10/26
よく日常「信用出来る」とか「信用できない」とか言いますよね?
人間は毎日顔を合わせていてもわかりあえるとは限りませんよね。
その人間的信用とは何だろう?と考えてしまいます。
小生は、縁ある方々については
「縁ある人はすべて信用しつつも、100%白紙委任で信用してはならない」
という見解です。
そういう質問をすること自体が間違っているかも知れないのだから。かえって誤解を招いたり、信用されていないと原因をつくっている思われても仕方がないかも。
まあ、逆に小生を「信用出来る」と思う人は家族や同僚をはじめとして一人としていないかも(;^_^A
結構調子のいいことを言っちゃうから約束が守れなかったりする失敗もしでかしているのだから(--〆)
そう、100%信用など、完璧な人間が居るはずもない世の中で求める方がおかしいわけなのですから。
信用が出来る人というのは
信用を得るように努力するとか、そのために言っていいこと言ってはいけない事、そういう取捨選択がきちんとできる人なのでしょうね。
特に人間の本性がむき出しになるのは、緊急時・非常時・そしてお金や恋愛など利害関係に直結するところにおいてです。
親父の唯一の遺言として承っているのは
「手形の裏書はするな!」
の一言でした。お金の面では親でも信用しなかった親父ですが、商売をさせてもらっている小生も親父の気持ちはよくわかるつもりです。
これは人間よりもお金を信用しろ、というのではなくて、お金の前で弱い姿をさらけ出す人間を親父が見てきたのかも知れません。
人間はすべての人が結果責任を負えるとは限りませんが、
善意で物事を解釈しながら親しい人を信用し、かといって自分が被害を受けないように予防線を張っておくことはとっても大事だと思います。
親しき人ほど、礼をつくして手間を省かずやってゆきたいものです。
好き嫌いはあるにしても評論家佐高信はこう言っています。
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」
「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からもくるのである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現をもっている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである」
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失ってしまっていた(国民全体の)文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
いずれも厳しい言葉ですけれども、相手を信用する善意と自分を守る姿勢と両方が大事でそれらの総合評価が人間の信用に関わってくる、というのが小生の現時点での認識です。