トットちゃんとソウくんの戦争/講談社
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http://booklog.jp/item/1/4062199947



黒柳徹子さんと田原総一朗さんの戦争体験談本。終戦当時、黒柳さんは12歳、田原さんは11歳。


黒柳さんと田原さんはおふたりとも比較的恵まれている裕福な家庭で育っています。それでも、戦争で空襲を受け死を覚悟し、食べ物がない飢えを経験し、その体験が戦後の活躍の原点になっています。いや、戦争を生きた人としておふたりとも自分なりの戦争責任を取ろうとなさっている。


戦争はいけないこと、と経験していない人間のひとりとして言葉や口で軽々しく書いたり言ったりすることが大変恥ずかしく思います。


現在の日本の危機のひとつは、戦争体験を知る人が概ね80歳を超え、戦争とその歴史を知らない人がほとんどになってしまっていること。多くの日本人は過去と向き合わず戦争を忘却し、なかったものとしているのではないかと。

安倍首相でさえ、戦後70年談話にて過去の戦争について、

「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」


こう述べています。私たちがこの戦争に関する唯一の責任があるとすれば、過去の日本の戦争の歴史事実そのものを学ぶこと。少なくとも今の両親・祖父母が経験したであろう戦争のことを学ぶことが私たちの責任だと思っています。


それぞれの戦争体験はきっと今の豊かで平和な社会をこれからもどう支えて守っていくかを考えるひとつのきっかけになるでしょう。


是非、お読みいただけたら幸いです。








読書メモ↓


【黒柳徹子】


・本屋さんの棚に隙間が目立ち始めた。戦争のせいで、戦争が長引くにつれ、日本は物資が不足し、紙の使用も厳しく制限されて、出版社は本が出せなくなった


・私が「戦争」を肌で感じるのは、身のまわりのものが次々となくなっていくときだった


・「私に戦争責任があるとすれば、子どものころ、スルメ欲しさに兵隊さんの出征を見送ってしまったことです」


・田原氏とは、「徹子の部屋」のプロデューサーが田原氏の長女敦子さんが努めていることもあり、お互いの戦争の記憶、平和観をもちよって一冊にまとめましょう、ということになった


・戦争は、何も知らない子どもの心まで深く傷つける。そして、私たちはそのことを身にしみて知っている最後の世代。戦争体験と平和の大切さをしっかりと語っておきたい


・異端児トットちゃんは、公立小学校を退学になりトモエ学園に


・トモエ学園は、学習態度に問題あり、とされた子や、外国暮らしが長く日本語が得意でない子、体に障害をもつ子などハンディを抱えた子どもたちがたくさんいた


・トットちゃんは「学習障害」だった。トモエ学園は学習障害という概念がなかった時代に子どもたちと一対一で向き合い個性をたいせつに育てていこうとした


・トモエ学園は空襲で焼けてしまった


・戦争中はみんなろくにものを食べていなかったので、長時間校庭で立ち続けるだけの体力はなかった。食べるものがない。それが私の経験した戦争というもの


・食べ物は配給制になり、お米から大豆になった


・いつ死ぬかも知れないから、大豆を今全部食べるか、残しておいて食べるか迷った


・空腹に耐えながら、いつ自分や親が死ぬかもしれない死ととなりあわせの日常をあのころあたりまえに生きていた


・私たちが無事でいられたのは、たまたま爆撃機が自由が丘周辺を爆撃しなかったからというだけのことだった


・たった15つぶの大豆を、毎日ひとつぶひとつぶ愛おしみながら口に入れていた


・海藻麺はとてもまずく大嫌いだったがそのおかげで飢え死にせずにすんだ


・父に召集令状が


・「眠いし、寒いし、おなかがすいた」と言いながら学校に通った


・1945年3月10日東京大空襲では10万人に近い人が犠牲になった。空襲を機に青森に疎開


・栄養失調が原因で全身がおできだらけになった。お母さんが野菜と魚を交換してくれて、煮魚を食べたおかげでおできは完治


・青森と北海道の往復は、青函連絡船が爆撃機や潜水艦の標的となっていたので命がけだった


・汽車に乗ろうお母さんをせかした。もしせかしていなければ青森空襲を受けて死んでいたかも


・戦争が終わって空襲がない、という安心感があった


・父はシベリアに抑留されていて1949年に復員してきた


・徹子さんの夢はオペラ歌手になること


・アレグレッティー「テレビは今世紀最大のメディア。戦争さえも家のテレビで観られる時代が来るだろう。テレビには力がある。その国がよくなるもわるくなるもテレビにかかっている。テレビは永久の平和に寄与できると信じている」


・この世界に入ったときから、少しでも戦争を肯定するような番組やドラマには出ないと決めていた。「徹子の部屋」で、毎年終戦記念日が近づくと、さまざまなゲストの方たちに戦争体験を語っていただく企画を続けて「平和がいかにたいせつか」を一人でも多くの人に伝えたい


・「テレビはおもしろいし、楽しい。でもときには楽しくないこと、目を逸らしたくなることもしっかりと伝えることこそ、テレビのたいせつな役割なのだ」なぜ戦争は起きてはいけないのかを、「徹子の部屋」うぃ通じて知っていただくのはとてもだいじなこと


・池辺良 陸軍少尉として輸送艦に乗って移動中に潜水艦の攻撃を受けた。ジャングルでヘビ・トカゲ・ワニ・ミミズまで食べた。斬りこみたいを組織するからお前の小隊から3名出せという命令がきて戦死した


・千玄室 特攻隊員として出撃を待つ身だった。母親の名を呼ぶことで心の落ち着きを取り戻した


・三波伸介 紙に天丼やオムレツの絵を書いて空腹を紛らわせた


・愛川欽也 貴重なかりんとうを一か月半かけてなめ続けた


・乙羽信子 自宅が焼けた。戦争中自宅が焼けたり親類縁者が死んだりするのは当たり前のことだった


・加藤治子 終戦後でも、病院の院長からアメリカ兵が来たら戦って死ね、と言われて青酸カリを入れて隠し持っていた。戦争で犠牲になるのはいつも弱い立場にいる人たち


・高峰秀子 教育というものはある意味ほんとうにおそろしい


・宮尾登美子 親たちはわが子を失ってもそれを悲しむ余裕すらなかった


・芦田伸介 満州で中国人から娘を売ってくれと言われた 女の子は500円、男の子は300円


・三輪明宏 自宅の長崎で原爆に。被爆者は「いずください」と拝んで死んでいった


・戦争は一生涯消えない傷を人々の心に残す


・芦田伸介「無力の罪」戦争は大きな罪だが、戦争というものに無力だった自分にも責任がある


・「スルメ欲しさに旗を振って出征する兵隊さんを見送ったことに今も罪悪感を抱いている。どんなことがあっても、戦いに行く人たちを、殺し合いに行く人たちを、万歳万歳と日の丸を振って送るべきできではなかったと思うからだ。私は無責任だった。無責任だったことが私にとっての戦争責任なのだ」


・気になっているのは、命の大切さを理解できない若い人たちが目立つようになってきたこと


・人間が一度死んだら二度と生き返らないという、ごく当たり前のことが通じなくなっているのは恐ろしい


・ユニセフ親善大使となったこと。ユニセフの支援は終戦直後1949年から15年間、日本に大きな貢献をしてくれている。脱脂粉乳はユニセフからの援助物資だった


・自分は子どもたちのために働くべくして生まれてきた


・ルワンダの内戦の恐ろしさは、それまで顔見知りだったとなりどうしが、民族が違うという理由だけで殺し合いを始めたこと


・よくもわるくも今の日本は平和

・子どもを思いながら死んでいった人の骸骨はこわくない


・ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは子どもを殺す目的で地雷や爆発物が大量にあった。ぜったいに許せないことだが、仕掛けをする人にも家族がいていいお父さんが、他民族に対して残忍なことができる人間に変貌してしまう。そこに戦争というものの底知れぬおそろしさを見る

・カンボジアのポルポトは原始共産制を標榜し、知識層を大量殺戮し、貨幣、医療、学校制度をすべて廃止した


・ハイチでは家族のために売春をする子も


・ユニセフ親善大使を引き受けて2016年で33年目


・世界の子どもたちの年間死亡者数は33年前の1400万人から590万人まで減ってきた


・子どもは自殺しない。子どもというのは、どんなことがあっても生きていこうとするもの。神さまによって、子どもは前を進んでいくようにつくられている。590万人の子どもたちは、生きたい、生きたいと思いながら無念のうちに死んでいった


・徹子の部屋やユニセフ親善大使は90歳まで頑張るつもり


・子どもたちを抱きしめるのは、スルメ欲しさに兵隊さんの出征を見送った私が果たすべき、戦争責任のとり方





【田原総一朗】


・桜の名所は、1940年に「皇紀2600年」に祝賀行事の一環で桜の植樹が全国各地で盛ん行われたことから


・田原家はもともと「鉄惣」という屋号の鉄くずやだった。祖父から屋号の惣を取って総一朗となった


・紀元2600年の記念行事には、長引く日中戦争や物資統制に対する国民の不満をそらし、アジアに支配を拡げる国家体制づくりをめざす目的があった


・満州事変は、「南満州鉄道を爆破したのは中国の兵隊で、それに怒った日本軍が中国軍を攻撃した」と説明を受けていたが事実はまったく逆だったことを戦後になって知った


・日本が満州国をつくったのは、英国などの先進帝国主義の植民地支配のやり方に倣ったもの。日本は欧米の先進国と肩を並べたかった。さらにいえば、当時の日本は日清戦争以降中国を見下していた


・盧溝橋事件から始まった日中戦争は、対中戦のスローガンとして「暴支膺懲」(生意気な中国を懲らしめる)だった


・日中戦争の見通しの甘さ杜撰さは①中国への根強い民族蔑視②情報収集能力が極めて低かった

こと、②は太平洋戦争も同様


・「大東亜共栄圏」構想は、欧米の植民地支配に苦しんでいる東南アジアの国々を解放して、日本を中心にアジア全体を発展させていく、ことであったが、実際はイギリスやフランスに代わって東南アジア全体を手中に収めようとしたにすぎなかった


・日本はアメリカを刺激しないよう細心の注意をはらう必要があったが、南部仏印進駐が原因で、石油の輸出全面禁止を決定させるほどアメリカを怒らせてしまった。日本の欠点は情報力のなさ。国際社会から孤立していた日本には外から情報を入手する力がなかった


・太平洋戦争開戦時、アメリカは世界一の軍事大国であり、戦争に必要な石油の大半を押さえていた。軍部は日本の石油備蓄量は1年半しかないので、対米戦争を先送りすればするほど状況は不利になるので短期決戦を決断した


・戦争反対の昭和天皇が対米戦強硬派の東条英機を総理大臣にしたのは、陸軍を抑えるためだった


・太平洋戦争は軍部の暴走によって始まったが、軍部だけがアメリカとの戦争を望んでいたのではなかった。多くの国民がアメリカと一戦交えることを望み期待していた。マスコミも「皇国日本がアメリカに負けるはずがない」と開戦を支持していた


・ハル国務長官の「ハル・ノート」で東条は対米戦争を決断、御前会議で天皇は日米開戦の聖断を下した


・真珠湾攻撃の大勝利はアメリカでは卑怯なだまし討ちとして米国の怒りを買うことになった。だが、開戦直前に外務省の暗号文がアメリカに解読されており、アメリカが日本の先制攻撃を想定し、それを利用して第二次世界大戦に参戦しようと考えていたのも事実


・12月8日はモスクワでドイツ軍がソ連軍の反撃にあって退却した日。同盟国のドイツがソ連に負けたことによって日本の指導者が考え直し、悲惨な結果に終わった太平洋戦争をあるいは回避できたかもしれない


・日本軍が南部仏印においてイギリスの最新鋭戦艦を撃沈したのは、戦艦は飛行機では沈められないという従来の軍事常識を覆した


・大本営発表の日本軍の勝利のニュースで日本がこの戦争に勝つのは当たり前のように思われた


・連戦連勝の日本の勢いが止まる契機となったのが1942年6月5日のミッドウエー海戦。大敗の原因は、日本とアメリカの情報収集力の差。アメリカは暗号をキャッチしレーダーで艦隊の動きをつかんでいた


・ガナルカナル戦に日本陸軍は33000人投入したが、戦死者が2万人、うち戦病死者が15000人でほとんどが餓死者だった。6か月の闘いで、補給路を断たれていた。日本陸軍は兵站の補給を極めて軽視する軍隊だった


・ガナルカナル戦で日本の熟練パイロットの大半が戦死した


・山本五十六連合艦隊司令長官の戦死は米軍の日本海軍の暗号解読にあった


・アッツ島での日本軍の全滅で大本営ははじめて「玉砕」という言葉を遣った。玉のように美しく砕け散るという言い方。だが、全滅の原因は補給路を確保できないことにあった。兵士たちは見殺しにされたのがほんとうのところ


・田原少年は、裏山で野草をとったり、野原に畑をつくったりした。川で魚を釣ったり、カエルやトカゲも食べた


・名古屋は1945年3-5月に3度の空襲に遭い、焼野原になった


・疎開組はみんな勉強ができた。成績は上位だったが、疎開組全員に抜かれ、田舎と都会の教育レベルの差を痛感した


・マリアナ沖海戦で航空海上戦力の大半を失う


・サイパンの闘いは1944年7月日本軍の玉砕によって終結。これによって米軍は日本本土の爆撃が可能に


・岸信介軍需時間は、戦争を終えるべきだと主張し東条は岸を罷免しようとしたが、強硬に拒否し、東条内閣は総辞職して小磯国昭内閣が成立


・フィリピンのレイテ沖海戦では、特攻隊が出動するようになった。生還の可能性ゼロの非人道的な作戦は戦局的にも焼石に水の作戦だった


・1945年4.5月になると軍事教練が始まった。「天皇陛下に忠誠を尽くせ」「この戦争はアジアを解放する聖戦だ。大東亜戦争に参加して名誉の戦死を遂げるのだ」「君たちはお国のための捨て石になるのだ。寿命は20歳までと思え」と教えられた。死ぬことがむしろ生きる目標だった


・一億一心、大人も子どもも心を一つにしてアメリカと体当たりで戦うべきだと教えられた


・1945.2ヤルタ会談でソ連の対日参戦が決まる、1945.4~6沖縄戦、戦艦大和撃沈、連合艦隊壊滅、1945.4鈴木貫太郎内閣成立1945.4.28イタリアムッソリーニ銃殺、4.30ドイツヒトラー自決5.7ドイツ無条件降伏


・1945.6.22昭和天皇が招集した最高戦争指導会議で戦争終結についてはじめて天皇が口を開いた


・アメリカはヤルタ会談でソ連の対日参戦を促したものの、日本の敗北が時間の問題になるとソ連参戦前に日本を降伏させたいと考えるようになった


・1945.7.26、米英中の名において日本に降伏を勧告するポツダム宣言が発せられた


・1945.8.6広島で原爆投下。同年末に14万人が亡くなった


・8.8長崎にも原爆が投下され死者7万人。8.10御前会議で天皇はポツダム宣言受諾を宣言


・玉音放送で戦争が終わったことを聴き、この先何を目標に生きていけばいいのかわからずひたすら泣いた


・太平洋戦争で犠牲になったのは310万人


・日本は世界の列強と肩を並べたい驕りから対中戦争を始め、情報収取能力の不足により外交戦略を怠誤って世界から孤立し、負ける対米戦争へと突っ込み、敗戦を重ねても降伏を潔しとせず犠牲者を増やし続けた


・どうして日本は戦争を避けられなかったか、日本は国民一丸となって無謀な戦争に突入していったのか、開戦一年で雌雄はほぼ決していたのに3年8か月余りも戦いをひきずり、本土決戦という破滅の道を選択しようとしたのか、太平洋戦争という申告すぎる教訓を生かすためには常にそのことを考え問いかけ続けなくてはならない


・二学期で教師たちは、一学期までと180度かわってしまった「この戦争は日本の侵略戦争で、わるい戦争だった。戦争をはじめた日本の指導者は犯罪者。今後は戦争が起こりそうになったら阻止しなくてはならない」あまりにも露骨で、理不尽な価値観の転換であり、その強烈な違和感は権力やメディアに対する不信感にかわっていった


・「世の中には絶対正しいことなんてない。権力者の言うことは簡単に信用してはいけない」ジャーナリストになったのもそのときの違和感が奥にしみついていたから


・戦後も食料事情は改善せず、仏壇を売った


・日本国憲法はGHQの草案をもとにつくられている。その目的は日本の国力を弱め、戦争をできない弱小国家にすることにあった


・憲法第九条には、日本は非武装であり、戦争をすることはできない


・憲法はアメリカからの押し付け憲法であるが、日本国憲法は、主権在民、言論表現の自由、基本的人権、男女同権の理念は素晴らしい憲法だ


・朝鮮戦争が始まると共産党員を弾圧するレッドパージが行われ、反戦平和を主張すればアカレッテルを貼られた


・1954年からの自衛隊は憲法との矛盾を指摘され続けている


・1960年は安保改定の年であり、インテリ層は大半が左翼だった。入社した岩波と社員がほとんど左翼思想の持ち主であり、社長もデモに参加するヘンテコな会社だった

・81歳でも現役を続けられるのは好奇心の強さとテレビというメディアへの愛着がある。映像のもつ力の強さ

・ベトナム戦争は、戦闘の映像をお茶の間で見ることのできる人類史上初の戦争だった

・カメラマンたちが撮影したのは、共産主義と戦う南ベトナム軍や米軍の姿ではなく、戦争の悲惨さや残虐さだった

・当時は日本でもアメリカでも放送規制がないに等しく過激な映像が放映された。アメリカ国内で反戦運動が激化した

・超軍事大国のアメリカはテレビのせいでベトナム戦争に敗れた

・テレビを通じて西側と自分たちには大きな格差があることを東ドイツの国民すべてが知ったことがベルリンの壁崩壊へとつながった

・田原の橋本首相インタビューで橋本首相は総辞職した

・日本人は戦争に対する強い拒否感を抱き続けてきたからこそ、日本国憲法は一度も改正されずにきたのだが、それに手がつけられるとき、日本はどんな国になるのだろうか

・岸信介は、安保条約の不平等性を解消するには、日本が自主防衛の努力をすること、憲法改正して集団的自衛権を持ちアメリカのために駆けつけられるようにすることが不可欠だと考えた

・池田首相以降の歴代首相たちの誰もが憲法、安保問題には本腰を入れてとりくまなくなった。それですんだのは東西冷戦の時代だったから。冷戦が終わると日本の橋頭堡としての役割は終わった

・冷戦時代、日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではないか、という恐怖が、冷戦後はアメリカから見捨てられるのではないかという恐怖へとかわった

・冷戦後、日本は日米関係の強化を選んだ。日米安保を双務に転換するために解釈改憲や重ねてきた。そして集団的自衛権の行使容認につながった

・アメリカは9.11テロを例外として他国に攻められたことがない。それを考えれば現実的に集団的自衛権の行使はまずあり得ない。集団的自衛権の行使は名をとって実はとっていない

・安倍首相は憲法改正しフランスやイギリスのような普通の国にしたいと考えている。普通の国にするということは、ポジティブリスト方式の自衛隊法をネガティヴリスト方式にすること。だが僕は反対だ

・軍隊というのは、戦える形にしておけばかならず戦うものてむあり戦争体験者として嫌というほど思い知らされている。武力を行使できない自衛隊だからこそ平和が担保される

・僕は決してかたくなな護憲主義者ではない。自衛隊の存在は認めるべきだと考えているがらま9条一項はぜったいに守るべき

・東京裁判のきっかけとなった満州事変や日中戦争や太平洋戦争はすべてパリ不戦条約違反。不戦条約を破り、勝てるはずのない戦争に国民を巻き込み、その結果として東京裁判を否定するのは誤れる歴史修正主義

・世界対イスラムの対立構造は第一次大戦後、ヨーロッパ列強が世界中を植民地化し、中東を勝手に線引きしてしまっていること。第二次世界大戦の戦勝国はその反省をまったくしていない

・日本が始めた先の戦争の反省に立てば、東京裁判が肯定されるのは当然のこと。東京裁判を率直に認めることでアジア諸国と強い信頼関係を結ぶことができる

・田原さんと黒柳さんの共通点は、戦争の体験と自分の目で物事を見て確かめることの大切さ、長くテレビの世界で生きてきた

・ソ連という国には言論の自由や表現の自由がまったくなかった

・いかなる理由があろうと、二度と戦争に関わりたくない、というのが黒柳さんや僕たち戦争体験のある世代の原点であり、理屈よりも戦争は嫌だという拒絶反応が先に立つ

・若手論客に、正しい戦争、間違った戦争があるという考え方をする人がいるが、まったく与することができない。この世に正しい戦争などありましない

・高市総務大臣の電波停止発言は、テレビが強い影響力を持ちテレビの力を恐れているからこその牽制球

・生涯一ジャーナリストとして、日本が戦争のできる普通の国にならぬよう言うべきことはしっかり発言していく