日本人と天皇 - 昭和天皇までの二千年を追う/中央公論新社
¥1,998
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http://booklog.jp/item/1/4120046761



私の、歴史に対する興味であり好奇心であり追い続けてきたのは、




「日本の権力者の変遷があったにもかかわらずなぜ天皇制が一貫して続いてきたのか?」


「先の大戦の実質的な最高責任者である昭和天皇が東京裁判においてなぜ裁かれなかったのか?」



この二点の根本的な疑問でした。これを一生かけて少なくとも自分なりの認識を持っておこう、としたときに、ジャーナリスト田原氏がまさしくこの疑問に正面から答えた本です。


本の内容はまさしく日本の歴史=天皇の歴史です。


少なくとも題名だけであっても、こういう本がなかったのか見つけられてなかったのか、わかっていませんが、昨今の天皇退位問題で天皇制について国民の関心を集めている昨今、天皇制のあり方を考えるいいきっかけになればいいと思います。


田原氏は、日本史の専門家ではありませんが、専門家からのレクチャーを受ける形でこれだけの本をまとめることができたということは、田原氏のネームバリューとしての価値もさることながら意味のあることでしょう。


天皇制とそれにかかわる日本の歴史を正しく知っておく必要性があると強く感じます。



読書メモ↓





・天皇は日本の歴史上いかなる存在で日本人にとってどのような存在であるのか


・太平洋戦争のときは来賓の市長が「今回の戦争は、侵略国家である英米蘭への聖戦であり、二十歳に達したら天皇陛下のために戦って死ね」と強調した


・丸山真男氏は、戦後日本の代表的知識人~「天皇の戦争責任が無責任であるなどということは、政治倫理上の常識が許さない」


・天皇は一貫して存在し続け、敗戦でも揺るがなかった。なぜ日本人は2000年近くも一貫して天皇を存在させつづけてきたのか


・歴史上実在していたことが確認できる最初の天皇は雄略天皇であり、天皇という称号を用いられるようになったのは天武天皇、日本という国号が定められたのも7世紀末、というのが定説


・世界に全く例がない、奇跡とも言える厳然たる事実の謎


・後醍醐天皇は、建武の新政で幕府に支配されていた日本を朝廷に取り戻した。後醍醐に尽くした楠木正成は英雄だった


・江戸幕府で、禁中並公家諸法度により、天皇は法を超える存在から家康が定めた法の枠組みに収められた


・歴史的に天皇を存続させたのは、世界に類のない日本民族の特殊性と言えるのではないか?


・第二次世界大戦は、第一次世界大戦の敗戦国ドイツに対する戦後計画の失敗によって引き起こされた(グルー駐日大使)


・グルーは天皇は開戦前の御前会議において、戦争反対の発言を行ったことを披露し(太平洋)戦争を望んでいなかったことは内部資料で明らか。天皇はシンボルであるにすぎない


・昭和天皇に戦争責任はあるが、天皇制は不可欠(グルー)


・天皇制は日本人の生活の礎石であり、最後の頼みであり、日本の健全な戦後政治構造の土台として利用できる(グルー)


・スターリンは対日参戦することで、北海道の占領を目論んでいた


・日本人が無条件降伏する上での最大の障害は、天皇と天皇制が永久に破壊されてしまうことを日本人が信じていること


・昭和天皇が鈴木首相らに講和の道を探れ、と表明したのは1945.6/22


・1945.7/16原爆実験が成功7/26ポツダム宣言8/6広島原爆投下→ソ連参戦前に米国が対日戦争の決着をつけるため


・占領後マッカーサーは日本の最高権力者。マッカーサーは天皇の存続が必要であり、天皇より軽く見られたくはなかった


・天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を廃除すれば日本は瓦解する(マッカーサー)


・マッカーサーのGHQ憲法草案3原則

①天皇は国家の最上位、天皇の職務・機能は憲法のに基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする

②国権の発動たる戦争は廃止する

③日本の封建制度は廃止される


・マッカーサーGHQは占領政策を円滑に行うために、天皇を裁判にかけず、廃位せず、象徴として存続させることを決めた


・昭和天皇は、戦争責任というものは、廃位したり自決するような軽いものではないと考えていた(松本健一)


・1945年12月の世論調査では、天皇制を是とするものは90%強。だが、私たち日本人は、戦争の総括も天皇の戦争責任の総括もしないままにしている


・天皇という呼称が使われるようになったのは、天武・持統天皇以降ではないかという説が強い


・中大兄皇子の蘇我入鹿殺害した大化の改新は、実はクーデーター。蘇我入鹿は悪役になっている


・天武の時代に天皇という称号と日本という国号がこの時代に定められたと考えられる


・朝廷とはすさまじい殺戮合戦の場であった


・天皇に代わって政治を行い、人事をとりおこなったことをみると、政治の実権は摂政にあった


・天皇は次の天皇を決められなかった


・摂政・関白が実験を握っていても天皇があってこそその地位が正当化されてきた


・摂政・関白が天皇制を守る仕組みをつくってしまったために、その後も天皇は権威として続いた可能性


・天児屋命を始祖にする藤原氏は、天照大神を始祖にする天皇家には絶対に取って代われなかった


・藤原氏はそういう経緯もあって、天皇に取って代わる気持ちはなかったが、道長は太政官をつぶした


・平清盛は下級貴族だった。下級貴族は自分の分というものがわかっていた。下級貴族は地方で武士になったが朝廷を守る存在意義があった


・源頼朝が清盛と違うところは、武家政権である幕府をつくったこと。内乱を克服した。朝廷という天皇を中心とした貴族の世界を続けさせるためには、それを守る武士たちを組織する基礎構造、それが幕府


・朝廷が存在することが、自分たち武士が存在する理由


・蒙古襲来で蒙古軍が日本軍を打ち破っていたら鎌倉幕府も朝廷も存続できなかった危険性が高い


・日本の天皇が千数百年も続いた要因は、一度も異民族に支配されることがなかったからでもある


・後醍醐天皇が目指した律令時代は、天皇中心の中央集権体制ではあったが、天皇専制体制ではなく、現実の政治は官僚に任せていく体制を意図していた。建武政権は新幕府を開きたい足利氏と合わなかった


・平安の摂政・関白の時代から、天皇には実験がなく、政治にほとんどかかわることができなかった。後醍醐はそれを天智天武の律令時代、権力と権威両方を握っていた時代に戻したかった


・足利尊氏は、鎌倉幕府の末期の状況を見て、鎌倉では駄目だと心底思い、京都で幕府を開いた


・後醍醐は吉野に入り、南北朝時代が始まった


・尊氏は天皇を生かしておいたほうが、結果的に人心も幕府に集まると悟っていた


・江戸時代までは、尊氏と北朝が正統としているが、水戸学が尊攘運動ももとで優勢となったので後醍醐の南朝が正統となった。でも明治天皇は北朝の子孫であり、明治初期に政治論争となった。教科書では、結局後醍醐、南朝正統となった


・南北朝時代は南朝解消で決着した


・足利義満は、歴史上はじめて、政治的地位を天皇と逆転させようとした。左大臣に就いた主体的な理由でもある


・足利義満に影響を与えた孟子の革命思想は、主君に大きな過失があれば諌め、聴きいれないときは、主君を廃して別の君を立てる、というものだった


・明帝は義満を日本国王として認めた。これは属国という形であっても国王だという権力の保証するものであり、国際的認知でもあった


・義満の妻は後小松天皇の代理の母となったことで義満は事実上上皇に等しい地位を獲得した。義満は皇位簒奪の野望を抱いていたとされるが、死去した


・室町幕府の衰退時で幕府権力は弱体化していたが、天皇が京都から動かなかった以上権威の没落要因とはならなかった


・応仁の乱以後、幕府も力なく、朝廷の御両所からの年貢がほとんど入らなくなり、朝廷は困窮したため、有力大名が献金などし、それを支えた。それによって朝廷は官位を与えた

・正親町天皇は、足利義昭よりも織田信長を頼りにしていた。後に信長を太政大臣・関白・征夷大将軍に任じようとした(信長は興味を示さなかった)


・天皇は謀反を起こした逆心(光秀)であっても時の勝者に寄り添い(光秀亡き後は秀吉に)、取り込みを図っている


・信長は朝廷の助けを借りながらも、一定の距離を置き、一度も正式参内をしなかった。秀吉は自分を正当化するために朝廷に豊富に資金を出し利用し、官位を手に入れた


・秀吉は九州攻めの前に、天皇の意向を持ち出して停戦命令を出した


・秀吉死後、関ヶ原の合戦の前年(1599)徳川家康は参内し、朝廷は家康を次の天下人として認めた


・江戸幕府は、天皇・朝廷を統制する禁中並公家諸法度でもって管理した


・歴史は勝者を中心に描かれるが、文学や演劇は敗者の美学を描く場合が多い


・徳川幕府は天皇を政治軍事からは追放したが、天皇の権威を利用した。秀忠の娘和子を御水尾天皇に嫁がせた


・名正天皇は称徳天皇以来859年ぶりの女帝だった


・幕府が天皇と公家を厳しく統制したのは、調停を軽んじたわけではなく、幕府の政治的利用に応えさせるため


・江戸幕府の鎖国は、日本の科学技術の進歩や情報の伝達は遅れたが、国際紛争に巻き込まれることなく200年以上平和な時代を享受できた


・幕末は攘夷と開国、朝廷と幕府の対立で国論が二分された


・安政の大獄は、幕府の立て直しというよりも、将軍の跡目争いに端を発する怨念の破裂


・朝廷は幕府に、征夷大将軍は外敵を討たせるために任命しているので戦うべきだ、としていた。松陰は、開国派だったが、武士として強引に開国させられることは認められないという立場だった


・王政復古とは奈良時代に戻る、天皇を中心とする中央集権国家をめざすのが明治維新の理念だった。のちに、伊藤博文は君臨すれども統治せずという考え方を鮮明に打ち出した


・東京遷都は、大久保が意図したが、天皇が朝廷の天皇のままでは困るという判断があり、公家集団を天皇から引き離す意図があった


・維新政府は天皇に政治的・宗教的権威を求めた、また国際的に日本の優れた特徴として万世一系の天皇の国だと強調する必要があった


・女性天皇の問題の原点は、女帝は配偶者が政治に干渉する恐れがあること、天皇は軍を統率する大元帥でもあり女性は兵役に就けなかった事情もあった


・日本にとっては、自国の安全のために、朝鮮半島が中立化していなくてはならないとしていた


・1933年日本は国際連盟から脱退した


・日中戦争は、満州事変とは逆で現地軍は戦争を拡大させない方策を取ったが、軍中央が拡大路線を決定してしまった


・近衛首相の国民政府をあいてとせず、表明は昭和政治史における最大の愚行のひとつ


・軍隊は戦争状態にあるときが最も管理しやすい


・昭和天皇は太平洋戦争開戦を回避することはできなかったが、本土決戦を主張する軍部を制して戦争を終わらせることはできた


・一学期までは、「この戦争はアジアの国々を解放し独立させる聖戦だ」だったが、二学期からは同じ教師や校長、新聞ラジオは「実は日本の戦争は聖戦どころか侵略戦争だった」と言い英雄だった東条英機は犯罪者ということになった。国家というものは国民を騙すものだと痛感した(田原)


・マッカーサーは、日本に進駐して昭和天皇を逮捕して裁判にかけるべきかの調査を命じた


・最終的に、アメリカの占領政策をスムーズに進めるために、昭和天皇を裁かず、むしろ利用することになった


・世界で日本だけ一貫して天皇制が続いているのはなぜか?


・中国では「革命の哲学」があるが、日本では「非革命の哲学」が一貫して続いている。天皇は天照大神という日の神の子孫で、高天原から降ってこの国をつくった。天照大神の血の繋がりで継承されているので革命の起こりようがない。


そのイデオロギーが成立したのは8世紀の初め、藤原不比等だと推測され、それを正当化sるうために日本書紀を編纂し、律令を制定した。目的は天皇と特別な関係にある藤原一族の権力が続くこと


・日本の天皇は権力も姓もなく、他人に官位を与える存在だった。革命が起こりようのないシステムが古代から成立していたのではないか


・天皇はしかるべき人物に姓を与え、官職を与える。権力者は、力量と血筋によって昇格し、権力の根拠を示すために天皇を必要とする。天下を仕切る強力な権力者が存在しているときは、天皇にとって代わろうというのではなく、むしろ天皇は安泰だった。天皇は統治しないから革命とは無縁な存在


・天皇が歴史上最も困窮したのは応仁の乱後のこと。この時代には権威が必要なかった。それでも天皇は情報・文化における都合よいマザーコンピューターのような存在で何とか生き残れた


・維新の面々は徳川幕府を倒すために天皇を権力者に担いだ。天皇を使えば国家統治の大義名分ができる


・1854年徳川幕府時代に日本の国旗は日の丸と決まっていた


・日本および日本人は、昭和の戦争の総括をしていない

連合国による東京裁判の判決がそのままマスメディアの歴史観となった。だが、1980年代中盤になると東京裁判史観は間違いだという意見が登場し、2000年代になるとそれが少数派ではなくなってきた。


・田原「太平洋戦争は、世界の大侵略国であるイギリス・アメリカ・オランダ・ソ連などと、朝鮮半島、台湾、満州などを手中にんした侵略国日本との、いわば侵略国同士の世界制覇をめざした戦争」と捉える


・日本は敗れた。歴史は勝者がつくるもので、勝者である連合国は国際連合の常任理事国となり敗れた日本は侵略国と決めつけられた。東西冷戦になると、少なくとも西側では日本を敵視する姿勢は消えて、日本国内では東京裁判史観が持続した。その反動が1990年代に顕在化した


・東条英機以下7人は、天皇免責のためにあえてA級戦犯を引き受けたとも言える


・敗戦後、国の指導者たちがA級戦犯という形で厳しく裁かれるなか、天皇は不可触的な存在であり続け、日本人の多くが天皇が最高責任者とわかっていながらそのことに違和感を抱かなかった


・源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康など天下を取った権力者たちは、天皇をなきものにすることが容易だったはずなのに、天皇を権威として掲げ続けた。明治維新のように権力者が国を変革するときは、ほとんど例外なく天皇を担いでいる。マッカーサーによる日本変革も天皇を担いだ「戦後維新」である