前回話した龍国が日本であることはいずれまた今後の話に必ず繋がってくる。
今回は何度かに分けて岩戸開きについて話たいと思う。
日本神話の中で天照大神の岩戸開きの話はとても印象深い。
前に話したように岩戸隠れと岩戸開きはセットであり、岩戸隠れ無くして岩戸開きはあり得ないのだ。
岩戸に天照が隠れた理由は、今まで調和で保たれた自然界の秩序が隠されてしまった事である。
そのきっかけとなったのがスサノオが演じた鉄の歴史であり、自然界の八岐大蛇であるスサノオは鉄のスサノオに退治された。
さて、天照が岩戸に隠れたおかげで、外の世界は真っ暗になり至るところで禍(まが)が生じ鬼どもが暴れ出した。
禍の漢字の成り立ちから、左側のネ(示すへん)は神の祭壇を表し、右側の形は頭部のついた人骨を表す。
つまり、至るところに禍が生じた記述から、骨となった人間が至るところに転がっており、その魂を鎮めるための供養として神へ祈りを捧げている様子が伺える。
まさに鬼退治という名の神殺しの光景が目に浮かぶ。
天照大神が岩戸に隠れて疫病が流行ったという説も、至るところに死体があれば疫病も流行るであろう。
更に、天照の岩戸隠れは皆既日食を示し、不吉とされたという説も間違いではない。
皆既日食は陽から陰に転じ、更に陰から再び陽に変わる。陰から生まれた陽は新たな世界の誕生を表す。
これまで何度もあらゆる仕組みがひっくり返って隠れた話をして来たが、神話にはきちんと私たちが歩むべき道も示しているのだ。
表・時代背景や神隠しと神産みの流れを示す
裏・私たち人間の神産みと統合への方法を示す
神話は畏れる程の知恵を秘めている。
神話そのものが八百万の神々の遺伝子の集まりといえよう。
天照大神が岩戸に隠れたときに八百万の神々が川原に集まり相談した。
思金神(おもいかねのかみ)の案により、さまざまな儀式をおこない、最初に常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた、とある。
常世(とこよ)
永久に変わらない・こと(さま)。永遠。
天照を岩戸から誘い出す為にまず常世の鳥を鳴かせたのだ。
鶏は日の出(朝日)を知らせる鳥であり、長鳴鳥は鳴き声がとても長い鶏である。
つまり、永遠に変わらないこの世の始まりを告げるのだ。
表の世界では新世界の始まりを知らせたのであろう。
しかし、この時既に神々は隠されていることを忘れてはならない。
常世は隠世(かくりよ)ともいい、幽世(かくりよ)とも書かれる。
隠世は常世と同じく永久に変わらない神域を指し、死後の世界を示す。イザナミのいる黄泉の国もそこにあるとされるのだ。
・隠世(かくりよ)=隔離(かくり)された世界
・幽世=幽閉された世界
ゆう‐へい 【幽閉】
ある場所に閉じこめて外に出さないこと。
ある場所に閉じこめて外に出さないこと。
なんということであろう。
もうこの時点で外の神々は岩戸の中に入った神を永遠に出す意思がないことが分かってしまう。
機織の女神が死んだ時、実は八百万の神々は既に陰に隠されている。
機織りの縦横の仕組みは自然界万物の仕組みを表す。
それを知って天照は岩戸に御隠れになったのだ。
では外にいる八百万の神々は一体どの神々であろうか。
外にいる八百万の神々=外の国(外国)から集まった神々である。
更に、常世の反対の言葉は現世(うつしよ)である。
現世(うつしよ)=写し世(うつしよ)
1 文書・絵などを元のとおりに書き取る。まねてそのとおりに書く。
2 ある物をまねてそのとおりの形につくる。
つまりこの世は、本物に真似て作られた写し世なのである。
外の八百万の神々は長鳴鳥に現世(うつしよ)である物質世界の始まりと同時に、自然界の神々の隠世(かくりよ)の始まりを告げさせたのである。
その紙一重(神一重)の働きを叡智(えいち)と知恵の神である思金神として演じたのであろう。
古来の思金神は私たちを叡智(えいち)と繋いでくれる神であり、その叡智は私たちの心の中にある事を教える。
えいち 【叡智】
(1)すぐれた知恵。深い知性。
(2)真実在や真理を捉(とら)えることのできる最高の認識能力。
(2)真実在や真理を捉(とら)えることのできる最高の認識能力。
ち‐え 【知恵】
物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。
叡智と知恵は似ているが紙一重で違う。
叡智は善悪ではなく物事の本質や意味を教えるが、現代における知恵はどうしても善悪の判断が伴う。
古代日本は知恵よりも、叡智に繋がることを重んじたのだ。
古代日本からみる精神世界ではこの叡智は宝(金のように光る)であろう。
以前のアダムとイブの話を思い出してほしい。
その思金神が現世では、
『思いを金に変える為の知恵の神』として働いている。
物質世界と精神世界は表裏一体である。
どちらの意識世界を表に出すかで表の神の意味もまた変わるのだ。
そして物質世界と精神世界が両方大切であるように、叡智と知恵のどちらも私たちは人間は必要なのである。