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人は時々勘違いをします。
自分は自分の力だけで生きていると錯覚を起こす時があります。
うまくいったときはそれが自分だけの実力と思い、
うまくいかなかったときはそのことを周りや社会や環境のせいにします。

それは驕り高ぶった勘違いした自分であると。

「原罪」という言葉がありますよね。

もともとはキリスト教の世界でアダムとイブがエデンの園で犯した罪のことを言うそうです。

私は宗教は目的にしてはならないが、自己を律する多くの手段のひとつであると考えております。
でもそもそも科学と論理を優先させたい合理主義者でありたいので宗教観そのものは詳しくありませんし信心深いわけではありません。

むしろ禁断の実をこそっと食べることが大好きな人間です。

でも人は
生きているものを殺し、食べることによって生きられるわけであり、
周辺の助けがあって生きていられることを

痛い目にあってようやく分かるものなのでしょうか。

思うことと行動することは全く違うのですね。

私は快楽主義者ですから
あまり深刻に考えているわけでもありませんが、
自分の体大事に、他人求められていないのにあ~だこ~だ言うのは止めよう。
でもここだけは、というものははっきりと言おう。

正義は一つではなく立場によって複数存在する。
でも、この世界には共通しうまくいくための考え方はあるんじゃないか、と思うようになりました。これを言葉で表すほど経験も学習もしてないんですがね。



ところで、

最近深刻なのは
飲酒運転時の交通事故が多いこと。

飲酒運転は絶対に止めようね!



「償い」

作詩・作曲:さだまさし


月末になると ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに
必ず横町の角にある郵便局へとび込んでゆくのだった
仲間はそんな彼をみてみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
飲んだ勢いで嘲笑っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり

僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前にたった一度だけ
たった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ
配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影に
ブレーキが間にあわなかった 彼はその日とても疲れてた

人殺し あんたを許さないと 彼をののしった
被害者の奥さんの涙の足元で
彼はひたすら大声で泣き乍ら
ただ頭を床にこすりつけるだけだった
 
それから彼は人が変わった 何もかも
忘れて 働いて 働いて
償いきれるはずもないが せめてもと
毎月あの人に仕送りをしている

今日ゆうちゃんが僕の部屋へ 泣き乍ら走り込んで来た
しゃくりあげ乍ら 彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事件から数えてようやく七年目に初めて
あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り

「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました
だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度に
主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど
それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
 
手紙の中身はどうでもよかった それよりも
償いきれるはずもない あの人から
返事が来たのが ありがたくて ありがたくて
ありがたくて ありがたくて ありがたくて
 
神様って 思わず僕は叫んでいた
彼は許されたと思っていいのですか
来月も郵便局へ通うはずの
やさしい人を許してくれて ありがとう
 
人間って哀しいね だってみんなやさしい
それが傷つけあって かばいあって
何だかもらい泣きの涙が とまらなくて
とまらなくて とまらなくて とまらなくて