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先月のブログで、「世界がもし100人だったら」の話を出したことに質問がありまして、そのときのやり取りを書きたいと思います。


ブログに掲載したのは別段啓蒙しようという意図はなくて、忘れずに書いておこうと思ったのです。

世界の深刻な格差を誰もが認識していたとしても、何も出来ないことをいろいろ書くことは、それが、ええ格好しいで、偽善では? という意見も出てくることでしょう。


確かに それによって何かを直接行動することはなかな出来ないことも事実。 それにこの問題は世界中の富裕層が自分たちの財産を投げ打ったとしても解決できません。

物事は何事も優先順位があるんだろうと。


自分を犠牲にして、他人や社会のために尽くすことが出来た偉人はたくさんいますが、

自分や家族、友人、同僚、取引先など身近な人々の幸せを考えながら、グローバルな深刻な問題を考えること

と同列にすることは一般の人々にとって難しいことでしょう。


もし、100人の村の話の意味があるとすれば、
標準的な日本人が世界の中ではとっても恵まれた生活をしている(もちろん日本は貧困率が高い格差社会になってしまったが)、っていうことと同時に、それを知ることが出来て、他者に対する思いやりをすることが出来る、という立場にあることそのものではないかと思っています。

自分たちがそこそこ恵まれた立場にあってこそ、他者に目を向ける能力と余裕と資格があるということです。それを認識することに意味がある、ということなのではないかと。知らない方がいい、ということにはならないわけです。

この話は、子どもの教育用の話としてあるように聞いています。

世界のこと、自分たちの位置、そういったことを認識することに意味があります。もちろん、他者と比較して幸せだとか不幸だと思うことも違うとは思うのですが。

日常生活の中で、環境でも、仕事でも、世界を知ることでも、他者のためにすることを

時間かお金か、手間ひまか、少しでも今までよりも良くなるためにそうするための方法手段を考え続けて、

直接間接に関与することが出来ることになればいいのではないかと思うのです。


まずかったら修正したらいいし、他人に迷惑をかけるなら反省してやめればいい。

よりいい方法を考えてやってみることなんだろうと。