 

・昭和20年には食糧は配給制に。お上の言うとおりにしないと非国民にされてしまう恐ろしい時代

 

・昭和20年2月ヤルタ会談で英米ソの首脳会談で戦後秩序が話し合われる

 

・太平洋戦争で米軍の反攻開始後その損害が日本軍を上回ったのは硫黄島の戦いだけ

 

・東京大空襲の後、天皇は陸海軍の強い言葉を受けて本土決戦で敵を撃破し条件付きの講和ができると考えていた

 

・昭和20年4月1日米軍沖縄上陸

 

・鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣は無派閥の阿南大将に

 

・4月30日ヒトラー自決。ドイツ5月7日無条件降伏。ドイツ降伏の時点で世界を相手に戦うのは日本だけ。いかに降伏するかだけが問題となった

 

・日本はソ連を仲介とする和平工作に傾注したが、ソ連はヤルタ会談でドイツ降伏後に日本を攻撃することを明言していた

 

・アメリカは、対日戦争にソ連の力を借りる必要はないと思い始めた

 

・昭和20年7月26日日本に降伏を勧告したポツダム宣言が発せられた。アメリカは宣言前(7/24)に原爆投下を決断していた

 

・ソ連参戦(8/9)

 

・政府はポツダム宣言受諾を前提とするが天皇制の危機について議論を続けた

 

・8/12の連合国側からの返答。Subject to「制限下におかれる」との外務省解釈を軍部は「隷属する」と解釈した

 

・8/10ころから、陸軍のクーデター計画が進行

 

・8/14日本のポツダム宣言受諾が連合国に伝達。8/15正午に日本が降伏したことを天皇が放送。本当に戦争が終わったのは8/14

 

・昭和20年9月2日降伏文書に調印

 

・ソ連の提案をトルーマンが真っ向から否定することで日本はドイツのように分割されることなく戦争を終結できた

 

・昭和史は日露戦争の遺産を受けて満州を日本の国防の最前線として領土にしようとしたところからスタートした

 

・日本の死者は310万人を超える

 

・歴史に学ぶ。歴史は大きな教訓を投げかけてくれる。反省の材料も提供してくれる。日本人の精神構造の欠点も示してくれる。そのために歴史を正しく、きちんと学ぶ

 

・昭和史の20年の教訓とは

①国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてはいけない

 

②最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しとうとしない

 

③日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害がある

 

④ポツダム宣言受諾が意思の表明でしかなく、終戦は降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人はまったく理解していなかった(国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった)主観的思考による独善

 

⑤何かことが起こった時に、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想(その場その場のごまかし的な方策・大局観がない・複眼的な考え方がほとんど不在)

 

・日本をリードしてきた政治的指導者・軍事的指導者は根拠なき自己過信に陥っていた。まずくいったときの底知れぬ無責任

 

・日本人は幻想、独善、泥縄的な発想から抜け出ていない

 

・日本はノモンハン事件の教訓を生かせず、精神力の強調、国軍伝統の精神威力をますます拡充することだけが叫ばれて太平洋戦争に突入していった

 

・日本陸軍は昭和14年くらいから独断で事を進め、きちんとした報告を天皇にしていない

 

・日本陸軍は日清日露戦争以来不敗だった。そこから不敗神話が生まれ、根拠なき過信が生まれた

 

・情報を軽視し、驕慢な無知に支配された

 

・兵站の無視

 

・「驕慢な無知」とは知っていながら無視して固執すること。そういった傾向が日本人の中にある

 

・「底知れぬ無責任」

 

・組織は失敗に学ばねばならない

 

・私たちは昭和史からきちんと学ぼうとせず、ずっと後世まで引っ張っていくのではないか