【霧島神宮(きりしまじんぐう)】(鹿児島県霧島市) | 八百万の神の浮世絵師 持田大輔

八百万の神の浮世絵師 持田大輔

日本最古の歴史書『古事記』を題材に絵を描き活動しています。
八百万の神々が織りなす天地創造、天岩戸伝説など神様の喜怒哀楽が記された神話を少しでも多くの方に知って頂きたいと思います。

【霧島神宮(きりしまじんぐう)】(鹿児島県霧島市)

 


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霧島神宮は『古事記』に記載のある天孫降臨におていて、高天ヶ原から降臨した

 

ニニギノミコトをご祭神としている神社で、第29代天皇、欽明天皇(きんめいてんのう)の時代(6世紀ごろ)、

 

慶胤(けいいん)という僧侶に命じて九州南部に連なる霧島山の火山である高千穂峰と

 

御鉢(おはち)の間に社殿が造られたのが始まりとされ、平安時代の『続日本後紀』に霧嶋岑神、

 

また『三代実録』や『延喜式』に霧島神の名が見え、旧社格は官幣大社の由緒ある神社です。


しかし、火山の麓にあるという立地の幾度も被災し焼失してきました。

 

村上天皇の時代(10世紀半ば)には天台宗の僧侶性空(しょうくう)により

 

瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されますが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上してしまいます。

 

文明16年(1484年)、島津忠昌(しまずただまさ)の命により兼慶が再建したのが、現在の霧島神宮。


但、建物はその後も幾度となく炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物です。


写真は豪華な極彩色の細工が特徴的な「勅使殿(ちょくしでん)」で県の重要文化財に指定され、

 

本殿内部の装飾も贅を凝らしていて朱塗りに金細工で装飾を施され「西の日光」とも称されます。


もともと霧島山一帯が霧島神宮の境内でしたが、1871年(明治4年)の廃藩置県の際に霧島山の

 

頂上に沿って県境が引かれ、宮崎県内の土地は神宮境内から外されてしまいました。

歴代島津氏の尊崇篤く、島津四兄弟の長男で戦国武将として名高い島津義久(しまずよしひさ)は、

 

天正6年(1578年)大友宗麟(おおともそうりん)と対峙した「耳川の戦い(みみがわのたたかい)」に

 

臨む途中に参拝して鬮(くじ)を引いたとされ、また九州統一にあたっても天正14年(1585年)6月に

 

面高善哉坊(おもだかぜんやぼう)と重臣山田有信(やまだありのぶ)を、再び9月に吉田清孝(よしだきよたか)を、

 

それぞれ遣わして鬮(くじ)を引き侵攻方面を決めるなど、島津家の運命をかけた重要事や戦事の決定に際し、

 

たびたび霧島神宮の神慮を仰いでいます。

また、幕末の志士坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で妻おりょうと共に霧島連峰を

 

訪れたことは有名ですが、その頃にはすでに山頂にはニニギノミコトが突き刺したという天の逆鉾があったとされています。

 


明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。

 

別当寺に華林寺がり、霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たし、

 

仏教と深い結びつきがある土地でした。


現在の祭神は以下の7柱。

・主祭神
ニニギノミコト

・相殿神
コノハナサクヤヒメ(ニニギノミコト妃)
ヒコホホデミ(#山幸彦/ニニギとコノハナサクヤヒメの御子神)
トヨタマヒメ(ヒコホホデミ妃)
ウガヤフキアエズ(ヒコホホデミとトヨタマヒメの御子神)
タマヨリヒメ(ウガヤフキアエズ妃)
カムヤマトイワレビコ(#神武天皇/ウガヤフキアエズとタマヨリヒメの御子神)
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