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おそらくみんな、
心配事はとってもたくさんあります。
今の時代経営環境は厳しいですから、経営のこと仕事のこと、生活のこと、家族のこと・・・今後の見通しが決して明るいわけではないからです。
ではどういうことを心配すればよいのでしょう?
お手本というか理想があるとすれば、
「起こる可能性が高くて、対策が可能な問題」については心配をして対策すべき、ということなのだそうです。
一方、
「起こる可能性が低い問題」や「対策が不可能な問題」には、めったに起きないことや起きても対策のしようがないことを考えすぎることは、本来考えないといけないことを結果的に疎かにしてしまうかもしれません。
だから、心配事を解決するために、それなりの対策をとって、そこそこの解決にもっていくことを小さな日常の出来事から始めてみないといけないな、と気づかされるのです。
つまり「答えがある心配はした方が良いが、答えがない心配はし過ぎても時間の無駄」ということになるのでしょうか。
ただし、「答えがない心配」を堂々巡りであっても「考える」ことは時間的・精神的余裕がある時にはとっても大事なような気がするのです。
例えば、「定義づけ」など。
自分とは何か?
社会とは何か?
物事の本質とは何か?
そういったことは幅が広くて、自由な発想が出来ます。また、全肯定も全否定も出来ないでしょう。
でもそういったことをおぼろげながらも経験や知識を積み重ねながら、こんなものではないか、と考え続けることも時には必要だと。
逆説的ですが、時間的・精神的余裕があるときは、何にも考えない「無の境地」の時間も取りたいものです。
その時間をどう取ったらいいのかを考えることも「心配の種」だったりしますね。