アメリカ人に長崎と広島の原爆を説明するのって難しい | Minotake+ ミノタケプラス

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2022年8月に約6年の2回目のアメリカ駐在帯同、ボストンから日本帰任。これで人生15回目、結婚して7回目の引っ越し。お気に入りに囲まれ自分の身の丈に合った生活を目指しています。アスペルガー症候群の変人夫と高校2年生の男子と三人暮らし。料理とお菓子作りが大好き。

約6年のアメリカ駐在を終えて、

2022年8月に日本に帰国しました。

 

 

中学3年生で帰国したうちの子、

帰国生入試で高校受験を考えています。

 

 

2週間に1回、私の英語力の維持の為に?

ボストン時代の現地校の友達4人と

Zoomをしています、勿論英語。

 

こちらはエレメンタリーからの友達で

家族ぐるみのお付き合い。

1家族はNJに引っ越し、

もう1家族はプライベートスクールへ、

そして私が日本なので、

キャッチアップしたり。

 

そして今年の夏は

みんなでボストンに集合して、

友達のNHの別荘で

みんなで過ごす予定。

子ども達も楽しみにしてます。

そして私も炊飯器持参で

みんなのご飯作っちゃうよ🍚

 

 

 

で、受験が終わった後の予定を

話している時に、私が

「関西の両親の家に行って

それから両親の地元だった長崎を観光、

途中で広島にも寄ろうと思ってる」

と話したら

「ちょっと待って、

広島と長崎は原爆が落ちた場所だよね?

その時ご両親はどうしていたの?」

と聞かれました。

 

これ、英語でも日本語でも説明が難しい💦

そもそもの知識と語彙力の問題もある。


 

私の英語力もそうだけど、

アメリカ軍が原爆を落とした歴史的事実と

日本人が受けた感情は

なかなか切り離せない。

 

そして友達は純粋に事実、史実を

知りたがっている。

うちの親がその時何処にいたのか、

どんな生活だったのかを聞きたいんだよね。

 

食べ物が無くて苦労したって

話だけじゃないからね。

 

なかなかうまく説明出来ない

私の知識と英語力。

 


私の祖父が満州鉄道に勤めていたから

私の父は満州で育ち、

戦後に引き揚げて長崎に移住。


 

日本に一家に船で帰るのは大変で、

それこそ藤原ていさんの

「流れる星は生きている」

の世界だったと小さい時に聞きました。

 

 

 

長男だった父と私の祖父だけでも

生きて日本に帰そうと

次男や女の子達は

かなり食べ物を我慢していたらしい。

 

 

母はまだ産まれてなかったから

戦後の事しか分からない。

 

 

今回の長崎旅行、

恐らく私の両親にとっても

年齢的に最後の長崎になると思われます。


父から孫に伝えたい事もある。

 

私も展示物の英語を読んで

専門用語を知って

英語で説明出来る様になりたいです。

 

 

戦争はやはり間違っている。

 

唯一の被爆国として戦争はいけない、

原爆は絶対に使っちゃいけないって

伝えて行かないといけないね。

 

 

そして理解している事と

伝えられる事はまた別物。

伝える為には深い知識が必要だと。