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「性善説」と「性悪説」という言葉があります。


goo辞書によると、

性善説とは

 人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。正統的儒学の人間観。孟子の首唱。

性悪説とは

人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とする説。孟子の性善説に対立して荀子が首唱。

ということは、性善説は「人は生まれたては善だが、成長すると悪を学ぶ」
性悪説は、「人は生まれたては悪だが、成長すると善を学ぶ」というもの。

一見、相対立するように思えますが結局同じでどちらも的を得ているのではないかとも思えるのです。

不毛の哲学の話かもしれません。それは人間も動物ですから、善と悪っていう概念は人間が作り出した価値観に過ぎません。だから本来持っているものが善か悪かなんてわからないのです。
善と悪の価値観は人間社会から他人がどう思うかに基づいています。これが常識であったり、ルール(法律も不文律も)であったりします。また、同じ行いをしても善と悪は利益と損失に置き換えれば鏡の関係で、その利害関係者の立場で全く正反対の捉え方をするかもしれないわけです。

人は善いことも悪いことも行いうるものですから、人を信じるかどうかとは関係のない話です。

でも、社会は矛盾と悪意の固まりです。いいこともあるけれども騙されたり他人の悪意で被害を被ることもあるでしょう。そういう経験をしたことが多い人は「性悪説は正しい」なんてことを思うかもしれません。

結論は出ないのですけれど、

私は常に他人に「善意」を以って接し、「悪意」を持ってはいけない、と思っております。ただし、社会を生き抜くためのしたたかさをもって。

それでも、人間は「性善説」により善なる性質を持っているはずだ、と信じております。

でも「性悪説」による後天的な矯正や悪事を起こさせないように、すなわち教え・学ぶこととチェック機能を大事にすることが人間にとってとっても大事なのです。

だから、たまにちょっといい話、ってのもいいですね。